※ ※ ※
「トモちゃん。おはよう」
次の日、学校の玄関で見知った背中を見かけて肩を叩いた。
「え?……あ、おはよう……」
トモちゃんは消え入りそうな声で挨拶してくれる。
「あの、ごめんなさい……だれ、だっけ……」
忘れてた!
トモちゃんは唯一の味方だったけど、この時はまだ昨日顔を合わせばかりの同級生なんだ。
私は慌てて笑顔を取り繕う。
「驚かせてごめんなさい。私、同じ六組の村瀬まどかっていうの。トモ……坂元さんの席から三列右隣なんだけど」
「えっと……村瀬、さん……よろしく」
弱々しく笑顔を浮かべているけどまだ警戒を解いていない。
「坂元トモカちゃんだよね。イラストが大好きで将来イラストレーター目指しているんだよね」
不安そうな眼差しが一転、恐怖の色に染まる。
「なんで? だれにも言ったことないのに!」
まずい、安心させようとして逆に怖がらせちゃった。
「ほら、ペンケース。坂元さんのペンケース見たから。あれ有名なイラストレーターさんのだよね。限定品だから好きなのかなぁと思って」
トモちゃんが使っていたペンケースは、いまから数ヶ月後、なくなってしまう。
体育の授業から戻ってきて大事なペンケースがないことに気づいたトモちゃんは、半狂乱になりながら探し回った。もちろん私も。
しばらくしてゴミ箱の中から見つかった。
中に入っていた可愛らしいシャープペンや消しゴムはゴミ箱内にばらまかれ、かわりに使用済みのティッシユやガムの包み紙なんかががぎっちり詰め込まれていた。
犯人は分からないままだったけど、「かわいそー」と半笑いで見ていた松本たちの姿が目に焼きついている。
『なんかベタベタするし、キャラクターに油性ペンで落書きされてる。――ひどいよ、こんなの、あんまりだよ』
泣きながらペンケースを抱きしめるトモちゃんを見て胸が痛くなった。
すごく申し訳なかった。私と一緒にいたからこんなことになったって。
私は少しずつトモちゃんと距離をおくようになって、二、三ヶ月も経つと一緒に行動することもなくなっていた。トモちゃんはクラス内の大人しそうなグループに合流して、目立たず、楽しそうにしていた。
本当は私もそのグループに混ざりたかったけど、迷惑をかけたくなくて、我慢していた。
「おはよう」
松本が平然と現れた。まじまじと顔を見つめてくる。
「村瀬さん、本当に髪切ったんだ」
「そうだよ。だからなに?」
「べつに。変わってるなぁって思っただけ」
顔を見てるだけでイライラしてきた。
「それはどうも。――坂元さん、教室いこ」
「え? あ、うん……」
トモちゃんを促して廊下を歩き出した。
せっかくタイムトラベルしたんだから今度は松本たちの好きにはさせない。トモちゃんを泣かせたりしない。
いじめられないためにはどうすればいいか。
まずは『強力な仲間』が必要だ。
六組には大雑把に三つのグループがある。
ひとつは松本を筆頭にしたいじめの悪ノリグループ。
もうひとつは部活や勉強優先でいじめには無関心グループ。
最後は長いものに巻かれる気弱グループ。
松本の牙城を崩すには悪ノリグループを攻略していくしかない。強固な団結力は恐怖でしかないけど、いまは入学したばかりなのでだれもが本性を隠して大人しくしている。チャンスはこの時期しかない。
松本と仲良くしたいとは思わない。関わりたくない。だけどなにもしないままでは前と同じようにいじめられるだけだ。
そんなのイヤだ。周囲の目を気にしながら我慢するだけの生活なんてうんざり。福留は頼りにならない。私が動くしかないんだ。
まずは――……。
目を付けたのは、まだ知り合いの少ない教室内で楽しそうに言葉を交わす二人の女子生徒だ。
保育園時代からの知り合いだという土屋エミさんと花岡リサさん。土屋さんは来月軽音部に入って髪を染めるようになるし、花岡さんは数週間も経たずに三年生と付き合うようになる。
一軍の彼女たちを味方につけられれば怖いものはない。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
花岡さんが動き出すとすかさず土屋さんが追いすがった。
「あたしもー」
「えー、恥ずかしいよー。すぐ戻るから待ってて」
やんわりと断って教室を出た花岡さん。
いまだ!
