三年後に死ぬ私とアクアリウム教室


   ※   ※   ※

「なんだか雰囲気のよさそうなクラスじゃない。先生もきれいで若いし」

 入学初日のイベントが終わり、一緒に学校を出た母は上機嫌だった。

「まだみんな本性を現していないだけだよ」

「なに難しいこと言ってるの。そんなんじゃ皆と仲良くできないわよ」

「仲良く……ね」

 そんな簡単に仲良く出来たら死んだりしないけど、と心の中で毒を吐く。

「そうだお母さん、髪を切りたいんだけどお小遣い前借りしていい?」

「髪? 先週聞いたときは絶対切りたくないって言ったじゃない。自慢の髪だからって」

「今日じゃなくちゃダメなの! 死んじゃうの!」

「えぇ!?」

 母は困惑している。たしかに長い髪が自慢だったけど、いまは状況がちがう。

「おねがい! あ、あと、眉毛が太いってバカにされるから美容室で一緒に整えてもらうね」

「中学生になった途端にそれ?……好きにしなさい」

 母は呆れながらも五千円札を渡してくれる。
 ありがと、と自分のお財布に入れながらじっと母の顔を観察する。
 スーツは地味なグレーだけど、まだ白髪は少なくて肌もきれいだ。目の下のクマが疲れた感じだけど、お化粧でうまく隠している。三年後にはずいぶん様変わりしてしまうけれど。

「お母さんこのまま買い物に行くけど、美容室ひとりで大丈夫?」

「大丈夫だよ、子どもじゃないもん」

「なに言ってるの。つい最近まで小学生だったでしょう」

「あ、そうか。あとさ、ガニ股ってどうすれば直るの?」

「知らないわよ。サキに聞いたら?」

「え、お姉ちゃんいるの?」

 母はうんざりしたようにため息をつく。

「いるに決まってるでしょう。部活終わったら帰ってくるわよ」

 ピリリと音がして母のスマホが鳴った。
 すぐさま電話に出た母は「はい、はい、はいすぐに行きます」と応じて、疲れた顔で電話を切る。

「やんなっちゃう。今日一日休みをとったのにトラブルで呼び出されたわ」

 いまの私は知っている。勤め先の工場は経営がうまくいかなくて赤字&トラブル続き。どんどん人が減らされてチームリーダーだった母に大きな負担がのしかかっていたことを。結局倒産してしまって、母は朝夜ふたつの仕事を掛け持ちするようになる。

「ねぇお母さん。仕事つらくない?」

 母からはほんのり甘い香水の匂いがする。
 ヒリヒリしたお酒のにおいは全然しない。こっちのほうがずっといい。

「いまのうちに辞めた方がいいんじゃない、その会社。どんなに頑張っても倒産しちゃうよ。退職金だって半分ももらえないんだから」

「分かったようなこと言わないで。会社を辞めるのは簡単じゃないのよ」

 母は大きなため息をついた。相手にしてられないといった様子だ。

「そりゃあ人が少なくて大変だけどみんな頑張っているし、きっともうすぐ良くなるわよ。社長や役員の人たちもそう言ってる。今だけ乗り切れば黒字になるはずだからって」

「ウソよ。だって私、三年後の未来から――」

「もういいから、美容室の帰りに買い物もしてきてくれない? 必要なものは卵と野菜と……」

 無理やり話を中断させられ、買い物リストのメモを押しつけられた。こうなった何を言っても聞く耳もたない。

「大丈夫よ。お父さんがいなくたって、あんたたち二人をちゃんと大学までいかせてあげるから。じゃあ行ってきます。夕飯はカレーでも作って食べてなさいね」

 そういうことじゃないんだけど、母は疲れた顔で手を振り反対方向へと歩き出してしまった。

「……本当なんだけどな」

 私はくたびれたような背中を見送るしかなかった。
 どうして娘の言うことを信じてくれないんだろう。いまの私は下手な予言者よりも正確に未来を言い当てられるのに。

 ――もういいや。美容室行こう。

 私はゆっくりと歩き出す。
 新品の制服が体に馴染んでいないので歩くのに気を遣った。買ったばかりのスニーカーの爪先が白く輝いている。

「へんなかんじ」

 腰まで届く長い髪をなでる。
 今日は三年前の四月四日だ。町中の広告もポスターも天気予報もそれを示している。私ひとりを騙すためにここまで大がかりなことをするはずがない。

