「まどか部活は決めたの?」

 二人分のグラスになみなみと牛乳を注ぎながらお姉ちゃんが聞いてくる。お母さんが早出出勤してしまう日はお姉ちゃんと二人で朝食を囲むのが日常だった。

「部活?」

 私は食パンをかじりながらお姉ちゃんを見上げる。

「そ。もうすぐ五月だし、そろそろ仮入部でしょう? あたしは歌うの好きだったから即決で合唱部だったけど」

「見学はするけと多分どこにも入らない。前……の小学校のときもクラブ入らなかったし、中学でもいいかなーって」

「あんたらしいわ。でも文系で軽めの部活に入ってもいいんじゃない? 顧問や先輩との付き合いは面倒だけど部活のつながりって結構強いよ。休み時間になると教室を出て部活仲間のところに行く子も結構いるし。しょせんクラスなんて出身学校や性別でテキトウに分けただけの集まりだし、みんな仲良くしろって言われたって無理無理。普通にいじめあるし」

 喉の奥に食パンが引っかかった気がした。

「お姉ちゃんのクラスでもあったの?」

「うちは教師いじめかな。英語の先生でさ、一年のころの担任。クラス全員で無視していたら三学期からパッタリ来なくなっちゃった。休職だって。いまごろ何してるんだろう? 小さい子どももいるのに大変だよね~」

 武勇伝みたいに語るお姉ちゃんは「悪いことをした」とはこれぽっちも思っていないだろう。

「なんでそんなことしたの、可哀想じゃん」

「だって顔が気持ち悪かったし声もでかいしデブだし」

「それだけ? なにかイヤなことされたわけじゃなくて?」

「まどか顔こわい」

「……ごめん」

 無意識のうちに身を乗り出していた私はグラスに口をつける。牛乳なのに、苦い。

「べつになにもされてないよ。ホントのことを言うと、英語の授業は分かりやすくて好きだったけど、クラスみんな無視しているのにあたしだけ味方みたいな顔したらずるいじゃん?」

 休職にまで追い込まれた先生がどんな気持ちだったのか、いまの私には分かる。
 いじめた奴らが憎いし、いじめられた自分が恥ずかしいし、普通の中学生活を送れないことが哀しいし、家族に迷惑をかけてしまった自分が情けない。
 だけど加害側はなにも感じてないんだ。お姉ちゃんだけが例外なんじゃない。

「でね、担任が替わったあとはクラス内の大人しい子がターゲットになったの。あぁ誰でもいいんだって思ったら萎えちゃったから付き合わなかったけど、その子が色んな証拠集めて学級裁判みたいなの始めたときはヒヤヒヤしたなぁ」

 殺伐としたクラスの様子を笑いながら語ってくれる。
 もし三年後に私が自殺するとを話したらどんな顔するだろう。冗談でしょ、と笑うだろうか。
 ううん。お姉ちゃんはたぶん心配してくれる。毎日メールをくれ、腫れ物を扱うように接してくれる。「前」だってそうだった。
 だから私はお姉ちゃんにそんな態度をとらせてしまった自分が悔しくて情けなくてどうしようもないから松本たちを恨むことで怒りを消化していた。

「せっかく中学生になったんだから色々楽しみなよね。恋愛相談なら聞いてあげるよ?」

 思わず牛乳を噴きそうになった。

「余計なお世話! そんなのあり得ないから!」

 頬杖ついてにやにやしているお姉ちゃんには申し訳ないけど、イジメられてた私には恋なんて無縁だったよ。


   ※


 入学式から二週間が過ぎた。
 クラス内は少しずつ仲良しグループが形成されていて、休み時間につるむ人たちが多くなった。
 ちなみに、あれ以来私が花岡さんに近づく機会はほとんどない。
 観察して分かったけど、休憩時間になると花岡さんはいの一番で土屋さんの席に駆けていく。飼い主のことが大好きな子犬みたいに。土屋さんも当然のように花岡さんを待ち受けていて、ちょっとの時間でも楽しそうに話している。
 可愛くて目立つ二人はクラス内でも自然と注目を集めている。近くにいる男子生徒に屈託なく話しかけるのもそうだ。ゆくゆくはこの二人がクラスの中心になるって勘のいい子は分かるんだろうな。あのころの私には分からなかったけど。