私はあとを追うように教室を飛び出した。
ふたり一緒にいるときは声をかけづらい。どちらかと言えば性格が良さそうな花岡さんから攻略していくのがいいと思う。
さも偶然という顔で女子トイレに入り、個室に入った花岡さんを待つ。
不自然に思われないよう手を洗ったり髪を整えていたりした。お姉ちゃんから教えてもらったアイブロウ、それから色付きリップ。悪くない。別人みたい。
タイムトラベル前はお化粧にはまるで興味なかったけど、こんな簡単に変われるんだ。
ほんのちょっとの勇気があれば簡単に変われるのに……私は、なんで死ななくちゃいけなかったんだろう。
思わずうなじを撫でる。もうそこに長い髪はない。
髪を伸ばしていたのは、小学校の入学式前に行った美容室で短く切られてしまって男の子みたいで恥ずかしい思いをしたからだ。六年かけて伸ばしたあの長い髪、結構気に入っていたんだけど。まさかそのせいでイジメに遭うなんて思わなかった。
なんで私だったんだろう?
なんで誰も助けてくれなかったんだろう?
手を差し伸べてくれなかったんだろう?
なんで?
ガチャ、と鍵を解く音がして個室から花岡さんが出てきた。
私のことをちらっと見たけど特に話しかけるでもなく手を洗いはじめる。
隣に立つ私の心臓がドキドキと鳴り始めた。ああ、いざ話しかけるとなると緊張する。だって前は「ちゃんと話した」ことなんて一度もなかったから。
もたもたしている間に花岡さんは手を洗い終え、鏡で前髪を気にしながらも扉に向かう。
私はスッと息を吸い込んだ。
がんばれ、がんばれ私。
ここでなにもしなかったら前と同じだ。苦しくてむなしい三年間が待っている。
「――は、なおか、さん!」
「なに?……ていうか、だれ?」
突然呼ばれて、警戒心を剥き出しにして私を見ている。
「私……私、村瀬まどかって言うんだけど」
不審がられているのに、私はなぜか振り向いてくれたことが嬉しかった。
だってタイムトラベル前は視界に入るだけでクスクスと笑われた。トイレで鉢合わせしようものなら「汚い」と罵られてこれみよがしに逃げられることさえあった。近くづく度、目が合う度にひどい言葉で殴られ続けた。
そんな相手に、いまの私はひとりの人間として認識されている。
「同じ六組……だよね? 一緒に教室戻っても、いい?」
「別にいいけど」
「ありがと」
ぎこちなく笑いかける。廊下を歩きながら必死に話題を探った。
「花岡さんって最近よく見る女優さんに似てるよね。あ、ほら、つい最近も話題になった映画に出てた○○さん」
売り出し中の女優さんの名前を口にしてみる。
「……だれそれ? 知らないけど」
知らないって……そうか女優さんを見かけるようになったのは中学三年の頃だ。いまはまだ知名度が低いんだ。
「そ、そのうち見かけるようになるかもしれないよ。たぶん」
花岡さんの不審そうな眼差しが痛い。
どうしよう話が続かない。せっかく自分から声をかけたのに。うう。
「村瀬さんって眉描いてるの?」
焦る私に話題を提供してくれたのは意外にも花岡さんだった。
「うん、そうなの。昨日美容室で眉整えてもらって、お姉ちゃんがアイブロウ貸してくれて。リップも」
「へぇー、うち親が厳しくて小学生までは日焼けどめ以外禁止だったんだよね。眉いいよね、あたしも描いてこようかなー」
お化粧品は興味ないから分からないけど、私すごい。ちゃんと会話できてる。元いじめっ子と言葉のキャッチボールしてるよ。
このまま土屋さんとも仲良くなれればイジメから卒業できるかも。
「花岡さんや土屋さんは元々可愛いからお化粧もきっと似合うよ」
「ありがとう。でもなんでエミとセットなの?」
「え、だって、仲良さそうだから。いつも一緒だし楽しそうに話しているし」
「……そう見える?」
曖昧に微笑んだ。
あれ、なんだか様子がおかしい。
「リーサー!!」
教室前の廊下で土屋さんが大きく手を振っていた。
花岡さんは「いまいくー」と笑顔で応えると、私なんかそっちのけで走り出した。たまたまトイレが一緒になったから話をしたけど教室内でまで仲良くするつもりはないようだ。
私は花岡さんを介して土屋さんとも仲良くなって松本を引き離すつもりだったから、それでは困るのだ。
だから追いつこうとしたけれど、
「本当はそうでもないんだけどね」
と吐き捨てられた言葉に気を取られ、結局肩を並べることはできなかった。
本当はそうでもない――って、どういう意味?
