緑之国へやってきて一晩が経った。雫音は、雨粒が屋根を叩く音で目を覚ました。雨は昨晩から止むことなく、その勢いを強めたり弱めたりしながらも降り続けている。

 雫音たちは、昨晩に盛大なもてなしを受けた。緑之国の名物だという山菜尽くしの天ぷらは絶品で、入らせてもらった露天風呂も薬湯となっていてとても気持ちがよかった。腹を満たし身体も温まり、雫音は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

 いまだに慣れない着物を何とか自分で着て身支度を整えたところで、障子戸の向こうから声が掛けられる。

「おい、朝餉の用意ができているそうだ。早く来い」
「はい、今行きます」

 慌てて部屋を出れば、そこには八雲が一人、顰め面で立っていた。雫音の顔を一瞥すると、無言で歩き出す。雫音は小走りでその後を追いかけた。

「あ、あの。千蔭さんたちは……」
「先に行っている」
「そうですか。……あの、八雲さんは、千蔭さんたちとは長いお付き合いなんですか?」
「そんなことを聞いてどうする」
「え? いえ、どうするということもないんですけど……」
「だったら無駄口を叩くな」
「は、はい……」

 雫音は、八雲との関係を少しでも変えたかった。信用してほしいとは言わない。けれど、せめて、雑談をできるくらいの仲になれたら。そう思い、勇気を振り絞って声を掛けた。
 しかしにべもない対応で冷たく返されてしまい、なけなしの勇気は完全に萎んでしまった。

 雫音が口を閉ざせば、重苦しい空気が漂う。千蔭たちの待つ広間に向かうまでの短い距離が、雫音にはとてつもなく長い道のりに感じてしまう。

「……あ、あの」
「今度は何だ」
「その……八雲さんは、よく眠れましたか?」

 沈黙に耐えかねた雫音は口を開いたが、すぐに後悔した。また冷たくあしらわれるだろう、と。そう覚悟したのだが、意外にも八雲は平坦な声音で返答してくれた。

「……俺はほとんど眠っていない」
「え? 眠っていないって……どうしてですか?」
「昨晩は俺が見張り番をしていたからだ。途中で天寧にも代わってもらったが」
「見張り番? でも、此処はお屋敷内ですし、そんなことする必要はないんじゃ……」

 山の中でなら分かるが、此処は緑之国の長であるシルヴァの屋敷だ。何故見張りをする必要があるのかと、雫音は首を傾げる。

「当たり前だろう。今は和平を結んでいるが、数か月前までは敵国でもあったんだぞ」

 八雲の言葉に、雫音はハッとした。

「確かに、そうですよね」
「そんなことも分からないとはな」
「す、すみません」
「……忠告しておくが、余計なことはするなよ。お前はただ雨を降らせればいいんだ。こちらが粗相の一つでもすれば、その責任は全て与人様が負うことになる。そしてこの地での矛先は、全て頭に向くことになる。お前の不用意な言動で、風之国に危害が及ぶような事態になったら……俺はお前を許さない」

 八雲は横目に雫音を見た。そのまなざしは鋭く冷たい。
 雫音は胸がズキズキと痛むのを感じた。自分は相当嫌われている。それは分かっていたが、こうもはっきりと拒絶の感情を向けられれば、さすがに堪える。

 心が折れかけた、その時だった。

「おい。その言い方はあんまりじゃないか?」

 前方の曲がり角から現れたのはシルヴァだった。どうやら会話を聞いていたようだ。眉間に皺を寄せて、八雲を見つめている。

「……私は、事実を述べたまでです」

 短くそう言い、八雲は口を閉ざした。それ以上話す気はないという意思表示だ。
 シルヴァは開口する。けれど雫音は、シルヴァの声を遮った。これ以上この話を続けるのはよくないと、そう思ったから。

「あの! 早く行きましょう。私、お腹がすいちゃいました」
「……あぁ、そうだな」

 雫音の意を汲んで言葉を飲みこんだシルヴァは、先を歩く。気まずい沈黙が広がる中、そのまま三人で広間に向かった。
 先に待っていた千蔭や天寧は、三人を纏う重苦しい空気にすぐに気づいた。

「何かあった?」

 千蔭に小声で尋ねられたが、雫音は曖昧に微笑むことしかできなかった。