頭上で刀が振り下ろされる瞬間、雫音は間一髪で左に転がった。
獲物を捕らえられなかった刀の切っ先は、地面に突き刺さる。男が刀を引き抜こうとしている間に、雫音は上体を起こした。
そして、地面の泥を掴んで、男の顔面に投げつける。
「うがぁ、目が……!」
何でもいいから、その場にあるものを活用する。投げつける、それだけでも、相手に一瞬の隙が生まれて、逃亡のチャンスが生まれる。力で敵わない相手と戦う術として、教えてもらっていた方法の一つだった。
「女、何しやがる!」
フィシを殴りつけていた大男が、激昂して近づいてくる。
雫音は再び地面の泥を掴んだ。爪に小石が食い込んだのか、痛みが走る。
今の雫音は武器の類は持っていない。何かに頼って戦う術がない。けれど此処でフィシを置いて、一人で逃げるわけにもいかない。今できる最善は、少しでも時間を稼ぐことだった。
(もし私に、戦う力があったなら)
雫音は心の中で、強く願った。
すると、こちらに向かってきていた男の足が止まる。
「っ、何だこれ。足が動かねぇ……!」
暗闇の中、目を凝らせば、男の足元に何かが絡み付いている。よく見ればそれは、蔦のようだった。どこからか伸びてきた蔦が男の足首にぐるりと巻き付き、進行を妨げている。
雫音は、どこから蔦が伸びているのかと、視線を辿る。
すると、霧が立ち込める向こう側。茂みのそばに、誰かが立っていることに気づいた。
腰元まで伸びた新緑の髪に、透き通った琥珀の瞳。美しいかんばせ。目を離したら瞬く間に消えてしまいそうな、どこか儚くて、不思議な雰囲気がある。
雫音は今が危機的状況だということも忘れて、瞬きすることもできずに魅入ってしまう。
『――長き旅路の先、霖雨創生の姫巫女に、幸あらんことを』
まるで、子守歌のようなその声を。
雫音は以前にも一度、耳にしたことがあった。
緑之国に向かっていた道中。シルヴァに攫われた際だ。
胸を静かに震わせる優しい声の正体に、雫音はようやく気づいた。
(……あなた、だったのね)
大地の番人とも云われる、地の精霊。性別の判断はつかなかったが、その美しい者は、雫音に微笑みかけると、すぅっと姿を消してしまった。
「遅くなってごめんね」
――そして、次いで鼓膜を揺らした、この声は。
雫音が一番、待ち望んでいた人のものだった。
「何だお前っ! どっから現れて……ぐあっ!」
目の前にある背中を視界に映した瞬間、喉の奥から、何か熱いものがこみ上げてくるのが分かった。
「っ、千蔭さん……」
「ただいま」
山賊たちをあっという間に伸してしまった千蔭は、振り向いて雫音を安心させるように笑いかける。そして、腰が抜けてへたり込みそうになった雫音に気づくと、その腰元を引いて抱き寄せた。
「……頑張ったね」
雫音は千蔭の胸元にそっと身を寄せた。トクトクと一定のリズムを刻む心音が伝わってくる。安心するぬくもりに、気づけば体の震えは収まっていた。
そこに、近づいてくる気配。
「っ、ごめん。おれがそばを離れたせいで……」
姿が見えなくなっていた天寧だった。逃げ遅れてしまったご高齢の女中が何名かいたらしく、そちらの避難を手伝っていたらしい。
「私は大丈夫です。天寧くんも、無事でよかった」
天寧は、雫音の言葉に目を瞠った。自分がそばを離れてしまったせいで、危険な目に遭わせてしまった。糾弾されてもいいくらいだ。けれど雫音は、天寧の身を案じてくれていたのだ。
「……うん。雫音も、無事でよかった」
天寧は微笑んだ。
初めて名前で呼んでもらえたことに気づいた雫音も、嬉しくて微笑む。
そして、地面に座り込んでいるフィシのもとへ駆け寄った。
フィシを拘束していた大男は、千蔭に伸されて気を失っている。
「フィシくん、大丈夫? どこか怪我してない?」
呆けた顔をしていたフィシは、雫音と目が合うと、今にも泣き出してしまいそうに顔を歪めた。
「お、おれは、大丈夫だけど……っ、雫音、ごめん。おれのせいで、雫音まで危険な目にあわせた。本当に、ごめんなさい……!」
フィシは涙を堪えながら謝罪する。自分の向こう見ずな行動のせいで雫音を巻き込んでしまったと、己を責めている。雫音は震えている小さな背中を、そっと抱きしめた。
「私は大丈夫だよ。フィシくんが無事でよかった」
「っ、うぅ……」
雫音の優しい声に我慢できなくなったのか、フィシはボロボロと大粒の涙を零す。
すると、フィシの涙が伝染したかのように、雫音の目からも涙が零れ落ちた。
(あれ。もしかして私、泣いてる……?)
雫音は、頬を伝う生温いものの正体に気づいて、驚いた。
泣くことなど、もう何年もしていない。
悲しみといった感情なんて、もうとっくに捨てていたのだから。いや、気づかない振りをしていたといった方が正しいかもしれない。
けれどこれは多分、悲しみの涙ではない。それなら、どうして自分は泣いているのだろう。雫音は戸惑った。けれど雫音の意思とは関係なく、涙は零れ落ちていった。