給食のコッペパンを食べながら考える。
まだ入学して二日目なので、教室の中はとても静か。ほとんどの生徒は自分の席で機械的に箸を動かすだけだ。小学校のようにグループごとに机を並べて食べることはない。一方、花岡さんと土屋さんは机を並べて楽しそうに食事中。とても「そうでもない」ようには見えない。
「ちょっと村瀬さん。さっきからうるさい。貧乏ゆすり」
突然前の席の松本が振り返った。
口に含んだパンを吐き出したいような嫌悪感に襲われる。
「貧乏ゆすりなんてしてないよ!」
机の手をつくとギィと小さく鳴いた。
そうだ。この机の脚は一本削れていて、私が動くたびに音が鳴るんだ。
これも随分と笑いの種にされたっけ。「巨大地震が来たから逃げろー」とか「机に罪はないのに床がかわいそう」とか。悪口のオンパレードだったなぁ。
いま思い出すと悪口そのものが子どもすぎて笑っちゃうんだけど、あのころの私には世界中から攻撃されているような恐怖だった。机ひとつ、物ひとつ動かすだけで笑いものになる。それが怖くて消しゴムの屑ひとつ落とさないよう常に神経を使っていた。
「あんまりうるさいなら先生に言って机を替えてもらえば?」
松本が私の机の天板を叩く。
「べつにいいよ。このままで」
余計なお節介だ。構わないでほしい。
そんな思いが顔に出てしまっていたのか、松本はムッとしたように眉を吊り上げた。
「そうやって不満そうな顔しているけど、先生だって生徒ひとりひとりに気を配ることなんてできないんだから言わなきゃ分かんないよ」
意外な指摘にびっくりして言葉も出なかった。
言わなきゃ分からないって、よりによってあんたが言うの?
「まぁ村瀬さんがいいならいいけどね。べ・つ・にー」
食器を片づけつつ教室を出て行ってしまう。
残された私はなんとも釈然としない気持ちだった。
松本ってこんなに私に話しかけてくる相手だったかな。
思い出せない。
※ ※ ※
「六組のみなさん一週間お疲れ様でした」
週の最後のホームルーム。教壇に立った福留はレモンイエローのコサージュをしていた。
「まだ中学生としての実感が湧いていないと思いますが、早くお友だちを作って学校生活を楽しんでくださいね。この貴重な時間を経験できるのは一生に一度だけですから」
福留が楽しそうに語るほど私の心は冷えていく。
だれのせいで二度目の中学生活をしていると思っているの?
そんなこととはつゆ知らず、福留はますます饒舌になっていく。
「来週からは本格的に授業が始まりますし、部活の見学もスタートします。五月末には中間テスト、七月中旬には期末テストもありますから勉強もおろそかにしないこと。夏休みに入った八月には一年生恒例の臨海学習があります。楽しみですね」
――臨海学習。
あぁそうだ、そこだ。私が初めて「イジメ」に気づいたのは。
一泊二日の臨海学習で海を訪れた私たちはクラスで集合写真をとった。でもその中に私とトモちゃんの姿はない。トイレに行っている間に撮影を済まされてしまったからだ。
だれにも呼ばれず、気に留められず、存在しないものとして扱われたのだ。
その時はまだ何が起きたのか分からなかったけれど、臨海学習以降、クラスのみんなは結託して私たちを無視するようになった。
あとでアルバムを見て気づいた。クラスの女子たちはどの写真でも私とトモちゃんから不自然なほど距離をとって収まっていることに。あの海でもうイジメは始まっていたのだ。
きっとここが大事な分岐点(キーポイント)だ。
八月の臨海学習で、私もトモちゃんも笑顔で集合写真に映る。そうすればきっと未来は変わるはず……。
目標が定まった。
「よし、明日からも頑張るぞ!」
ホームルームが終わり、気合いを胸に玄関に向かうと花岡さんにばったりと出くわした。向こうも私に気づいて動きを止める。
「村瀬さん帰りは駅まで?」
「うん、駅からバスだよ」
「あたしの家は駅の近くなんだ。一緒に行っていい?」
「も、もちろん!」
並んで玄関を出た。
どうしよう、すっごく嬉しい。元いじめっこと元いじめられっこが一緒に下校するなんて信じられない。
「今日土屋さんは? いつもみたいに一緒に帰らないの?」
