雨が止み、空には三日月が昇っている。深い闇夜に包まれた時間。
 雫音は以前にも来たことのある牢の中で、膝を抱えてじっとしていた。

 どうして牢の中に入れられているのかと言えば、与人の茶に毒物を混入した疑いをかけられているからなのだが、もちろん、雫音はそんなことはしていない。
 そもそも部屋に篭りきりだった雫音は、毒などを入手する術もない。だというのに、何故自分はやっていないと声を上げなかったのか。

 ――何故なら雫音は、諦めているからだ。声を上げても尚、信じてもらえなかった時、声が届かなかった時の辛さを、雫音はよく、知っていたから。

(私、このまま殺されちゃうのかな。それならそれで、仕方ないのかもしれないけど……でも、痛いのは、嫌だな)

 膝に顔を埋めた雫音は、目を閉じた。もう何も考えたくなくて、そのまま意識を手放そうとした。――その時、牢の鍵がガチャンと開けられる音がした。

「雨女神様。さっきはごめんなさいね」

 牢の中に入ってきたのは、一人の女だった。黒く長い髪を後ろで結いあげている。キリリとした切れ長の目は意志が強そうで、赤い紅が引かれた口許は、綺麗な弧を描いている。
 目の前の女性は、雫音が何度も顔を合わせたことのある人物だった。雫音がこの牢に入れられることになった、元凶とも言える存在。

「貴女は……」
「改めまして、私は雛菊(ひなぎく)と申します。先ほどは雨女神様に罪を着せるようなことをしてしまい、大変申し訳ありません。ですがそれも、貴女のためにしたことなんですよ」

 深々と頭を下げた雛菊は、ここ最近、雫音の身の回りの世話をしてくれていた女中だった。

「私のためって、どういうことですか? それに、どうやってここに……外には、見張りの人がいたはずなのに」
「あぁ、眠ってもらったんです」

 雛菊はニコリと綺麗に笑った。よく見ればその格好は、普段のような着物姿ではない。身体のラインがよく分かる、生地の薄そうな服を着用している。腰元のベルトには、拳銃が二挺ぶら下がっていた。

 それを目視した雫音は、そろりと顔を持ち上げて、雛菊の目を真っ直ぐに見据えた。恐怖心といった感情はない。ただ、雛菊がこのような行動を起こした理由を、知りたいと思った。

「貴女の目的は、何ですか?」
「私は、貴女を助けにきたんです」
「助けに……?」
「えぇ。そして、貴女の……雨女神様の力が必要なんです。どうか風之国を出て、私と一緒に来てくださいませんか?」

 屈んで雫音と目線を合わせた雛菊は、笑みを消し去り、真剣な顔をして懇願する。

「……それは、出来ません」
「何故です? このままでは、雨女神様は疑われたままです。最悪殺されてしまうかもしれませんよ? ですが私と一緒に来てくだされば、雨女神様に何一つ不自由させることなく、その身をお守りすると約束します」

 雛菊は外の様子に警戒しながら、雫音を説得するべく言葉を並べ立てていく。
 けれど雫音は、首を縦には振らない。

「……そもそも私は、雨女神様ではありません。ただ雨に降られやすい体質を持っているだけの人間で、神様なんかじゃないんです。それに、私……与人さんたちに、たくさんお世話になりました。だけどまだ、お礼の言葉も、全然伝えられていません。だから……黙っていなくなることは、したくないんです」
「……分かりました」

 雫音の言い分に、雛菊は眉を顰めながら頷き返す。そして、牢の外へと歩いていく。

「ですが私も、そう簡単に引き下がるわけにはいかないんです。ですから私が……貴女様の心残りを、失くしてきて差し上げます」

 雛菊は、腰元にある拳銃を一挺手にする。

「それって、どういう……」
「与人様を、この手で葬ってきてあげるってことですよ」
「……は、何言って……「大丈夫です。貴女様が手を汚すわけではありませんから、気に病む必要はありません。汚れ仕事は、私のような日陰に生きる者がすることですので」

 冷えた声色に、何の感情も映していない瞳。
 雛菊は動揺している雫音を置いて、牢の外に出る。

「別の迎えの者が直にやってきますから、此処で待っていてください」
「っ、あの!」

 雫音は声を上げる。けれど雛菊はその声を無視して、闇夜の中を駆けていった。

「っ、……待ってください!」

 雫音は、雛菊の後を追いかける。錠が開いたままの牢を出れば、見張り番の男が倒れている姿があった。雛菊の言っていた通り、眠っているだけのようだ。

 暗く狭い階段で何度か転びそうになりながら、雫音は足を止めることなく駆けあがった。そして、地下にある牢から地上へと出る。雨は降っていなかったが、ついさっきまで顔を出していた月は、厚い雲に覆われて見えなくなっていた。

 靴を履いていないので、小石や木の枝が足裏に刺さってジクジクと痛みだす。けれど雫音は、それでも足を止めなかった。与人を捜して走った。

 与人本人がいなくとも、誰でもいい。与人が狙われていることを早く伝えなければ。
 その一心だった。