※   ※   ※

 分からない分からない分からない……。

 教室に戻り、自分の机の上に「いま」の名札と「まえ」の名札を並べて置いてみた。
 色も形も大きさもフォントもぜんぶ同じ。名札の色は三年ごとのループなので今年の卒業生やそれより前に『六組 村瀬』がいたという可能性もゼロではない。
 だけど表面についている細かなキズは馴染み深く、とても他人ものとは思えない。
 最も非現実的で――そして最も可能性があるのは「この名札もタイムトラベルしてきた」ということ。私がここにいるのがなによりの証拠。
 でもだったら何故この名札にはキズがあるんだろう。私の髪の毛が長かったように新品同様に戻っていてもおかしくないのに。

 あぁ分からない分からない。

 とにかくもうひとり会わなくてはいけない人物がいるようだ。
 保健室の先生から「秋吉くん」と呼ばれていた男子生徒。一年のどこかのクラスにいる彼を見つけてこの名札を拾ったときのことを聞こう。

「ではこの部分の日本語訳を――」

 教壇に立つ福留は教室内と名簿を交互に見比べてある人物を呼んだ。

「今日は久しぶりにいるのね。じゃあ出席番号一番、秋吉瑛人(あきよしえいと)くん」

 耳を疑う。
 ――あき……秋吉? えぇ?

「はい」

 呼ばれて立ち上がったのは最前列左の男子生徒。

「”わたしは見つけることができました”――です」

「正解です。みんな拍手」

 ぱちぱちと控えめに鳴らされる拍手。私はそれどころじゃなかった。
 秋吉瑛人……そんな同級生「知らない」。



「秋吉くん話があるの」

 放課後、席に残っていた彼に思いきって声をかけた。秋吉くんはカバンを担いで立ち上がる。

「帰りながらでいいか?」

「え?……あ、うん。いいよ」

 カバンを背負った彼を小走りで追いかける。

「さっきは名札ありがとう。これ、どこで拾ったの?」

「ん? 屋上に落ちていたんだよ。立ち入り禁止のロープが貼ってあるけど簡単にくぐれるからさ」

「ふぅん、屋上に行ったんだ……」

 あの場所に名札が落ちていた。どうしてだろう。見れば見るほど自分ものだと確信が深まっていく。そうとは知らない秋吉くんは玄関に着くなりひょいと右手を差し出した。

「村瀬のじゃないなら落とし物として先生に届けるけど?」

「ううん、私が届けておくよ。それより訊いてもいい?」

 秋吉くんは右手を引っ込めてスニーカーに履き替える。黙っているということは続きを話してもいいんだろう。
 先に外へ出て行った秋吉くんを追いかけて背中に問いかける。

「率直に訊くね。あなたはだれ?」

「秋吉瑛人だけど?」

 振り向いて、不満そうに唇を尖らせた。

「それは知ってる。でも、秋吉瑛人なんて聞いたことない」

 三年前に置いてきたものを知らない同級生が持っていた、不思議なことがありすぎて頭がおかしくなりそう。

「聞いたことないって……なに言ってるんだか意味分かんねぇ」

 秋吉くんは呆れたようにため息をつくと、上目遣いで私をにらんだ。

「話ってそんなつまらねぇこと?」

 つまらない話?
 私はここが正しい過去なのか心配で仕方ないっていうのに。

「秋吉くんは良くても私には大問題なの。だって私は三年後の未来から来たんだから――はっ!」

 しまった口を滑らせた、と思ったけどもう手遅れだった。

「……三年後の未来から? それマジで言ってる?」

 立ち止まった秋吉くんは首を傾けながら顔を近づけてくる。くっきりした二重瞼で、鼻筋もスッキリしている。

「ち、ちちちちがうの、いまのナシで」

 慌てて否定する。時任先生はタイムトラベルのことを「他言無用」とは言ってなかったけど、普通は言わないものだよね。だってズルしているみたいじゃん。
 まずいよ。なんとか誤魔化す方法を考えないと……。でも何も妙案が浮かんでこない。