「エミは用事があるってさっさと帰っちゃった。それより村瀬さんは友だちできた?」
「あ、これから……かな。花岡さんは?」
「ぜーんぜん」
内心「えっ」と叫びたい気持ちだった。
「土屋さんは?」
「あれは友だちって言うか――まとわりついているだけだよね」
ごまかすように通学カバンを背負いなおす。
「本当は気が重いんだよね。あの子すっごくワガママで気に入らない同級生とかどんどんいじめるタイプだからさ」
「そ、そうなんだ」
「だから小学生のころはなるべく関わらないように距離とってたのに、中学のクラス発表見てがっかり。エミはひとりが淋しいから親友みたいに話しかけてくるけど、ほんと面倒くさい」
意外だった。
あんなに仲良さそうなのに本心では土屋さんを嫌っているんだ。
「部活だってモチロン軽音部だよねって勝手に決めるし、五月の連休もあそこ行きたいここ行きたいって本当にウザい」
汚い言葉を吐き捨てた花岡さんの表情は見たこともないくらい「無表情」で、だからこそ嫌悪感が伝わってきた。
「そんなに嫌なのにどうして一緒にいるの?」
思ったことを率直に尋ねてみた。花岡さんは気だるそうに自分の髪を撫でている。
「だって下手に無視すると面倒そうだから。エミ、上の学年にイケメンのお兄さんがいて学校内に仲間が多いんだよ。機嫌を損ねていじめられるのもイヤだし、せっかく中学生になったんだからメイクして、彼氏作って楽しみたいじゃん。だから友だち(仮)ってことでテキトウに付き合ってるの。つかず離れず、ゆるーくね」
花岡さんは完全に割り切ってる。友だちに(仮)をつけるなんて初めて知った。
……でも、私もそうなのかな。花岡さんや土屋さんの立場を利用してイジメを回避しようとしている。
嫌われないように、でもくっつきすぎないように、相手に応じて付き合いを変えていくのが正解なのかな。
そうやって器用になっていかないといけないのかな……。
「ところでさ」
花岡さんが道端の石を蹴った。大して飛ばなかったので、すぐに追いついてまた蹴った。何度も何度も繰り返し蹴る。
「ウチのクラスに松本アズサっているじゃん。なんか性格悪そうだよね?」
先ほどまで無表情だった花岡さんは活き活きしている。
「どうかな……よく分からない」
口の中が妙に乾く。じわりと冷や汗がでてきた。
私をいじめていたんだから性格は悪い、と思う。だけどそれに便乗した花岡さんや土屋さんも同じだ。
「なんか怖いじゃん、目つきとか話し方とかさ。ああいうタイプきらいなんだよね」
ちらり、と私を見てくる。同意を求めるように。
「ウザいよね。そう思わない?」
仲間外れにしよう、って言われてる。
仲間にしてあげるから、あいつをイジメようって誘われている。
心がえぐられるような気がした。
今日に至るまで花岡さんと松本が話をしていた様子はない。「同じクラス」という結びつき以外、お互いのことを何も知らない同士だ。それなのに「嫌い」「ウザい」と言いきれてしまう。きっと私もこんなふうに勝手に嫌われていたんだろうな。
分かんない。 なんでそんな簡単に人をイジメられるの?
おかしい! 間違ってる!――そう叫びたかったけれど。
「……私そういうの、あんまり」
そう答えるのが精いっぱいだった。
口惜しいけれど結局は私も花岡さんと同じだ。相手の顔色や立場を伺って”いい顔”しているだけなのだ。
「あっそ。つまんない。村瀬さんって付き合い悪いんだね」
花岡さんは思いっきり石を蹴り飛ばした。道路の反対側の排水溝に落ちていく。
「いまの話、エミにしたら許さないから」
きつく睨んだかと思うと「あたしこっちだから、ばいばい」と言い捨てて角を曲がっていってしまった。
やっちゃった……これじゃあ私のへの印象最悪じゃない。
「……でも、だって、おかしいよ」
私は足元に転がっていた小さな小さな石を靴先でつつく。
分からない。性格悪そうだから。嫌いなタイプだから。そんな理由でいじめるの? 付き合い悪いって言うけどイジメって付き合いなの?
松本ひとりが大人しくしていればイジメなんて起きないと思っていたけど見当違いだったのかもしれない。
分からない。
三年後に私を死に追いやったのはだれなの?