 タイムトラベル。
 あり得ないと思っていたことが、こんなに簡単に、できるなんて。
 平凡な私なんかがタイムトラベルできるなら、投資家とか大金持ちとか経営者とか「特別な人たち」もタイムトラベルで未来を知って、うまく利用して富や名誉を得ているのかもしれないと思えてくる。

 あるいは私自身も「特別な人」になったのかも知れない。
 だとしたら、私にもできるはずだ。いじめられないキラキラした中学生活が。うまく立ち回ればクラスの一軍にもなれるかも。
 考えたらなんだか楽しくなってきて、長い髪の感触を懐かしみながらスキップで美容室へ向かった。


   ※   ※   ※


「ただいま――あ、お姉ちゃんの靴」

 美容室から帰宅すると玄関にお姉ちゃんの靴が揃えてあった。ピンクのスニーカー、懐かしい。

「ただいま!」

 三年後は物置になっている部屋の扉を開けると、机にかじりついていた人影が振り返った。

「こらノックしろって言……なにその髪」

 お姉ちゃんは目を細めて身を乗り出してくる。

「えへへ、いいでしょう」

 スッキリしたうなじを撫でる。三年後の卒業式より長めのショートボブにしてもらった。(この世界で)ここまで短くするのは初めてだったのでさすがのお姉ちゃんも驚いている。

「ずいぶんバッサリ切ったのね。眉も整えた?」

「うん。似合ってるでしょう?」

 くるりと一回転してみせると腕組みしていたお姉ちゃんは眉をひそめた。

「うーん。眉はともかく髪短いと子どもっぽく見える」

「失礼だなぁ、私もう十五歳だよ」

「……は?」

「ちがった、ピチピチの十二歳でーっす」

「うげ、きもちわる!」

 おどけながら机に向き直る。
 ふたつ年上のサキお姉ちゃんはいま中学三年生、受験生だ。進学先は家から通える距離の高校だと思っていたけど、推薦制度を使ってすごく遠い高校に決めてしまう。そのことで母と大喧嘩し、祖父母の家から通うと家を出て行ってしまい、この家にはほとんど寄りつかなくなってしまうのだ。

 髪を染めていないお姉ちゃんの姿はどこか懐かしく、鬱陶しがられるのを承知で近づいた。
 案の定「邪魔なんだけど」と睨まれる。

「ねぇ、お姉ちゃんはなんで推薦受けたの?」

 姉はドキッとしたように目を見開くと、手を伸ばしてきた。
 叩かれると思って身をすくめたけど、ぴたん、と額に当てられる。

「……あんた今日おかしいよ。頭でも打った?」

 真剣な目つきで顔を覗き込んでくる。

「あ、ちがう。お姉ちゃん頭いいから推薦も受けられるかなって話。それだけ。えへ♡」

「気色悪い」

 お姉ちゃんは私を睨みつつ姿勢を正した。

「お母さんは安定した公務員になれって言うけど、あたしだっていろいろ考えてるの」

「そうなんだ」

「そ。お子ちゃまのあんたと違って大変なの」

「私だって大変だよ。三年後の未来から――」

 言いかけて口を押さえた。
 よくよく考えると、未来から来たことを明かしたら悪い人たちに狙われるかもしれないのだ。家族といえども信用できない。うっかり口を滑らせて悪い人たちに噂が伝わったら大変だ。