 一方の松本は――。

 いずれ群れる二人をよそに自席で本を読んでいる。我関せずって顔で。
 このころ私は趣味が同じトモちゃんという友人を見つけていて、それこそ休み時間の度に昨日見たアニメのキャラがどう、次の新刊はいつ、なんて話題で盛り上がっていた。だから松本の動向は把握していないのだ。

「ねぇ、図書室いかない? 読み終わったから返却に行こうと思うんだけど」

 突然振り返った松本が本を掲げた。随分と難しそうなタイトルの本だ。

「……なんで私?」

 友だちでもないのに。

「べつに。ヒマそうだったから」

 そんなふうに優しい顔したって私にしたことは消えないんだからね。

「いい、いかない」

「あ、そう。せっかく誘ってあげたのに」

 松本は「せっかく」の部分を強調して立ち上がった。そのまま教室を出ていこうとする。

「あ、図書室いくの? うちらもいくー」

 どこで聞き耳を立てていたのか土屋さんと花岡さんが合流して一緒に出ていった。しまった、と心の中で叫ぶも手遅れで三人は仲良く消えてしまった。私はバカだ。変に意地張って断らなければ良かった。三人はこうやって手を結んでいくのね。

 というか、なんで松本は私を誘ったの?
 私がひとりで淋しそうに見えたから?――クラス内を観察していただけだよ。
 友だちができないように見えたから?――平気だよ。だって私にはトモちゃんという大親友ができるんだから。残念ながらいまの私はトモちゃんと夢中になって話したアニメや漫画の結末を知ってしまっているから心から楽しむことはできないけど。それでもトモちゃんはきっと仲良くしてくれるはず。

 そう思ってトモちゃんの席を見たけどだれもいない。焦って姿を探すと窓際の席で学級委員の市川さんと話をしていた。
 市川さんは基本的には誰とも馴れ合わない一匹狼という印象だ。でも頭がいいのでテスト前はみんなから頼りにされてイジメの対象にはならなかった。いつも怒ったような顔をしていて、下手に話しかけたら怒鳴られそうな気がして敬遠していた。

 そんな市川さんと果敢にトークしているトモちゃんだけど、意外にも盛り上がっているのか笑顔が垣間見える。
 トモちゃんと市川さん。こんな組み合わせ一度も見たことがない。


 なにかが、ちがう。


 そんな不安が湧き上がってきた。
 親しげに話しかけてくる松本や市川さんと談笑するトモちゃん。
 私の知っている三年前とはちがう。前とは違うことが起きている。
 ここは本当に私が過ごしてきた世界なの?

 改めていまの自分の状況を見回す。
 私の周りにはだれもいない。トモちゃんの存在もいまは遠い。

 私はこのままひとりぼっちなの?

 イジメはつらかった。だけどトモちゃんがいたからまだ居場所があった。
 そのトモちゃんがいない私はこれからどうなるんだろう。どうしよう、不安でたまらない。

 ――確かめなくちゃ。

 立ち上がって廊下へ飛び出した。向かう先は保健室。
 タイムトラベルのきっかけをくれた時任先生のところ。



「先生!」

 保健室の扉を開ける。天井も壁もまっしろ、消毒液のにおいが鼻をついてくる。

「時任先生、いませんか。入りますよ」

 返事はない。
 壁際に寄せられた体重計、視力をはかるランドルト環や薬瓶がぎっしり詰まった戸棚などを見ながら奥へ進んでいく。陽の光がたっぷり降り注ぐ窓際の本棚の上に四角い水槽があった。