「トモちゃん。おはよう」
次の日、学校の玄関で見知った背中を見かけて肩を叩いた。
「え?……あ、おはよう……」
トモちゃんは消え入りそうな声で挨拶してくれる。
「あの、ごめんなさい……だれ、だっけ……」
忘れてた!
トモちゃんは唯一の味方だったけど、この時はまだ昨日顔を合わせばかりの同級生なんだ。
私は慌てて笑顔を取り繕う。
「驚かせてごめんなさい。私、同じ六組の村瀬まどかっていうの。トモ……坂元さんの席から三列右隣なんだけど」
「えっと……村瀬、さん……よろしく」
弱々しく笑顔を浮かべているけどまだ警戒を解いていない。
「坂元トモカちゃんだよね。イラストが大好きで将来イラストレーター目指しているんだよね」
不安そうな眼差しが一転、恐怖の色に染まる。
「なんで? だれにも言ったことないのに!」
まずい、安心させようとして逆に怖がらせちゃった。
「ほら、ペンケース。坂元さんのペンケース見たから。あれ有名なイラストレーターさんのだよね。限定品だから好きなのかなぁと思って」
トモちゃんが使っていたペンケースは、いまから数ヶ月後、なくなってしまう。
体育の授業から戻ってきて大事なペンケースがないことに気づいたトモちゃんは、半狂乱になりながら探し回った。もちろん私も。
しばらくしてゴミ箱の中から見つかった。
中に入っていた可愛らしいシャープペンや消しゴムはゴミ箱内にばらまかれ、かわりに使用済みのティッシユやガムの包み紙なんかががぎっちり詰め込まれていた。
犯人は分からないままだったけど、「かわいそー」と半笑いで見ていた松本たちの姿が目に焼きついている。
『なんかベタベタするし、キャラクターに油性ペンで落書きされてる。――ひどいよ、こんなの、あんまりだよ』
泣きながらペンケースを抱きしめるトモちゃんを見て胸が痛くなった。
すごく申し訳なかった。私と一緒にいたからこんなことになったって。
私は少しずつトモちゃんと距離をおくようになって、二、三ヶ月も経つと一緒に行動することもなくなっていた。トモちゃんはクラス内の大人しそうなグループに合流して、目立たず、楽しそうにしていた。
本当は私もそのグループに混ざりたかったけど、迷惑をかけたくなくて、我慢していた。
「おはよう」
松本が平然と現れた。まじまじと顔を見つめてくる。
「村瀬さん、本当に髪切ったんだ」
「そうだよ。だからなに?」
「べつに。変わってるなぁって思っただけ」
顔を見てるだけでイライラしてきた。
「それはどうも。――坂元さん、教室いこ」
「え? あ、うん……」
トモちゃんを促して廊下を歩き出した。
せっかくタイムトラベルしたんだから今度は松本たちの好きにはさせない。トモちゃんを泣かせたりしない。
いじめられないためにはどうすればいいか。
まずは『強力な仲間』が必要だ。
六組には大雑把に三つのグループがある。
ひとつは松本を筆頭にしたいじめの悪ノリグループ。
もうひとつは部活や勉強優先でいじめには無関心グループ。
最後は長いものに巻かれる気弱グループ。
松本の牙城を崩すには悪ノリグループを攻略していくしかない。強固な団結力は恐怖でしかないけど、いまは入学したばかりなのでだれもが本性を隠して大人しくしている。チャンスはこの時期しかない。
松本と仲良くしたいとは思わない。関わりたくない。だけどなにもしないままでは前と同じようにいじめられるだけだ。
そんなのイヤだ。周囲の目を気にしながら我慢するだけの生活なんてうんざり。福留は頼りにならない。私が動くしかないんだ。
まずは――……。
目を付けたのは、まだ知り合いの少ない教室内で楽しそうに言葉を交わす二人の女子生徒だ。
保育園時代からの知り合いだという土屋エミさんと花岡リサさん。土屋さんは来月軽音部に入って髪を染めるようになるし、花岡さんは数週間も経たずに三年生と付き合うようになる。
一軍の彼女たちを味方につけられれば怖いものはない。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
花岡さんが動き出すとすかさず土屋さんが追いすがった。
「あたしもー」
「えー、恥ずかしいよー。すぐ戻るから待ってて」
やんわりと断って教室を出た花岡さん。
いまだ!
