「……ふふ、そうか。よう分かった。では最後に、おぬしに一つ、良いことを教えてやろう」
目から剣呑な雰囲気を消し去った藤霧の巫女は、柔らかな表情で話し始める。
「祈雨の舞、という言葉を聞いたことはあるか?」
「けうのまい、ですか? ……いいえ、聞いたことないです」
「そうか。祈雨の舞とは、文字通り、祈りの雨を降らせる舞のことをいう。要は、雨乞いの一種じゃな。本来は、神職者がこのような祈祷をおこなって、雨を降らせるんじゃ。しかし此度の干ばつにおいては、どれだけ神威の高い者が祈祷をおこなっても、雨が降ることはなかった」
「それは、藤霧の巫女様がおこなっても、ですか……?」
「うむ、そうじゃ。雫音よ。おぬしは、雨を自在に降らせることができるわけではないんじゃろう?」
藤霧の巫女は、全てを知っているような口ぶりで聞いてくる。
雫音が頷いたのを確認すると、人差し指をピッと立てた。
「じゃが、一つ方法がある。わらわのように精霊たちと意思疎通をとることができるようになれば、感情に左右されることなく、雨を自在に降らせることができるようになるかもしれん」
「っ、本当ですか?」
「あぁ、本当じゃ。そうすれば、感情に左右されて雨が降ることもなくなる。そして祈雨の舞をすることで、雨を降らせることができるようになるじゃろう」
この体質にずっと悩まされ、苦しんできた雫音にとって、その言葉は一筋の光のようにも思えた。
「精霊と意思疎通をとるためには、どうすればいいんですか?」
「まず大前提として、神威の高い者でなければ精霊の気配を感じ取ることすら叶わん。その点に関しては、おぬしはすでに条件を満たしておる」
雫音自身は、神威が高いという自覚など一切なかったが、藤霧の巫女がそうだと言うのなら、きっとその通りなのだろう。
「そして、不安定な心でいる者の声に、精霊は応えてはくれん。強い心を持つのじゃ」
「強い、心……」
雫音は目を伏せた。後ろ向きの感情にばかり囚われていた卑屈な自分には、強い心という言葉が、ひどく不相応に思えたからだ。
「ふふ、そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫じゃ。おぬしは、この世界にきた時と比べて、ずいぶんと変わったように見える。……精霊たちが、そう言っておる。じゃから、雫音は今のままで良い。心身ともに、少しずつ成長してゆけば良いのじゃ」
藤霧の巫女は、チラリと庭の方に目を向けてそう言うと、雫音の頭を優しく撫でた。
幼子のように小さい手は、一見、ひどく頼りなく思える。けれど、どこか安心する、母のことを思い出すような――そんな温もりを感じる手だった。
「あとは、雫音自身がこの世界に馴染んでくれば、自然と精霊たちの気配を感じ取ることができるようになるじゃろう」
藤霧の巫女が言う精霊と意思疎通をとる条件は、ひどく曖昧なものに思える。
けれど藤霧の巫女は、今のままの雫音で良いのだと、そう言ってくれた。それならば雫音にできることは、変わりたいという気持ちを常に持ち続けていくことだ。ただ守られるだけではなく、自分の身は自分で守れるように、努力する。そうして少しずつ、強い心を持った人になれたらいい。
「さて。わらわは、そろそろお暇するとしようかのう」
「あの、藤霧の巫女様は、緑之国に住んでいらっしゃるんですか?」
「わらわは、各国を廻っておるんじゃ。じゃから旅の途中に、またばったり相見えることもあるじゃろうて」
藤霧の巫女が立ち上がれば、控えていた千蔭がサッと動いて障子戸を開ける。
「千蔭よ。雫音のことを頼んじゃぞ」
「はい。それが俺に課せられた命ですから」
「命、のぅ」
藤霧の巫女は、千蔭の言葉を、含みを持った声で復唱した。けれどそれ以上何か言うことはなく、最後に雫音を見遣る。
「わらわは、雫音がこの世界にやってきたのは、必然じゃったと思うておる」
「それは……私が雨女だったから、ですか?」
「そうじゃのう。雫音が雨をもたらす力を持って産み落とされたこと。それもまた、必然じゃ」
雫音が“雨女”であることも、決まっていたこと。
それはこれまでの人生で、どれだけ神様を恨んだとしても、願ったとしても、雫音の雨を降らせる体質が、運命が変わることはなかったということだ。
それが事実だったとして――前の世界にいた時の雫音ならば、絶望していたかもしれない。やっぱりそうなのかと、運命は変えられないのだと、無感情に諦めていたかもしれない。
けれど今は、これで良かったのかもしれないと、少しだけ、そう思える。
「じゃが、雨をもたらす体質を持って生を授かったのが必然だとして、その生をどう生き抜くかは、己が決めることじゃ。それは忘れてはならんぞ」
「……はい」
しかと頷いた雫音を見て満足げに笑った藤霧の巫女は、帰っていった。
(……必然、か)
この世界にやってくることが、決められていたことだったとして。
そんな必然の中で、雫音はたくさんの優しい人たちに出会うことができた。
「色々話して、少し疲れたんじゃない? 天寧と八雲も呼んで、少し休憩しようか」
「……はい。そうですね」
――それは、何物にも代えがたい、特別なことのように思えた。