「あ、かわいい」

 水槽の中でメダカが数匹泳いでいる。

「キミたちはいいねぇ。仲が良さそうで」

 決して大きいとは言えない水槽の中でのびのびと泳いでいる。教室のように窮屈な場所とは大違いだ。
 と、背後でカーテンが開く音がした。

「先生……あ。」

 ぼさぼさの髪を手櫛でとかしながら出てきたのはワイシャツ姿の男子生徒だった。

「ごめんなさい、寝てましたよね」

 まったく気づかずに独り言を喋ってた。急に恥ずかしくなる。

「ぜんぜん。とっくに起きてた」

 彼は大きな欠伸をすると上履きを引っ掛けながらよろよろと出てくる。
 私の前を素通りし、水槽の隣にあった「メダカの餌」の瓶を開けて茶色い粉を一つまみ。水面にさらりと浮かべてやると魚たちが浮上して粉をついばみ始めた。

「勝手に餌をあげていいの?」

「先生の許可は得てる。水面近くを泳いでただろう、腹を減らしてたんだよ。放っておくと共食いするかもしれない」

 「共食い」と嚇かされて怯んだ。共食いはよくない。
 男子生徒はメダカたちが餌を食べるのを眺めながら話しかけてくる。

「先生に用事だろ? ちょっと呼ばれただけだから、もうすぐ戻ってくるんじゃないかな」

「そっか、ありがと」

 いまはいないのか。
 タイムトラベルの話は他の生徒の前でできる類のものじゃないし、また後で出直した方がいいかな。

「なぁあんた、村瀬?」

 いきなり名前を呼ばれてびっくりした。

「なんで私の名前を……」

「名札見れば分かる」

「あぁ、そっか。びっくりしたぁ」

 制服の胸ポケットにつけている名札は三色あって学年ごとに色が違う。赤い名札は一年。ご丁寧に『六組 村瀬』とクラスと苗字が彫ってあるので、イジメの噂を知っている他クラスの生徒でも一目で私が『対象者』だと分かってしまうのである。
 一方で男子生徒の上着は椅子にかかっていて名札が見えない。たまたま保健室で一緒になった相手のことなんてどうでもいいし名前を覚えようとも思わないけど。

「戻るね、うるさくしてごめんなさい」

 回れ右するのと同時に保健室の扉が開いた。白衣を着た若い女の先生が駆け込んでくる。

「ごめんなさい秋吉くん。遅くなっちゃって」

「いえいえ、全然待ってないですよ水沢先生」

 時任先生じゃない。そうだ。時任先生は臨時だって言ってた。
 目の前にいる先生は二年後に産休に入り、その代替として時任先生がやってくる。それまで私はだれにも相談できないのだ。

「えぇと一年六組の村瀬さん? どうしたの、顔色が悪いみたいだけど」

「い、いえ」

 腰をかがめて優しく尋ねてくれる先生。その気遣いは嬉しいけどいまの私が欲しいものじゃない。

「なんでもありません。教室に戻ります。すみませんでした」

 結局なにも進展しないまま暗澹たる気持ちで保健室を出た。すると後ろから肩を叩かれる。

「おい。これ、忘れ物」

 さっきの男子生徒だ。追い抜きざまに手のひらに何かを押しつけると上着を羽織りながら階段を駆け上がっていく。胸ポケットで赤い名札が揺れていた。クラスや名前までは見えなかったけど同じ一年生であることは間違いない。

「変なヤツ」

 自分の手を見下ろす。
 なに握らされたんだろう。飛び出すオモチャとかじゃないよね。
 恐る恐る指を開き、押しつけられたものを確認する。赤い名札だ。

「…………なんで!? なんでこれがあるの!?」

 名札に刻まれた文字を見てパニックになった。
 だってそれはタイムトラベル前に棄ててきた『六組 村瀬』の名札だったのだから。