「すげーじゃん! タイムトラベラーってことだよな?」

 秋吉くんが手を叩いた。

「……へ?」

 秋吉くんはとても驚いた顔をして――なかった。それどころか嬉しそうに笑ってる。

「ちょ、ちょ、ちょっと待って。こっちは笑い飛ばされると思って言い訳考えていたのに”すげーじゃん”ってなに!?」

「世の中にはそういう人間が一人くらいいると思っていたから」

「なにそれ、たまに見かける芸能人とかスポーツ選手くらいの感覚なの?」

「うん。珍しくはあるけど」

 随分とライトな受け止め。
 まぁ、うん、ちょっとホッとしたけどさ。

「いいわ、認めます。私は三年後から来ました。はい、認めました。それであなたは?」

「なんか英語を直訳したようなぎこちない問いかけだな」

「はぐらかさないで。あなたがだれなのか教えてほしいだけなの」

 秋吉くんは髪の毛をガシガシとかき回す。

「おれは秋吉瑛人。一年六組一番。それだけだよ。タイムトラベルした経験もなければタイムトラベラーに会ったのも村瀬が初めてだ。これでいいか?」

「本当に?」

 つい疑いの目を向けてしまう。

「疑うならおれの小学校の同級生に聞いたっていいぜ。後ろの席の市川とか。あぁ、でもあいつらもほとんど覚えてないかな。小六の春に転入してからほとんど教室通っていなかったし。正味三ヶ月くらいか」

「たったの三ヶ月?……なんで?」

「貧血ぎみで保健室に入り浸ってた。寝放題で快適だったぜ」

 秋吉くんはあっけらかんと笑って歩き出す。

 ここにきて私はあることを思い出した。
 そう――そうだ、彼はちゃんと居た。ほんの少しだけ思い出した。入学してしばらくの間、一番前の席はいつも空席だった。どうしてだれも座らない席があるのか不思議に思ってトモちゃんに聞いたら「秋吉くんって子の席らしいよ」と言われたのだ。
 でもその席は…………。あれ、どうなったんだっけ?

「ぼーっと歩くなよ、赤だぞ」

 ぱっと前に手を出されて立ち止まった。横断歩道の信号は赤だ。

「あ、ありがとう」

「どうたしまして。なぁ三年後ってどんな世界?」

 興味津々といった様子だ。私はわざとらしく首を振った。

「言えない。そういう決まりがあるの」

「えー」

 本当は決まりなんてないんだけど自分が自殺するなんて言いたくない。
 だけど秋吉くんは簡単には諦めなかった。

「じゃあタイムトラベラーの条件とか資格とかあんの?」

「それも言えない」

 正確に言えば知らないだけだけど。

「ちぇ、つまんねーの」

「ルールなの。ごめんね」

「分かったよ。じゃあこれだけ教えてくれ」

 秋吉くんは真面目な目つきになった。

「おれはいつ頃、いなくなった? 村瀬の記憶にないってことは教室にもほとんどいなくて、いつの間にかいなくなってたんだろう?」

「いつって言われても」

 一番前の席はいつの間にかなくなり、後ろの市川さんが前に詰めてその列は一席少なかった。
 でもそれがいつだったのかは……よく覚えてない。

「正確じゃなくていい。大体の季節さえ分かれば」

「うーん、秋だったような冬だったような。あ、そうだ。夏休み明けの小テストで名簿順に並んだときには一席少なかった気がする」

 それを聞いた秋吉くんはパッと笑顔になった。

「よっしゃ! 臨海学習まではいられるんだな! それだけ分かれば十分だ。ありがとな村瀬」

 信号が青になり、私たちは並んで歩き出した。
 隣を歩く秋吉くんは鼻歌を口ずさんでいる。

 ――その後、秋吉くんはゲームやテレビの話題をたくさんしてくれた。

 変な気持ちだ。
 三年後に死のうとする私が、存在すら忘れていた同級生と一緒に下校しているなんて。

「じゃあおれこっちだから。また明日な」

 秋吉くんは大きく手を振って住宅街に向かって歩いていった。

「うん、またね」

 手を振り返し、私はバス停に向かって歩き出す。

 秋吉くん、話しやすくていい人だったな。もしも前の世界で彼と仲良くなっていたら状況は変わっていたかもしれない。
 ううん。前のことをいつまでも考えてちゃいけない。いじめられ、自殺しようとした世界はもうどこにもない。
 私はまっさらな道を歩いているのだ。このままクラスで悪目立ちしないように気をつけていれば何事もなく卒業式を迎えられるかもしれない。

