雨の影響で、地面はぬかるんでいた。
夜の空気は冷えて、濃い霧が立ち込めている。視界が悪い。
雫音とフィシは、辺りに人の気配はないか、神経をとがらせながら忍び足で歩く。侵入してきた山賊がいる可能性もあるからだ。けれど土蔵の周りにひと気はなく、天寧の姿も見えない。
「……誰もいないね」
「だな。あの兄ちゃん、どこに行ったんだ?」
二人で顔を見合わせていれば、少し離れたところにある茂みが小さく揺れた。
「……誰かいるのかな」
「……よし。行ってみようぜ」
「え、でも、危ないよ。もし敵だったら……」
「大丈夫だって!」
フィシは二ッと笑って、茂みの方に向かっていく。
雫音はその後を追いかけた。
雫音はフィシの後ろから、一緒に茂みの方を覗き込む。もしや誰かが身を潜めているのではないかと身構えていたが、そこにいたのは黒い鳥だった。鴉にも似ているが、よく見れば頭の部分の毛が銀色になっている。瞳はルビーのように美しく珍しい赤い色をしていた。
「……この子、怪我してるみたい」
よく見れば、その小さな身体から血が滲んでいる。此度の騒動に巻き込まれて負傷したのかもしれない。野鳥には無暗に触れない方がいいと聞いたことがある。けれど雫音は、その小さな命をこのまま見捨てることができなかった。
「ごめんなさい、少し触るね」
雫音は持っていた手拭いを、いまだに流血している箇所にそっと押し当てて、止血を試みる。しかしこのまま此処に留まっているのは得策ではないだろう。
「そいつ、連れて行くのか?」
「うん、できればそうしたいけど……」
雫音は視線を下ろした。黒い鳥は微動だにすることなく、雫音をじっと見上げている。
「一緒についてきてくれる?」
「……ピー」
鳥は雫音の言葉を理解しているかのように小さく鳴いた。
(これは、承諾してくれたのかな?)
雫音は両手のひらをそっと地面に下ろそうとした。
――しかし、雫音とフィシが完全に警戒を解いていた矢先のことだ。
「おい、何すんだよ!」
「っ、フィシくん!」
フィシの身体が宙に浮いた。フィシを片手で軽々と抱えた大男は、無精ひげを生やし、毛皮のようなものを片方の肩にかけている。見るからに薄汚い身なりをしているこの男は、人目を盗んで屋敷に侵入してきた山賊だ。
「おい、見ろよ。子どもと女がいるぜ」
「へぇ、こりゃあいいな。連れ帰って土産にするか?」
大男の後ろから、更にもう一人現れた。こちらは華奢な身体つきをしているが、同じような清潔感のない身なりをしていて、腰には刀を差している。
「おい、お前もこい」
「っ、離してください!」
「おまえ、雫音に触んなよ!」
華奢な男に手首をつかまれた雫音は、抵抗虚しく、そのまま担ぎ上げられてしまう。そして山賊たちはどこかに向かって歩き出す。
――どうすればいい。大声を出して、誰かに助けを求めればいいのか。けれど辺りに人の気配はない。それに、山賊の仲間が潜んでいる可能性もある。味方が駆けつけてくれるとは限らない。けれど、何かしら策を打たなければ。このままでは確実に連れ去られてしまう。
雫音が必死に思考を巡らせていれば、フィシを抱えていた男が唸り声を上げてフィシを地面に落とした。
「おい、どうした」
「いってぇ……このガキ、小刀を隠し持っていやがった」
フィシは所持していた小刀で、男の手を斬りつけたようだ。手の甲から血が滴っている。
「そ、それ以上近づくな! 雫音を解放しろ!」
「あぁ? ガキがいくら抵抗したところで、お前にできることなんて何もねーんだよ。痛い目見たくなけりゃ、大人しくしてな」
フィシは震えながらも、小刀を握りしめて男を睨みつけている。
しかしそんな果敢なフィシの姿を、男は鼻で笑った。どうせ何もできやしないと、フィシを完全に甘く見ている。
(このままじゃ、フィシくんが危ない)
雫音は、護身術で八雲たちに教わったことを思いだした。
ゴクリと生唾を飲み込むと、意を決して、口を大きく開ける。
「いっっ!」
「あ? 何してんだよ、お前」
「っ、この女が、肩に噛みついてきたんだよ!」
雫音は男の左肩に、思いきり歯を立てた。男の手が怯んだすきに、その身体を思いきり押して、地面に倒れ込む。
「はは、女にやられてんじゃねーよ」
「っ、ウルセェな! お前もガキにやられてんだろーが!」
仲間に笑われた華奢な男は、顔を赤らめながら、地面に倒れ込んでいる雫音を鋭い眼光で睨みつける。
「女。あんま調子にのってると、お前も痛い目みてもらうことになるからなぁ」
「おいおい、傷物にしちゃ価値が下がっちまうだろーが」
「いいだろ、俺らで回しちまうことにすれば。殺した女の身体を暴いてやるってぇのも、一興じゃねーか?」
「お前も大概イカレてんなぁ」
男は腰に差していた打ち刀をスラリと抜いた。
そして一歩一歩、ゆったりとした足どりで雫音に歩み寄る。
「おい、やめろ! 雫音に手出すんじゃねーよ!」
「ガキは黙ってろっていってんだろーが!」
「っ、フィシくん!」
視線を横に向ければ、フィシが頬を思いきり殴られている姿が見えた。
雫音は叫んだ。
けれど声は震え、引きつり、思うように出せなかった。
――死がすぐそこまで、近づいているのが分かる。
怖い。怖くて堪らない。
けれど、もしかしたら――このまま楽になれるのかもしれない、と。
そう思った雫音は、そっと目を閉じる。
この状況が、怖くて、痛くて、苦しくて。早く解放されたかった。
けれど、次の瞬間。
瞼の裏に浮かんだのは、千蔭の優しい微笑みだった。
“生きることを、絶対に諦めないこと”
(……約束、したんだから)
――ここで、諦めるわけにはいかない。



