※
「今日から仮入部がはじまります。興味のある部活にはどんどん見学に行ってくださいね。それでは解散」
福留の合図で一日の授業が終わった。
かっこいい部長がいるという理由で軽音部に向かう花岡さんと土屋さん、荷物を手にそそくさと帰る帰宅部予備軍、図書委員として本を返しに行くトモちゃんとそれに付き合う市川さん。まだクラス内は平穏そのものだ。
お礼、言わなくちゃ。
私は秋吉くんの姿を探した。彼の席は片づいている。でもカバンはあるから校内のどこかにいるのだろう。
「村瀬さんはどこか見に行くの」
カバンに教科書を詰めていた私に松本が声を掛けてきた。席替えは二学期に入ってからなのでまだ当分ご近所づきあいしなくちゃいけない。
「どこもいかないよ。部活入る気ないから」
「へぇ。良かったら一緒に見学行かない?」
「陸上部でしょう? 行かないよ。私走るの苦手だもん」
二年後、松本は短距離走で県大会にいくレベルになる。毎日グラウンドを走り込む姿を八組の窓から見させられる私の気持ちなんて分からないでしょう。
「じゃあね」
そそくさと席を離れると後ろから声がした。
「なにあれ態度わるーい」
聞えよがしな嫌味だ。松本の声ではなかった。
※
「やっぱりここにいた」
保健室に向かうと案の定、秋吉くんがメダカの水槽を眺めていた。水沢先生は離席中らしく、室内はとても静かだ。
「なんだ村瀬か」
椅子に座っていた秋吉くんは顔を上げて薄く笑った。
「保健室で密会しているなんてクラスの奴らに知られたらまたからかわれるな」
「密会じゃないし。私は今朝のお礼を言いたかっただけ。……ありがとう」
彼が注意を引きつけてくれたお陰で移り気な同級生たちの興味は「秋吉って案外面白い」にすり替わっていた。しばらく尾を引くだろうけど部活が始まればみんな忘れてしまうはず。
「どういたしまして。目立ちたくないって村瀬の顔に書いてあったからさ」
「書いてない」
むっとして即座に否定した。
「……でも」
「でも?」
「いじめられたくは、ない。前の、タイムトラベル前がそうだったから」
教室内で目立つのは危険。好奇心や冷やかしは簡単に翻っていじめという形で現れる。最初のきっかけなんてなんでもいいのだ。
「私は三年後に死のうとするの。いじめが辛くて。だからやり直すためにタイムトラベルしたんだ」
話しながらどんどん自分の指先が冷たくなってきた。私がどれだけ真剣に悩んで苦しんだことでも他人からすれば“そんなことで”と笑われる可能性はある。それが怖い。
秋吉くんは黙っている。その沈黙すら怖かった。
「その……秋吉くんにとってはバカみたいなことって思うかもしれないけど」
「バカだなんて思わねぇよ。おれも転校先でいじめられたことあるから」
「……ほんと、に?」
予想外の言葉にじくじくと胸の中がうずいた。
はじめて認められたような気がしたのだ。
「中学って過酷だよな。まだ自分が何者かも分かってないような小学生(ガキ)がいきなり新しい環境の中に放り込まれて、溺れないよう、沈まないよう、必死に足掻かなくちゃいけないんだから。カナヅチを大海原に突き落とすようなもんだ。どう考えても無理ゲーだと思う」
「分かるような……分からないような……」
私がよっぽど変な顔をしていたのか秋吉くんは笑いながら手招きした。
「つまりこのアクアリウムみたいものなんだ、見てみろよ」
言われたとおり中腰になって覗き込む。明るい水槽の中を泳ぐメダカたちはとても自由でのんびりしている。
「自然界ではメダカは群れになって泳ぐんだ。みんな同じ方向を向いて泳ぐけど特定のリーダーがいるわけじゃない。たまたま先頭にいるメダカにみんなが合わせているだけ。外敵に襲われるリスクを小さくするために本能的に動くんだよ。まるで教室だろう?」
「でも、この中のメダカたちは群れてないように見えるけど」
「いまは外敵がいないからな。ここに金魚でも入れてみろ、他人面していたメダカたちはすぐ群れを成して防御に徹するはずだ。まぁ一匹残らず食べられるだろうけど」
「……まるで経験があるみたいな言い方ね」
「きしし、縁日の金魚を入れてさ。母親にすっげぇ怒られた」
歯を剥いて笑う。子どもっぽい笑顔だ。
「ねぇこの子、ヒレが傷ついてる。泳ぎ方もおかしいよ」
私が示したメダカは一回り小さい子だった。エラが不自然に短く、鱗にもケガを負っている。
「メスの奪い合いか縄張り争いでやられたんだろうな。周りの奴ら、なにも悪いことしてませーんて顔で泳ぎながら不意に攻撃するから怖いよな。見てろ、そのうちまたちょっかい出すはずだ」
言ったそばから近くにいた大きなメダカがいきなり突進していった。
見たくない!