 がんばらないと。

 カバンを背負い直して歩き出すと頭の中に変な音が響いてきた。

 ヂー……ヂー……。蝉が鳴くような小さな音だ。

 なんだろうと顔を上げるけど、蝉が鳴くにはまだ早すぎる。
 この音は……そうだ……タイムトラベルするときに聞いた音に似ている。

「――――あ……」

 私の背中に冷たいものが走った。

「おもいだした」

 思い出した。急に思い出したのだ。
 慌てて振り返っても、もう秋吉くんの背中は見えない。

「私、ウソ言ったかも」

 でも今さら追いかけてなんて言ったらいいの。
 八月の臨海学習の集合写真にあなたの姿はなかった――なんて。


 ※


 翌朝、登校すると玄関でトモちゃんに会った。

「おはよトモ……じゃなくて坂元さん」

 私の顔を見たトモちゃんは素早く周囲の様子をうかがうと、

「村瀬さんちょうど良かった。ちょっといい?」

 内緒話をするように声を抑える。なんだか変だ。

「どうしたの? 前髪跳ねてるとか?」

 笑ってごまかしたけど、内心はビクビクしていた。周りを気にするような態度は私の心を波立たせる。
 トモちゃんは背中を丸めて声をひそめてくる。

「昨日秋吉くんと一緒に帰ったって本当?」

「秋吉くん?……うん、途中まで。秋吉くんは徒歩で私はバスだし。どうして知っているの?」

 声を掛けるとき、悪目立ちしないよう気を遣ったつもりだ。そもそも一緒に帰る気は毛頭なくて、その場で軽く会話するだけのつもりだった。あの時間にトモちゃんはもう帰っていたはず。

「これ、グループチャットで回ってきたの」

 携帯を出して画面を見せてくれる。
 私が知らない間にクラス内でグループが作られていて、そこに情報が流れたらしい。

「なにこれ」

 絵文字やスタンプが色鮮やかな画面には「告った」とか「一目ぼれ」だとか根も葉もない噂が書き込まれている。
 なんでまたこういうことをするの。前だって散々悪口を書かれて、まったく関わりのない他クラスの男子や他校の生徒まで私の顔と名前を知っていたことがあるのに。

「ひどいよ。たまたま一緒に帰っただけなのに、どうしてこんなテキトーなこと書かれてるの? だれが書いたの?」

「わたしに言われても……」

 トモちゃんは困ったように肩をすくめるだけだ。

「ねぇそこ邪魔なんだけど」

 突然横から押された。同じクラスの市川さんだ。強い目で私をにらむ。あきらかな敵意を感じて体を引く私とは対照的にトモちゃんが笑顔で手を振った。

「おはよう市川さん。村瀬さん告白してないんだって、良かったね!」

 市川さんの腕を掴んでぴょんぴょんと跳ねている。嬉しいことがあったときトモちゃんは笑顔でジャンプする。

「ほんとうに?」

 市川さんは困惑したような表情でトモちゃんを見つめる。

「ほんとだよ。いま聞いたもん。まだ全然チャンスあるよ」

「ちょっ、そんなんじゃないって」

 市川さんは恥ずかしそうに髪を撫でる。
 なるほど市川さんは秋吉くんのことが気になっているんだ。だから私をにらんだのね。そうと分かれば、誤解を解いておこう。

「市川さん、私、秋吉くんに聞きたいことがあっただけ。好きとか気になるとか全くないから安心して」

「ほら、ね、市川さん」

 トモちゃんも強く頷いている。

「あたしはべつに、どうでもいいんだけど」

 そっけない返事をして靴を履きかえた市川さんだけど口元が緩んでいる。これは友だちになるチャンスかもしれない。

「おっす! 村瀬」

 しかし最悪のタイミングで秋吉くんが登場した。
 気まずさに黙り込んでしまう私たち。

「どうしたどうした?」

 おどけた顔できょろきょろする秋吉くん。私は「なんでもない」と首を振って見せた。
 自分の上履きを取り出した秋吉くんは市川さんたちを気にしつつも私に声をかけてくる。

「村瀬、昨日はサンキューな。すげぇ楽しかった。もっと話聞かせてくれよ」

 う、よりによってここでその話題?
 冷や汗をかきつつ隣を盗み見ると市川さんの目つきが一段と険しくなっていた。

「行こ、坂元さん」

 市川さんは早足で歩いて行ってしまう。トモちゃんも私たちを振り返りつつ駆けて行った。まるで親分と子分。トモちゃんは市川さんのために確認しただけで、私に親切にしてくれたわけじゃないんだ。

