「雫音。お前にお客さんだ」
「はぁ、はぁ……私に、ですか?」
雫音のもとを訪ねてきたのはシルヴァだった。護身術の基本である構えや体裁きを八雲たちより教授してもらっていた雫音は、乱れた呼吸を整えながら目を瞬く。
この世界に、雫音の知り合いなどほとんどいない。千蔭や八雲、天寧に与人といった、風之国で出会った僅かな者だけだ。そのため、緑之国までわざわざ雫音を訪ねてきたという人物に、心当たりなど一切なかった。
「俺も同席するよ」
鍛錬の様子を見守っていた千蔭が声を上げる。もしかしたら、火之国の回し者である可能性もある。用心するに越したことはない。
千蔭は懐にある苦無を確認するように、そっと撫でた。
――しかし、そんな千蔭の心配は杞憂に終わった。
「……貴女でしたか」
「千蔭か、久しいのう。そして……ふむ。おぬしが雨女神様か」
客間で待っていた巫女装束姿の女人を見て、千蔭は愁眉を開いている。
「あの、お知り合いの方ですか?」
「うん。この方は、まぁ格好を見て分かる通り、巫女様だよ。藤霧の巫女様。巷では玉依の巫女様とも云われていて、雨女神様が国土に恵みの雨をもたらすだろうって預言したのも、この方なんだ」
黒のおかっぱ頭で、巫女装束を身に纏っている目の前の少女は、雫音が想像する巫女の姿と遜色ない。しかし雫音の目には、どう見ても、十代そこそこの少女にしか見えない。こんなに幼い子が力のある巫女様なのかと、少し不思議に思ってしまう。
「おぬし、わらわのような小童が巫女なのかと、疑っておるな?」
「え、いえ! 疑っているわけではないんですが……その、とてもお若く見えるので、驚いてしまって……」
「ふふ、素直じゃのう。わらわはこんな見目をしておるが、中身はとうの昔に成人を迎えておるから、心配せずともよいぞ」
千蔭が、雫音の耳元で補足してくれる。
「この人、与人様がまだ幼子だった頃から、この見た目のままらしいんだ。年齢不詳なんだよね」
「そ、そうなんですね」
与人が幼い頃から……それなら彼女は、一体幾つになるのだろう。とても気になるところだが、聞いたところではぐらかされてしまうのが落ちだろう。
雫音は居住まいを正すと、藤霧の巫女に真正面から向き合った。
「あの、こうしてお訪ねしていただいたのに、すごく申し訳ないんですが……私は雨女神様ではないんです」
「あぁ、知っておるぞ」
「……え?」
「おぬしがそう言うことは、分かっておった」
藤霧の巫女は、にんまりと笑う。少女の外見には違和感を感じるような、無邪気とは程遠い、愉悦の笑み。
「おぬし、名は何という?」
「あ……私は、水樹雫音といいます」
「雫音、か。よい名じゃな。雫音がそう返してくることは分かっておった。けれど、今この地にもたらされている恵みの雨が雫音のおかげであること。それもまた、事実じゃ」
藤霧の巫女は、まるで全てを分かっているかのような、悟った顔をして事実を述べる。
――つまり、それは、どういうことなのか。雫音は雨女神様などではない。けれど藤霧の巫女は、雫音に対して「おぬしが雨女神様か」と、確かにそう言った。
「私は、神様なんかじゃない、普通の人間なんです。でも、藤霧の巫女様、は……私がこの世界にやってくることを、はじめから知っていたんですか?」
雫音は知りたかった。自分が何故、この世界に呼ばれたのか。これはただの偶然なのか。元の世界にいた雫音はどうなったのか。……自分は、帰ることができるのか。
「そうじゃのう……わらわも、雫音の疑問の全ての答えを知っているわけではない。それに、雫音が自ら見つけなければならぬ真実もあるじゃろう」
「私が、自分で……?」
「そうじゃ。雫音が何故この世界にやってくることになったのか。その答えは、雫音、おぬし自身で見つけなければならん。だが……うむ。まずは少し、この世界のことについて話しておくとするか」
藤霧の巫女は、雫音の後ろで黙ったままの千蔭を一瞥する。
「千蔭、おぬしはどうする? このまま一緒に話を聞いているのか?」
「俺は……この子がよければ、このまま同席させてもらいたいです」
「じゃそうだが、雫音はいいかの?」
「……はい。私も、千蔭さんに同席してもらいたいです」
――むしろ、千蔭が共にいてくれることが、雫音にとってはとても心強く感じる。
藤霧の巫女は、雫音の返答に微かに笑うと、ゆっくりと語り始めた。