私はとっさに目をそむけた。見たら自分に重ねて辛くなる。
少しして、私はもう一度水槽を見た。
水槽の中は平穏そのもの。『なにもなかった』かのように和気あいあいとしている。
先ほどの小さなメダカも懸命に泳いでいた。もちろんここ以外にいく場所なんてないんだけど。
「……こんな小さな世界でもイジメがあるのね」
「だな。でも当のメダカたちは何食わぬ顔して過ごしている。こうして観察されていることも気づいていないんだ、笑えるだろう」
秋吉くんはイスにもたれかかるようにして天井を見上げた。
「むかしさ、転校先でいじめられたときある人から言われたんだ。狭い世界で平穏無事に生活したければよく観察しろ。だれがだれと話をして、どんなコネクションを持っているのかよく見極めろ。それが面倒ならバカになれってさ。だからおれはみんなを笑わせる『道化係』になることにした。くだらない流行りに巻き込まれたくないからな」
「流行りだって言うの? いじめが?」
聞き捨てならない言葉だった。
私はにじり寄って訂正させようとした。秋吉くんは平然としている。
「もちろん。あんなもん淘汰でも弱肉強食でもない。ただの運だ」
「私は運が悪かったからいじめられたってこと?」
「そうさ。同じクラス内に気の強い奴がたまたまいて、それに同調する奴がたまたまいて、たまたま村瀬があのクラスで、たまたま目をつけられた。それ以外にどんな理由がある? 村瀬が嫌われるような言動をしたなら話は別だけど、ほとんどの場合は偶然でしかないんだよ」
言っていることはよく分かる。だけど分かりたくないと否定する自分がいる。
「おかしいよ。そんなことで……偶然のせいで死にたくなるなんて」
「だから村瀬の選んだ道は正しい。タイムトラベルしたとは言え結果的に死ななかった。まだ人生を続けられる。おまえの勝ちだ」
「そうじゃない。勝ち負けじゃなくて」
私は中学校生活を楽しみたかっただけだ。
だれのことも恨まず、憎まず、苦しまず、キレイな青春を送りたかった。それだけなのだ。
「ずる賢いほうが楽なんだぜ」
「わかんないよ」
私は首を振って拒絶した。これ以上話しても仕方ない。
「もう帰る。ごめんね、さよなら」
逃げるように保健室をあとにした。
やっと分かり合える人に出逢えたと思ったのに、私の心の傷を抉っただけだ。
秋吉くんみたいに割り切って生きるなんて無理だ。
ひと気のない廊下を歩きながら胸が痛くなるのを感じた。
本当は分かってる。秋吉くんの言うことは間違ってない。
イジメはブームだ。ノリだ。その場の雰囲気だ。だれかがターゲットを示せば、周りがそれに乗っかる。加担することで仲間意識や絆が深まっていく。実際、私が六組が離れたあとは別の子がターゲットになったと聞く。だれでもいいのだ。仲間内の満足感が高まれば。私だって逆の立場だったら空気を読んで行動していたかもしれない。
でも、私はただ楽しい学校生活を送りたかっただけなのに――。
とぼとぼと玄関に来たところでイヤな予感がした。靴の位置が今朝と若干違う気がしたのだ。
まさか、ね。
カカトに指をかけて引っ張り出す。内側を確認。なにも詰められていない。念のため裏も見た。画鋲は刺さっていない。
あぁ良かった。そう安堵した次の瞬間、奥の方に丸めた紙が転がっているのが見えた。手を伸ばし、震えながら紙を開く。
『うざい きえろ』
そう書き殴ってあった。
「今日から仮入部がはじまります。興味のある部活にはどんどん見学に行ってくださいね。それでは解散」
福留の合図で一日の授業が終わった。
かっこいい部長がいるという理由で軽音部に向かう花岡さんと土屋さん、荷物を手にそそくさと帰る帰宅部予備軍、図書委員として本を返しに行くトモちゃんとそれに付き合う市川さん。まだクラス内は平穏そのものだ。
お礼、言わなくちゃ。
私は秋吉くんの姿を探した。彼の席は片づいている。でもカバンはあるから校内のどこかにいるのだろう。
「村瀬さんはどこか見に行くの」