私はあとを追うように教室を飛び出した。
ふたり一緒にいるときは声をかけづらい。どちらかと言えば性格が良さそうな花岡さんから攻略していくのがいいと思う。
さも偶然という顔で女子トイレに入り、個室に入った花岡さんを待つ。
不自然に思われないよう手を洗ったり髪を整えていたりした。お姉ちゃんから教えてもらったアイブロウ、それから色付きリップ。悪くない。別人みたい。
タイムトラベル前はお化粧にはまるで興味なかったけど、こんな簡単に変われるんだ。
ほんのちょっとの勇気があれば簡単に変われるのに……私は、なんで死ななくちゃいけなかったんだろう。
思わずうなじを撫でる。もうそこに長い髪はない。
髪を伸ばしていたのは、小学校の入学式前に行った美容室で短く切られてしまって男の子みたいで恥ずかしい思いをしたからだ。六年かけて伸ばしたあの長い髪、結構気に入っていたんだけど。まさかそのせいでイジメに遭うなんて思わなかった。
なんで私だったんだろう?
なんで誰も助けてくれなかったんだろう?
手を差し伸べてくれなかったんだろう?
なんで?
ガチャ、と鍵を解く音がして個室から花岡さんが出てきた。
私のことをちらっと見たけど特に話しかけるでもなく手を洗いはじめる。
隣に立つ私の心臓がドキドキと鳴り始めた。ああ、いざ話しかけるとなると緊張する。だって前は「ちゃんと話した」ことなんて一度もなかったから。
もたもたしている間に花岡さんは手を洗い終え、鏡で前髪を気にしながらも扉に向かう。
私はスッと息を吸い込んだ。
がんばれ、がんばれ私。
ここでなにもしなかったら前と同じだ。苦しくてむなしい三年間が待っている。
「――は、なおか、さん!」
「なに?……ていうか、だれ?」
突然呼ばれて、警戒心を剥き出しにして私を見ている。
「私……私、村瀬まどかって言うんだけど」
不審がられているのに、私はなぜか振り向いてくれたことが嬉しかった。
だってタイムトラベル前は視界に入るだけでクスクスと笑われた。トイレで鉢合わせしようものなら「汚い」と罵られてこれみよがしに逃げられることさえあった。近くづく度、目が合う度にひどい言葉で殴られ続けた。
そんな相手に、いまの私はひとりの人間として認識されている。
「同じ六組……だよね? 一緒に教室戻っても、いい?」
「別にいいけど」
「ありがと」
ぎこちなく笑いかける。廊下を歩きながら必死に話題を探った。
「花岡さんって最近よく見る女優さんに似てるよね。あ、ほら、つい最近も話題になった映画に出てた○○さん」
売り出し中の女優さんの名前を口にしてみる。
「……だれそれ? 知らないけど」
知らないって……そうか女優さんを見かけるようになったのは中学三年の頃だ。いまはまだ知名度が低いんだ。
「そ、そのうち見かけるようになるかもしれないよ。たぶん」
花岡さんの不審そうな眼差しが痛い。
どうしよう話が続かない。せっかく自分から声をかけたのに。うう。
「村瀬さんって眉描いてるの?」
焦る私に話題を提供してくれたのは意外にも花岡さんだった。
「うん、そうなの。昨日美容室で眉整えてもらって、お姉ちゃんがアイブロウ貸してくれて。リップも」
「へぇー、うち親が厳しくて小学生までは日焼けどめ以外禁止だったんだよね。眉いいよね、あたしも描いてこようかなー」
お化粧品は興味ないから分からないけど、私すごい。ちゃんと会話できてる。元いじめっ子と言葉のキャッチボールしてるよ。
このまま土屋さんとも仲良くなれればイジメから卒業できるかも。
「花岡さんや土屋さんは元々可愛いからお化粧もきっと似合うよ」
「ありがとう。でもなんでエミとセットなの?」
「え、だって、仲良さそうだから。いつも一緒だし楽しそうに話しているし」
「……そう見える?」
曖昧に微笑んだ。
あれ、なんだか様子がおかしい。
「リーサー!!」
教室前の廊下で土屋さんが大きく手を振っていた。
花岡さんは「いまいくー」と笑顔で応えると、私なんかそっちのけで走り出した。たまたまトイレが一緒になったから話をしたけど教室内でまで仲良くするつもりはないようだ。
私は花岡さんを介して土屋さんとも仲良くなって松本を引き離すつもりだったから、それでは困るのだ。
だから追いつこうとしたけれど、
「本当はそうでもないんだけどね」
と吐き捨てられた言葉に気を取られ、結局肩を並べることはできなかった。
本当はそうでもない――って、どういう意味?