「未来がどうしたって」

「なんでもないなんでもない」

 笑顔でごまかす。
 お姉ちゃんは「あー疲れた」と教科書やノートを手早くまとめて立ち上がった。大きく伸びをして体をほぐす。

「まどかのせいで勉強やる気なくなった。なんか食べよーっと」

「あ、冷蔵庫にプリンあるんだよね。私も食べていい?」

「なんで知ってるのよ、見つからないよう隠してあったのに―」

 その後、プリンを半分分けてくれたけど、夕飯のカレーは私ひとりで作ることになった。
 できあがったカレーをよそい、お姉ちゃんと向き合って食べる。

「まどかに合わせて甘口のルーしかないんだよね。はぁ、あたしは辛口が好きなのに。らっきょうも福神漬けもないし」

「文句言う人は食べなくて結構ですけどー?」

「残ったら勿体ないから仕方なく食べてあげるわ」

 ぶつぶつ言いながらも美味しそうに食べている。

「ところで入学式どうだった? クラスで仲良くなれそうな人いた?」

「あー……どうかなぁ」

 「半年後にはいじめられます」なんて絶対に言えない。

「小学校のころの同級生はいないの?」

「仲良かった子はみんな別のクラス。同小はあんまり話したことない男子ばっかりだよ」

 同じ小学校の男子たちは松本たちに便乗してイジメに加わってくる側だった。
 仲の良かった女友達も廊下で顔を合わせれば挨拶こそしてくれたけどイジメに対して積極的に介入してくるでもなく、各々自分のクラスで中学生活を謳歌していた。味方なんてだれもいなかった。

「まぁ何かあれば相談しなさいよ。一応お姉ちゃんだし?」

「どーも」

 なんだろう、甘口なのにカレーが苦い。


 ――タイムトラベル前、家族にはイジメのことをひた隠しにしていた。
 毎朝吐き気をこらえながら制服を着て、どこかに消えてしまいたい衝動をこらえながら教室に入り、何があっても、何か言われても心を無にして、素知らぬ顔で授業を受けて、下校の時間になると一目散に帰宅していた。イジメのことを訴えて欠席なんてしたら母に迷惑をかけてしまう、それだけはイヤだった。

 でも恐れていた事態が起きた。
 二年になったタイミングで三者面談があり、福留が母の前で「いじめらしき状態がある」と口にしてしまったのだ。見る見るうちに青ざめていく母の横顔に、まるで犯罪者として法廷に立たされた気分だった。
『もう少し早いうちに気づいて対策を打てれば良かったのですが、娘さんからは何も訴えが無かったので』
 まるで自分に非はないとでも言いたげな福留を真に受けた母は、
『先生に相談しなかったの?』
 と尋ねてきた。私は黙って目を伏せた。何も言いたくなかった。
 その後、母と福留は今後について熱心に話し合っていたけど、私はうつむいてスカートのプリーツを眺めていた。三者面談中、一言も発しなかった。
 帰りのファミレスで食べたカツカレーは本当に不味かった。マズカレーだ。
『ひとりで我慢していたのは偉いけど、言わなくちゃ分からないわよ』
 母のあの言葉はいまでもトラウマだ。
 なんとかギリギリ持ちこたえていた気持ちをポキリと根元から折られた気がして、私はそのまま不登校になり半年を経て八組の住民になったのだ。


「ねぇまどか。もしもだけどさ。あたしがこの家から出て行くって言ったらお母さんどう思うかな?」

 探りを入れるように身を乗り出してくる。
 もしもお姉ちゃんがこの家から近くの高校に通ってくれたら私だって死のうとまでは考えなかったかもしれない。なんだかんだ言っても頼りにしていたし、母とふたりきりの生活はすごく居心地が悪かった。カレーが甘いとか福神漬けだとか、そんなどうでもいい会話が本当は大事だったことにも気づいた。

 でもさ。
 ――『言わなくちゃ分からないわよ』

 言えたらなにかが違っていたかもしれないけど、それでも、言えなかったんだよ。なにが変わったって言うの。
 福留だってお姉ちゃんだってお母さんだって自分のことばっかり。私のことなんか本気で考えてないくせに。

「……好きにすればいいんじゃないの。お母さんだって渋々承知するよ」

 承知する、と言ってもほぼ喧嘩別れだ。
 ことあるごとに私に恨み節を吐くようになるけれど、いまのお姉ちゃんは知る由もない。

「そっか、そっかぁ」

 お姉ちゃんはホッとしたように頬を緩めるとぐいっと水を飲んだ。
 スプーンを握り直し、バクバクとカレーを運ぶ。すっかりご機嫌だ。

「思ったんだけどさ、せっかく眉整えたんだから軽く化粧してみたら? あとでアイブロウ貸してあげるね」

「どーも」

 なにも知らずにカレーを頬張る姉がなんだか羨ましく見えた。