カバンに教科書を詰めていた私に松本が声を掛けてきた。席替えは二学期に入ってからなのでまだ当分ご近所づきあいしなくちゃいけない。
「どこもいかないよ。部活入る気ないから」
「へぇ。良かったら一緒に見学行かない?」
「陸上部でしょう? 行かないよ。私走るの苦手だもん」
二年後、松本は短距離走で県大会にいくレベルになる。毎日グラウンドを走り込む姿を八組の窓から見させられる私の気持ちなんて分からないでしょう。
「じゃあね」
そそくさと席を離れると後ろから声がした。
「なにあれ態度わるーい」
聞えよがしな嫌味だ。松本の声ではなかった。
※
「やっぱりここにいた」
保健室に向かうと案の定、秋吉くんがメダカの水槽を眺めていた。水沢先生は離席中らしく、室内はとても静かだ。
「なんだ村瀬か」
椅子に座っていた秋吉くんは顔を上げて薄く笑った。
「保健室で密会しているなんてクラスの奴らに知られたらまたからかわれるな」
「密会じゃないし。私は今朝のお礼を言いたかっただけ。……ありがとう」
彼が注意を引きつけてくれたお陰で移り気な同級生たちの興味は「秋吉って案外面白い」にすり替わっていた。しばらく尾を引くだろうけど部活が始まればみんな忘れてしまうはず。
「どういたしまして。目立ちたくないって村瀬の顔に書いてあったからさ」
「書いてない」
むっとして即座に否定した。
「……でも」
「でも?」
「いじめられたくは、ない。前の、タイムトラベル前がそうだったから」
教室内で目立つのは危険。好奇心や冷やかしは簡単に翻っていじめという形で現れる。最初のきっかけなんてなんでもいいのだ。
「私は三年後に死のうとするの。いじめが辛くて。だからやり直すためにタイムトラベルしたんだ」
話しながらどんどん自分の指先が冷たくなってきた。私がどれだけ真剣に悩んで苦しんだことでも他人からすれば“そんなことで”と笑われる可能性はある。それが怖い。
秋吉くんは黙っている。その沈黙すら怖かった。
「その……秋吉くんにとってはバカみたいなことって思うかもしれないけど」
「バカだなんて思わねぇよ。おれも転校先でいじめられたことあるから」
「……ほんと、に?」
予想外の言葉にじくじくと胸の中がうずいた。
はじめて認められたような気がしたのだ。
「中学って過酷だよな。まだ自分が何者かも分かってないような小学生(ガキ)がいきなり新しい環境の中に放り込まれて、溺れないよう、沈まないよう、必死に足掻かなくちゃいけないんだから。カナヅチを大海原に突き落とすようなもんだ。どう考えても無理ゲーだと思う」
「分かるような……分からないような……」
私がよっぽど変な顔をしていたのか秋吉くんは笑いながら手招きした。
「つまりこのアクアリウムみたいものなんだ、見てみろよ」
言われたとおり中腰になって覗き込む。明るい水槽の中を泳ぐメダカたちはとても自由でのんびりしている。
「自然界ではメダカは群れになって泳ぐんだ。みんな同じ方向を向いて泳ぐけど特定のリーダーがいるわけじゃない。たまたま先頭にいるメダカにみんなが合わせているだけ。外敵に襲われるリスクを小さくするために本能的に動くんだよ。まるで教室だろう?」
「でも、この中のメダカたちは群れてないように見えるけど」
「いまは外敵がいないからな。ここに金魚でも入れてみろ、他人面していたメダカたちはすぐ群れを成して防御に徹するはずだ。まぁ一匹残らず食べられるだろうけど」
「……まるで経験があるみたいな言い方ね」
「きしし、縁日の金魚を入れてさ。母親にすっげぇ怒られた」
歯を剥いて笑う。子どもっぽい笑顔だ。
「ねぇこの子、ヒレが傷ついてる。泳ぎ方もおかしいよ」
私が示したメダカは一回り小さい子だった。エラが不自然に短く、鱗にもケガを負っている。
「メスの奪い合いか縄張り争いでやられたんだろうな。周りの奴ら、なにも悪いことしてませーんて顔で泳ぎながら不意に攻撃するから怖いよな。見てろ、そのうちまたちょっかい出すはずだ」
言ったそばから近くにいた大きなメダカがいきなり突進していった。
見たくない!