給食のコッペパンを食べながら考える。
まだ入学して二日目なので、教室の中はとても静か。ほとんどの生徒は自分の席で機械的に箸を動かすだけだ。小学校のようにグループごとに机を並べて食べることはない。一方、花岡さんと土屋さんは机を並べて楽しそうに食事中。とても「そうでもない」ようには見えない。
「ちょっと村瀬さん。さっきからうるさい。貧乏ゆすり」
突然前の席の松本が振り返った。
口に含んだパンを吐き出したいような嫌悪感に襲われる。
「貧乏ゆすりなんてしてないよ!」
机の手をつくとギィと小さく鳴いた。
そうだ。この机の脚は一本削れていて、私が動くたびに音が鳴るんだ。
これも随分と笑いの種にされたっけ。「巨大地震が来たから逃げろー」とか「机に罪はないのに床がかわいそう」とか。悪口のオンパレードだったなぁ。
いま思い出すと悪口そのものが子どもすぎて笑っちゃうんだけど、あのころの私には世界中から攻撃されているような恐怖だった。机ひとつ、物ひとつ動かすだけで笑いものになる。それが怖くて消しゴムの屑ひとつ落とさないよう常に神経を使っていた。
「あんまりうるさいなら先生に言って机を替えてもらえば?」
松本が私の机の天板を叩く。
「べつにいいよ。このままで」
余計なお節介だ。構わないでほしい。
そんな思いが顔に出てしまっていたのか、松本はムッとしたように眉を吊り上げた。
「そうやって不満そうな顔しているけど、先生だって生徒ひとりひとりに気を配ることなんてできないんだから言わなきゃ分かんないよ」
意外な指摘にびっくりして言葉も出なかった。
言わなきゃ分からないって、よりによってあんたが言うの?
「まぁ村瀬さんがいいならいいけどね。べ・つ・にー」
食器を片づけつつ教室を出て行ってしまう。
残された私はなんとも釈然としない気持ちだった。
松本ってこんなに私に話しかけてくる相手だったかな。
思い出せない。
※ ※ ※
「六組のみなさん一週間お疲れ様でした」
週の最後のホームルーム。教壇に立った福留はレモンイエローのコサージュをしていた。
「まだ中学生としての実感が湧いていないと思いますが、早くお友だちを作って学校生活を楽しんでくださいね。この貴重な時間を経験できるのは一生に一度だけですから」
福留が楽しそうに語るほど私の心は冷えていく。
だれのせいで二度目の中学生活をしていると思っているの?
そんなこととはつゆ知らず、福留はますます饒舌になっていく。
「来週からは本格的に授業が始まりますし、部活の見学もスタートします。五月末には中間テスト、七月中旬には期末テストもありますから勉強もおろそかにしないこと。夏休みに入った八月には一年生恒例の臨海学習があります。楽しみですね」
――臨海学習。
あぁそうだ、そこだ。私が初めて「イジメ」に気づいたのは。
一泊二日の臨海学習で海を訪れた私たちはクラスで集合写真をとった。でもその中に私とトモちゃんの姿はない。トイレに行っている間に撮影を済まされてしまったからだ。
だれにも呼ばれず、気に留められず、存在しないものとして扱われたのだ。
その時はまだ何が起きたのか分からなかったけれど、臨海学習以降、クラスのみんなは結託して私たちを無視するようになった。
あとでアルバムを見て気づいた。クラスの女子たちはどの写真でも私とトモちゃんから不自然なほど距離をとって収まっていることに。あの海でもうイジメは始まっていたのだ。
きっとここが大事な分岐点(キーポイント)だ。
八月の臨海学習で、私もトモちゃんも笑顔で集合写真に映る。そうすればきっと未来は変わるはず……。
目標が定まった。
「よし、明日からも頑張るぞ!」
ホームルームが終わり、気合いを胸に玄関に向かうと花岡さんにばったりと出くわした。向こうも私に気づいて動きを止める。
「村瀬さん帰りは駅まで?」
「うん、駅からバスだよ」
「あたしの家は駅の近くなんだ。一緒に行っていい?」
「も、もちろん!」
並んで玄関を出た。
どうしよう、すっごく嬉しい。元いじめっこと元いじめられっこが一緒に下校するなんて信じられない。
「今日土屋さんは? いつもみたいに一緒に帰らないの?」
