夜明けとともに千蔭に起こされた雫音は、再び緑之国を目指して歩き出す。
「頭。見てください」
歩き始めてから三時間ほど経ったところで、先頭を歩いていた八雲が足を止めた。険しい顔をして一点を見つめている。視線を落とす先には、泥に残った靴跡があった。つまり、人が通った形跡があるということだ。
「まだ新しいね」
「はい。何者かは分かりませんが、まだ近くにいる可能性も……」
八雲はそこで、口を閉ざした。千蔭は鋭い眼差しで周囲を見渡し、天寧は懐に忍ばせている苦無に手を伸ばす。漂う剣呑な空気に、雫音は身を固くした。
馬も目を細め、ひくひくと耳を動かしている。
――何かが、近づいてくる気配。
「っ、伏せろ!」
千蔭が叫んだ。固まっていた雫音は、天寧に手を引かれて地面に倒れ込む。すると、大きな爆発音が響き、辺りが真っ白な煙に包まれた。
「――もう大丈夫だ」
「っ、え? だ、誰ですか…っ、ごほっ」
「おっと、あまり喋らない方がいい。こいつには微量の眠り薬を仕込んであるからな」
雫音は驚愕の声を漏らした。誰かに横抱きにされたからだ。千蔭でも、天寧でも、八雲でもない、低い男の声。
「移動する。大人しくしていてくれよ」
「移動って、どこに……」
素性の分からない男は、その問いに答えてくれることなく、雫音を横抱きにしたまま駆け出す。
「っ、待て!」
後方から、千蔭の叫び声が聞こえてきた。
ヒュンッと風を切る音がする。千蔭が飛び道具を使った音だ。
しかし男はそれを難なく避けて走り続ける。どうやらこの男、この辺りの地形にも慣れているようだ。方向感覚を失ってしまいそうな深い森の中も、迷いなく進んでいく。
――頭がクラクラする。意識が遠のいていく。多分、眠り薬の効果だろう。
雫音は襲ってくる眠気に抗うことも出来ず、そのまま意識を失うように眠りに落ちた。
***
“長き旅路の先、霖雨創生の姫巫女に、幸あらんことを”
――それは、まるで子守歌のようで。
胸を震わせる優しい声に、喉の奥がひりついて、泣きたくなった。
「っ、……夢……?」
目を覚ました雫音は、上体を起こして辺りを見渡す。そこは十畳ほどの広さはありそうな、見慣れない部屋だった。
上を見上げれば、天井の中央部分が高くなっていて、左右の壁側に向けて傾斜を付けた船底天井になっている。端の方に設置されている木製の棚には、不思議な形をした壺や細長いガラス細工、乾燥させた植物などが所狭しと置いてある。
「お、目が覚めたか?」
部屋に入ってきたのは、浅黒い肌で、長い黒髪を後ろで一つに括っている、切れ長の目をした美丈夫だった。
呆けている雫音に気づいているのかいないのか、男は気さくな笑みを浮かべて畳の上に腰を下ろす。
「しかしお前も災難だったな。まさか山賊に襲われるとは」
「え? ……さん、ぞく?」
「あぁ。薬草でも採りに行っていたのか? 最近は山賊たちも行動範囲を広げているからな。山中に入る時は、一人では行かない方がいい」
男はアンティーク調の陶器の水差しで水を注いで、雫音に手渡してくれた。受け取った切子グラスは美しい緑色をしていて、蔦の形にも見える、不思議な紋様が描かれている。
「今、食事を用意させている。もう少し待っていてくれ」
「あ、あの、貴方は一体……?」
「何だ、俺のことを知らないのか?」
男は目を丸めた。当然のように自分のことは知っているものだとばかり思っていたらしい。ということは、男はこの辺りでは顔の知れた人物なのだろう。
「俺はシルヴァという。お前は、この辺りに住んでいる者ではないのか?」
「は、はい。私は風之国からきました」
「……何だって?」
瞬間、シルヴァと名乗った男を纏う空気が変わる。
雫音は、何か不味いことを言ってしまっただろうかと身体を強張らせた。
「そうか。ということは、お前が噂の……」
シルヴァが神妙そうな顔でつぶやいた、その時。
ひどく慌てた様子の男が、転がるようにして部屋に飛び込んでくる。
「長、侵入者です!」
「何? どこの者だ?」
「それが、三人組の男たちなのですが、女を返せと言っていて……」
報告をしていた着流し姿の男は、雫音をチラリと見る。その腰元には刀を差している。
雫音はすぐに気づいた。その侵入者とは、千蔭たちで間違いないと。
「あ、あの! 私、山賊に襲われたわけじゃないんです! 一緒にいたのは知り合いで……!」
「そうだったのか?」
雫音の言葉に、シルヴァは目を丸くした。
そして、部下らしき男に指示を出す。
「その侵入者とやらを、ここに案内してくれ」
「し、しかし!」
「大丈夫だ」
「……はっ!」
シルヴァの命に深く頭を下げた男は、再び慌しく部屋を出ていった。
「すまなかった。まさかお前たちが雨女神様御一行だなんて、思ってもいなかったんだ」
「えっ。あの、どうして私たちのことを……」
雫音は、自分はただの雨女であり、雨女神様を名乗る資格などないと未だに思っている。けれど、この世界の民衆の間では、自分が“雨女神様”と呼ばれているという自覚はあった。
「外を見てみろ」
シルヴァの言葉に、雫音は部下の男が出ていった縁側の方を見た。僅かに開いている障子戸の向こうでは、ポツポツと小雨が降っている。
「日照り続きで参っていたが、ようやく雨が降ってくれた。これは貴女のおかげなんだろう?」
「はい、多分……」
「助かった。礼を言わせてくれ」
シルヴァは心から感謝しているような笑みを浮かべて、深々と頭を下げた。
雫音は慌てた。自分は頭を下げてもらうような、価値のある人間ではないから。
頭を上げてほしいと、そう言おうとしたが、そのタイミングで障子戸の向こうから声が掛けられた。つい先ほどにも聞いた声。しかし、開かれた障子戸の先にいたのは、部下の男ではなかった。
「……よかった、無事で」
真っ先に部屋に入ってきた千蔭は、目視で雫音の身体に異常がないかを確認すると、安堵の息を漏らした。
「あ、あの、ご心配をお掛けしてすみません」
千蔭の後ろからやってきた天寧も、雫音の無事を確認し微かに表情を和らげる。けれど八雲は無表情で、目が合った雫音を見て眉間に皺を寄せただけだった。



