「多分、この辺にも咲いてると思うんだけど……あった。ほら、見てみなよ」
「これは……」
千蔭の視線の先を辿れば、そこにはとても美しく、神秘的な花が咲いていた。雨に濡れたその花弁は、まるでガラス細工のように、透き通っているように見える。
「これは山荷葉っていうんだ」
「さんかよう……?」
「そう。山に、積み荷の荷に、植物の葉と書いて、山荷葉ね。本来は白いけど、雨に濡れた時だけ、透明色になるんだよ」
「すごく……綺麗な花ですね」
雫音は、その美しい花に釘付けになった。
雨の日にだけ、その美しさを現す花。雨と共に過ごすことの多かった雫音は、ほんの少しだけ、その花に親近感にも似た思いを抱いてしまった。
「少しは元気出た?」
「え?」
「色々と考え込んでるみたいだけどさ、生きるって、そう難しいことじゃないと思うよ。皆が皆、そんな崇高な理由を胸に毎日を生きているわけじゃないでしょ」
「そう、でしょうか」
「そうだよ。あの店の茶菓子がまた食べたいとか、綺麗な着物を着てみたいとか、あの人とこんな話をしたいとか、綺麗な花を見に行きたいとか。そんな些細なことでいいんだよ」
この世界にやってくる前まで、雫音はそんな小さな願いについてさえ、思考を巡らせたことはない。毎日を無意味に生きていただけの雫音は、そんな考えにも至らなかった。
けれど、こうして千蔭と美しい花を見ることができた。緑之国で見たこと、感じたこと、出会った人たちのことを、与人に会ったら話したいと思った。それに、今日初めて口にしたハヤウィーヤ茶を、また飲んでみたい。千蔭たちにも、教えてあげたいと思う。
――明日を生きる理由は、そんなささやかな幸せに思いを馳せることでいいらしい。
「それと、誰が何と言おうと、雨を降らせるっていうその力は、アンタのものだよ。神様じゃない、雨女である、アンタの力」
「私の、力……」
「正直俺は、神とかあんまり信じてないからさ。アンタが普通の人間で、雨にすっごく降られやすい体質の、ただの女の子だってことは、とっくに分かってるよ」
千蔭は二ッと笑う。わざとおどけたような態度をとっているが、雫音を見つめるまなざしは慈愛に満ちていて、ただただ、優しい。
紡がれた言葉は、雫音の重く沈んでいた心を、じんわりと温めてくれる。胸の奥がきゅっとなって、少しだけ、泣きそうになった。
――雫音は、誰かに認めてもらいたかったのかもしれない。
雨女神様としてではなく、ただの雫音として、この世界に存在していることを。
ここにいてもいいのだと。ただ、認めてもらいたかった。
「……千蔭さんは、雨は嫌いですか?」
「嫌いじゃないよ」
依然としてポツポツとい降り続いている雨を見ながら、千蔭は言う。
「止まない雨はないからね。雨上がりの空ってさ、いつもよりずっと綺麗に見えると思わない?」
「そう、ですか? 私……雨上がりの空を意識して見上げたことって、ないかもしれません」
「そうなの? それじゃあ、次に雨が上がった時、空を見上げてみなよ」
雫音は、想像した。雨が上がった時、見上げる空は、どんな色をしているのだろう。どんな景色が待っているのだろう。そして、空を見上げる時、隣に千蔭がいてくれたら嬉しいのにと――雫音はそう思った。
「そろそろ陽も落ちるし、屋敷に戻るよ」
「はい」
千蔭は再び雫音を抱えて、地面を駆けていく。
慈しみの雨は大地を潤し、二人を囲む大いなる緑は、白いベールのような霧雨にしっとりと濡れている。瑞々しい、生命力に満ちていた。