「エミは用事があるってさっさと帰っちゃった。それより村瀬さんは友だちできた?」
「あ、これから……かな。花岡さんは?」
「ぜーんぜん」
内心「えっ」と叫びたい気持ちだった。
「土屋さんは?」
「あれは友だちって言うか――まとわりついているだけだよね」
ごまかすように通学カバンを背負いなおす。
「本当は気が重いんだよね。あの子すっごくワガママで気に入らない同級生とかどんどんいじめるタイプだからさ」
「そ、そうなんだ」
「だから小学生のころはなるべく関わらないように距離とってたのに、中学のクラス発表見てがっかり。エミはひとりが淋しいから親友みたいに話しかけてくるけど、ほんと面倒くさい」
意外だった。
あんなに仲良さそうなのに本心では土屋さんを嫌っているんだ。
「部活だってモチロン軽音部だよねって勝手に決めるし、五月の連休もあそこ行きたいここ行きたいって本当にウザい」
汚い言葉を吐き捨てた花岡さんの表情は見たこともないくらい「無表情」で、だからこそ嫌悪感が伝わってきた。
「そんなに嫌なのにどうして一緒にいるの?」
思ったことを率直に尋ねてみた。花岡さんは気だるそうに自分の髪を撫でている。
「だって下手に無視すると面倒そうだから。エミ、上の学年にイケメンのお兄さんがいて学校内に仲間が多いんだよ。機嫌を損ねていじめられるのもイヤだし、せっかく中学生になったんだからメイクして、彼氏作って楽しみたいじゃん。だから友だち(仮)ってことでテキトウに付き合ってるの。つかず離れず、ゆるーくね」
花岡さんは完全に割り切ってる。友だちに(仮)をつけるなんて初めて知った。
……でも、私もそうなのかな。花岡さんや土屋さんの立場を利用してイジメを回避しようとしている。
嫌われないように、でもくっつきすぎないように、相手に応じて付き合いを変えていくのが正解なのかな。
そうやって器用になっていかないといけないのかな……。
「ところでさ」
花岡さんが道端の石を蹴った。大して飛ばなかったので、すぐに追いついてまた蹴った。何度も何度も繰り返し蹴る。
「ウチのクラスに松本アズサっているじゃん。なんか性格悪そうだよね?」
先ほどまで無表情だった花岡さんは活き活きしている。
「どうかな……よく分からない」
口の中が妙に乾く。じわりと冷や汗がでてきた。
私をいじめていたんだから性格は悪い、と思う。だけどそれに便乗した花岡さんや土屋さんも同じだ。
「なんか怖いじゃん、目つきとか話し方とかさ。ああいうタイプきらいなんだよね」
ちらり、と私を見てくる。同意を求めるように。
「ウザいよね。そう思わない?」
仲間外れにしよう、って言われてる。
仲間にしてあげるから、あいつをイジメようって誘われている。
心がえぐられるような気がした。
今日に至るまで花岡さんと松本が話をしていた様子はない。「同じクラス」という結びつき以外、お互いのことを何も知らない同士だ。それなのに「嫌い」「ウザい」と言いきれてしまう。きっと私もこんなふうに勝手に嫌われていたんだろうな。
分かんない。 なんでそんな簡単に人をイジメられるの?
おかしい! 間違ってる!――そう叫びたかったけれど。
「……私そういうの、あんまり」
そう答えるのが精いっぱいだった。
口惜しいけれど結局は私も花岡さんと同じだ。相手の顔色や立場を伺って”いい顔”しているだけなのだ。
「あっそ。つまんない。村瀬さんって付き合い悪いんだね」
花岡さんは思いっきり石を蹴り飛ばした。道路の反対側の排水溝に落ちていく。
「いまの話、エミにしたら許さないから」
きつく睨んだかと思うと「あたしこっちだから、ばいばい」と言い捨てて角を曲がっていってしまった。
やっちゃった……これじゃあ私のへの印象最悪じゃない。
「……でも、だって、おかしいよ」
私は足元に転がっていた小さな小さな石を靴先でつつく。
分からない。性格悪そうだから。嫌いなタイプだから。そんな理由でいじめるの? 付き合い悪いって言うけどイジメって付き合いなの?
松本ひとりが大人しくしていればイジメなんて起きないと思っていたけど見当違いだったのかもしれない。
分からない。
三年後に私を死に追いやったのはだれなの?

