「それじゃあ、俺が離れている間、この子のことは頼んだからね」
「御意」
「うん、了解」
八雲と天寧に雫音のことを頼んで、千蔭はすぐに屋敷を発つことになった。狼煙が確認できた場所はそう遠くはないので、千蔭たちの足ならば、日付けが変わる前には帰ってこれるだろうとのことだ。
「あの、千蔭さん」
「どうしたの?」
「その……、お気をつけて」
雫音は掛ける言葉を探して、けれど、しっくりくるものが思い浮かばずに、結局は無難な言葉を選んだ。
「そんな不安そうな顔しなくても、すぐに戻ってくるよ」
千蔭は眉を下げて、困り顔で笑いながら雫音の頭に手をのせる。
――自分は、そんな不安そうな顔をしているのだろうか。
雫音にはその自覚がなかった。
けれど、この靄がかった感情の正体。漠然と胸にある、恐怖や孤独感。千蔭が遠くに行ってしまうことが、ただただ……心細い。そう感じていることに、気づいてしまった。
「……そうだ。俺がいない間さ、まぁ、ないとは思うんだけどね。万が一、アンタに危険が迫るようなことがあった場合」
不安そうに瞳を揺らしている雫音を見下ろして、千蔭は優しい声音で話しかける。
「出会った頃のアンタなら、きっと自分なんかどうなってもいいって諦めて、傷つくことを厭わなかった。でも、今は違うよね? だからさ、」
続けられた言葉が、耳に届いた瞬間。
何故だか雫音は、泣きそうになってしまった。
“生きることを、絶対に諦めないこと”
死にたがりの雫音は、もういないと。今の雫音なら、大丈夫だろうと。
千蔭の目には、そう見えているらしい。
それが、とても嬉しかった。
「約束、できる?」
「……はい。約束、できます」
「ん、いい子」
千蔭は安心した顔で笑っている。その表情を目に焼き付けながら、“千蔭さんが無事に帰ってきますように”と、そう願った。
***
夕食を食べ、湯浴みも済ませた雫音は、部屋で一人休んでいた。
けれど夜になっても、千蔭は帰ってこない。狼煙が上がったと報告があった場所の近くまで様子を見に行くだけだから、日が変わる前には戻れるはずだと言っていたのだが……何かあったのだろうか。
心配になりながらも、雫音にできることは、ただ無事を祈ることだけだ。
することもないのでさっさと眠ってしまおうと思ったのだが、布団に入ってみても、一向に眠気はやってこない。
そこで、ふと思い立った雫音は、持ってきていたリュックを開いた。取りだしたのは、ノートとペンだ。
(せっかくだし、この世界であったことを、ノートに書き留めておこう)
雫音はペンを走らせた。
風之国で、間者と間違えられて牢屋に入れられたこと。雨女神様だと勘違いされたこと。それでも受け入れてもらえて、宴を開いてもらったこと。与人や千蔭と、街へ繰り出したこと。甘いパンケーキを食べたこと。与人に毒を盛ったと勘違いされて、再び牢屋に入れられてしまったこと。はじめて、自分の思いを口にすることができたこと。雨を降らせるために、緑之国へ来たところまで書いて、雫音は書く手を止めた。
ノートに書き記したこの時間は、ほんの数か月ほどだ。この短い時間に、目まぐるしいほどたくさんの出来事があった。出会いがあった。その一つひとつを、改めてしっかりと思い返していれば――。
“パァンッ”
外で、銃声のような音が響いた。
遠くの方から、大勢が駆ける足音や、怒号まで聞こえてくる。
(っ、何が起こってるの?)
雫音はノートとペンをリュックに仕舞って押し入れに突っ込み、縁側に面した障子戸の方に近づいた。外の様子を確認しようと思ったその時、障子戸を隔てた先に人影が現れる。
「起きてる?」
「っ、はい。起きてます」
障子戸を開けば、そこには天寧が立っていた。その顔にはめずらしく、焦りが滲んでいる。
「あの、外で一体何が……?」
予想はついていたが、問わずにはいられなかった。その予想は外れていると、そう言ってもらいたかった。しかし、現実は非情だ。
「……敵襲みたいだね。ここから逃げるよ」



