――苦しい、苦しい、苦しい。

 雫音は走っていた。先の見えない暗闇の中、足を懸命に前へと動かす。
 息が切れる。荒い呼吸は、多分、恐怖心からくるものでもあった。

 自分がどこへ向かっているのか、それさえも分からない。
 だた、逃げたいと思った。どこか遠くへ。

(……ううん、違う。早く、行かないと)

 立ち止まった雫音は、何故だか、漠然と――そう思った。

 自分を待ってくれている人がいる。だから、行かなくてはならない。
 そんな使命感ともとれる思いが、雫音の心を突き動かす。

 けれど、()く先が何処なのか。
 やっぱり答えは出ないまま、雫音は再び、走り出した。


 ***

 雫音は目を覚ました。重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。

(……夢、を、見ていた気がする)

 けれど、どんな夢を見ていたのか忘れてしまった。しかし、雫音は胸にくすぶる確かな焦燥を感じていた。

 このままでは駄目だ。
 何が駄目なのか、はっきりと分からない。でも、このままではいけない気がする。

 雫音は起き上がると、着替えを済ませて、障子戸を開けた。見上げた空には暗雲が立ち込めているが、雨は止んでいた。しばらくしたら、また降るだろうか。


「……あ、あの」

 朝食の席で、雫音は切り出した。皆の視線を一身に集めていることに委縮しながらも、ゴクリと唾を飲み込んで、用件を伝える。

「わ、私は、役立たずで、皆さんに迷惑をかけてばかりいます。なので、その……まずは、自分の身を守れるようになりたいんです」

 雫音がそこまで言ったところで、口を開いたのはシルヴァだった。

「それなら、護身術を覚えたらいいんじゃないか?」

 雫音の切羽詰まったような物言いに反して、シルヴァは軽い調子で提案した。
 しかし、雫音の護衛役でもある三人は、あまりいい顔をしていない。いや、あからさまに顔を顰めているのは八雲だけで、千蔭と天寧は、いつも通りの無表情を貫いている。しかし、雫音の主張を手放しで喜んでいるような雰囲気も感じなかった。

「その護身術とやらは、どうやって覚えるつもりだ」
「っ、それは……」
「もし組頭に教わろうなどと考えているなら、厚かましいにもほどがあるな。俺たちに迷惑をかけるな」

 八雲は周囲の視線など気にも留めず、雫音の思いをばっさりと切り捨てる。シルヴァの前だからと、その物言いを取り繕うつもりはないらしい。
 眉を顰めたシルヴァが苦言を呈そうとしているのが分かり、この場を丸く収めるべく、千蔭は声を上げようとした。けれど意外にも、雫音は八雲の言葉に即座に反論する。

「それなら……八雲さんが、教えてくれませんか?」
「はぁ? 何故俺がお前に教えなくてはならないんだ」
「八雲さんが、忍びとして優秀で、すごくお強い方だってことは分かってます。八雲さんは、私に対しても容赦がないので……八雲さんなら、遠慮せずに私のことを鍛えてくれるかと思ったんです」
「……」
「それに、旅はまだ続きます。迷惑をかけるなと仰るなら、これから先も守られるだけという方が、もっと迷惑がかかると思うんです。ですから、その……お願いします」

 八雲の目を見て言いきった雫音は、頭を下げた。けれど、返答がない。
 おずおずと顔を上げれば、そこには、何とも複雑そうな顔をした八雲がいた。

「お前……それは、俺を貶しているのか?」
「え? ……い、いえ! そんなつもりはなくて……!」

 ぴくりと片眉を持ち上げた八雲に、雫音は慌てて首を横に振る。
 その時、噴き出したのはシルヴァだった。

「あっはっは、いいじゃないか。雫音がここまで言っているんだ。なぁ、保護者殿」

 シルヴァが千蔭に話を振る。
 この場にいる者の視線が、千蔭に向けられた。

「……はぁ。分かった」

 一拍の間をおいて、千蔭は浅くため息を吐いた。

「確かに、この先何が起きるか分からない。最低限、自分の身を守る術は身に付けておいた方が良いと思う。……八雲」
「はっ」
「お前が教えてやって」
「おっ……私が、ですか?」

 八雲は不満そうな顔をする。何故自分が教授しなければならないのかと、声には出していないが、雰囲気からそれが伝わってくる。

「お前が適任だよ。頼んだからね」
「……御意」

 直属の上司である組頭の命に、八雲は渋々頷いた。

「よかったな、雫音。頑張れよ」
「は、はい。ありがとうございます」

 シルヴァからの激励も受け、雫音は表情を引き締めて頷いた。

「……お前が自ら言ったことだ。俺は一切手加減しない。覚悟するんだな」
「っ、はい。よろしくお願いします」

 八雲の冷たいまなざしに射抜かれると、やはり身体が強張る。けれど、立ち止まっている暇はない。
 雫音はもう一度、深く頭を下げた。