私はとっさに目をそむけた。見たら自分に重ねて辛くなる。
少しして、私はもう一度水槽を見た。
水槽の中は平穏そのもの。『なにもなかった』かのように和気あいあいとしている。
先ほどの小さなメダカも懸命に泳いでいた。もちろんここ以外にいく場所なんてないんだけど。
「……こんな小さな世界でもイジメがあるのね」
「だな。でも当のメダカたちは何食わぬ顔して過ごしている。こうして観察されていることも気づいていないんだ、笑えるだろう」
秋吉くんはイスにもたれかかるようにして天井を見上げた。
「むかしさ、転校先でいじめられたときある人から言われたんだ。狭い世界で平穏無事に生活したければよく観察しろ。だれがだれと話をして、どんなコネクションを持っているのかよく見極めろ。それが面倒ならバカになれってさ。だからおれはみんなを笑わせる『道化係』になることにした。くだらない流行りに巻き込まれたくないからな」
「流行りだって言うの? いじめが?」
聞き捨てならない言葉だった。
私はにじり寄って訂正させようとした。秋吉くんは平然としている。
「もちろん。あんなもん淘汰でも弱肉強食でもない。ただの運だ」
「私は運が悪かったからいじめられたってこと?」
「そうさ。同じクラス内に気の強い奴がたまたまいて、それに同調する奴がたまたまいて、たまたま村瀬があのクラスで、たまたま目をつけられた。それ以外にどんな理由がある? 村瀬が嫌われるような言動をしたなら話は別だけど、ほとんどの場合は偶然でしかないんだよ」
言っていることはよく分かる。だけど分かりたくないと否定する自分がいる。
「おかしいよ。そんなことで……偶然のせいで死にたくなるなんて」
「だから村瀬の選んだ道は正しい。タイムトラベルしたとは言え結果的に死ななかった。まだ人生を続けられる。おまえの勝ちだ」
「そうじゃない。勝ち負けじゃなくて」
私は中学校生活を楽しみたかっただけだ。
だれのことも恨まず、憎まず、苦しまず、キレイな青春を送りたかった。それだけなのだ。
「ずる賢いほうが楽なんだぜ」
「わかんないよ」
私は首を振って拒絶した。これ以上話しても仕方ない。
「もう帰る。ごめんね、さよなら」
逃げるように保健室をあとにした。
やっと分かり合える人に出逢えたと思ったのに、私の心の傷を抉っただけだ。
秋吉くんみたいに割り切って生きるなんて無理だ。
ひと気のない廊下を歩きながら胸が痛くなるのを感じた。
本当は分かってる。秋吉くんの言うことは間違ってない。
イジメはブームだ。ノリだ。その場の雰囲気だ。だれかがターゲットを示せば、周りがそれに乗っかる。加担することで仲間意識や絆が深まっていく。実際、私が六組が離れたあとは別の子がターゲットになったと聞く。だれでもいいのだ。仲間内の満足感が高まれば。私だって逆の立場だったら空気を読んで行動していたかもしれない。
でも、私はただ楽しい学校生活を送りたかっただけなのに――。
とぼとぼと玄関に来たところでイヤな予感がした。靴の位置が今朝と若干違う気がしたのだ。
まさか、ね。
カカトに指をかけて引っ張り出す。内側を確認。なにも詰められていない。念のため裏も見た。画鋲は刺さっていない。
あぁ良かった。そう安堵した次の瞬間、奥の方に丸めた紙が転がっているのが見えた。手を伸ばし、震えながら紙を開く。
『うざい きえろ』
そう書き殴ってあった。