「なんだ? ケンカ?」

 なんにも分かっていない秋吉くんが私に目配せする。

「知らない。ちょっとは空気読んでよ」

 どうやらかなりマズイ方向へ誤解されたらしい。これ以上騒ぎが大きくならないようにと願いながら歩き出すと、当然のように秋吉くんがついてきた。

「ついてこないで」

「同じクラスなんだから仕方ないだろ。トイレまではついていかないから安心しろ」

「あのねぇ、それやったらただの変態」

 なんやかんや言いながら一年六組の教室に入ると、途端だれかが口笛を鳴らした。

「カップルおめでとー」

「…………は?」

 花岡さんや土屋さんをはじめとしたクラスの数人がニヤつきながら拍手をしている。
 黒板には私と秋吉くんの名前が書かれハートマークで囲われていた。小学生じゃないんだから、とため息つきたくなったけどつい最近までみんな小学生だったんだよね。

「おめでとー、お似合いでぇーす」
「ぜんぜん羨ましくないけどねー」
「記念撮影。はい笑顔おねがいしまーす」
「チューしろよ」

 悪乗りが高じて好き勝手な言葉が飛んでくる。
 くっだらない。心底バカバカしいと思う。でもここで否定しても騒ぎが収まるとは思えない。下手したら、また……。

 私はなにも言い返せずうつむいているしかなかった。

「おいおい、みんなバカげたことはやめないか?」

 突然真面目な声を出した秋吉くんが教壇の前に立った。教室内は静まり返り、みんなの視線が集中する。秋吉くんは全員の注意が向いたことを確認した上でふたたび口を開いた。

「おれと村瀬がカップル? とんでもない勘違いだ。だって昨日おれは村瀬からなんて言われたと思う? 『あんただれ』だぜ?」

「ちょっと秋吉くん!?」

 突然の告白に慌てたのは私だ。
 まさかタイムトラベルの話をする気だろうか。そんなことしたら変な奴って思われるに決まっている。止めようか。でも止められる空気じゃない。
 秋吉くんは活き活きとした笑顔でしゃべり始める。

「おれも最初何を言われてるのか分からなかったけど、話を聞いたら村瀬はすごい能力の持ち主だったんだ」

「へぇー、どんな?」

 土屋さんが喰いついた。

「抜群の記憶力をもってるんだ。なんでも入学式当日にクラス全員の顔と名前を一瞬で憶えたらしい。で、おれはずっと保健室登校してて昨日初めて教室に来たから村瀬に問い詰められたんだよ。『あんた誰、まさか幽霊?』ってな。だから言ってやったよ」

 がばっと教壇に顔を伏せる秋吉くん。クラスのみんなは興味津々で身を乗り出す。

「おまえの言う幽霊ってこんな顔かぁあああーッ」

 顔を上げた秋吉くんは舌を突きだして白目を剥く。ものすごい変顔だった。
 一拍おいて教室内は爆笑の渦に包まれた。

「ださー!」
「それただの変顔じゃん!」
「もっと幽霊らしくしろよー」

 おどけていた秋吉くんはリクエストに応えようと再び顔を伏せた。

「こんな顔かぁー!」

 と今度は鼻の穴に指を突っ込んでる。最低だ。

「秋吉まじ受ける!」
「いいぞもっとやれー!」

 リクエストに応えて変顔のオンパレードは続く。
 私は呆れて先に席に着いた。待ちかねたように松本が椅子引いて肩を寄せてくる。

「それで、どっちから告ったの?」

 からかうようなニヤニヤ顔。腹が立つ。

「してない」

 松本の顔を見ないようにしながらカバンから教科書やノートを取り出して並べる。

「でも秋吉いい奴だよね」

「は? どこが?」

 秋吉くんは教壇の上に体を横たえて手足をピクピクと動かし、まな板の鯉とやらを演じていた。どういう流れでそうなったのか分からないけど、教室中の爆笑を買っている。

「ああやってバカやっているお陰で付き合うだのなんだのって話みーんな忘れてるし」

 指摘されて今更ながらに気づく。秋吉くんがただのお調子者ではないことに。