ごぼごぼと白い気泡が上がっていくのが見える。

 気がつくと私は水の中にいた。
 蒼く深く濁っていて視界はゼロ。制服姿で揺蕩っている。

 ここはどこ。いつ水の中に飛び込んだんだろう。
 屋上のある建物とプールは遠く離れている。屋上から飛び降りてプールに落ちるなんてことあり得ない。

 いやいや、死ぬにしたって溺死だけはイヤ。絶対苦しいもん!
 はるか頭上に白く輝く水面が見えた。
 とにかくあそこまで行かなくちゃ。手足をばたつかせて必死に浮き上がろうとしたけれど、気持ちとは裏腹にどんどん沈んでいく。

 足元に広がるのは濃い闇。海藻みたいなものがゆらゆらと揺れて私を手招きしているみたいだ。あれ絶対にマズイって。

 ごぼっと大きな気泡を吐いた。
 苦しい。必死に手足を動かしているのに水面は遠のいていく一方だ。

 だめ、このままじゃ息が……もたな……

 ――『やり直したいと思うか?』

 先生の声だ。
 
 ――『やり直せるとしたら、死ぬなんてバカなこと言わないか?』

 ああもう、うるさい。
 私だって死にたくて死ぬんじゃない。苦しくて悲しくて、それしか考えられなかっただけなの。
 もし全てをリセットしてキラキラした青春を送れたなら、死ぬことなんて考えなかった。

 やり直せるものなら、やり直したいよ!

 ごぼっ、と最後の空気を吐き出した。
 もうダメだと意識が遠のいたとき――――ガタン! と大きな音がした。

「わぁびっくりした!……どうかしたの? 村瀬さん」

「……え?」

 濁っていた視界が突然クリアになり、教壇に立つ女の先生と目が合った。
 セミロングの茶髪にくりっとした大きな瞳。切り揃えられた前髪がさらさらと揺れて、不安そうに私を見ている。

「福留(ふくどめ)……せんせ……?」

 クラス担任『だった』福留日菜子だ。
 二十代前半で、ウチのクラスが初めての担任だったらしい。黒いスーツに合わせたレモンイエローのシャツは本人曰くラッキーカラーで、大事な日はレモンイエローのものを身につけると話してくれた。だから私はレモンイエローが大嫌いだ。

 なんで福留がいるの。
 ここは、教室?

 ぼんやりと自分の体を見下ろす。
 制服を着た私は机の前に立っていた。さっきまで座っていたであろう椅子が横倒しになっていて、起立している私をたくさんの目が注目している。一瞬小学生かと思ったけど全員見覚えがあって、顔と名前を正確に言える。同級生、と言うのも吐き気がするような六組の面々だ。

 わけがわからない。
 私はこのクラスと決別して屋上で自殺しようとしていたのに、どうして。

「村瀬さん。具合悪いなら保健室に行く?」

「いえ……へいきです」

 倒れていた椅子を起こして腰を下ろした。なんとなく机が低い気がする。

「では改めまして」

 教壇の上で福留がコホンと咳払いする。自分のペースを取り戻したいときにでる癖だ。

「一年六組のみなさん入学おめでとう。わたしは担任の福留日菜子と申します。これからみなさんがともに過ごす三年間はかけがえのない財産になるでしょう。そのことを肝に銘じて、明るく楽しい学校生活を送ってくれることを祈っています。わたしも初めてのクラス担任として不慣れなこともあるけれど、みなさんと一緒に乗り越えていきたいと思っています。がんばりましょう。ここに集まったのは単なる偶然ではなく集まるべくして集まった四十人なのだということを忘れないでください」

 黒板の右端には四月四日(火曜日)と書いてある。入学式の日付だ。

 一体どうしたっていうの?

 自分に起きたことを必死に思い出そうとする。たしか、そう、養護教諭の時任先生が「やり直せる」と言っていた。タイムトラベル。意識や記憶を保持したまま過去に戻る現象。でもそんなことって……。

 私の困惑をよそに周りが騒がしくなる。ホームルームが終わって各々自己紹介をはじめたのだ。

 クラスの中を注意深く確認してみたけど知らない人がひとりもいない。名前や顔はもちろん、ゆくゆくはどんなグループで固まるのか、成長とともにどんな姿に変わっていくのか、私になにをするのか、ぜんぶ分かる。

「よろしくね。あたし松本アズサ」

 振り向いた相手を一目見て、びくっと体が震えるのが分かった。

 松本アズサ!
 いじめの主犯格。私はこいつにいじめられたんだ。

 癖の強いショートボブに気の強そうな眉。
 そうか。入学式の席は名前順だったから松本は私の前に座っていたんだ。

 許せない。絶対に許せない!

 胸の奥がずしりと重たくなる。
 焼け爛れるような、どうしようもない敵意が湧いてくる。
 自分の中にこれほど狂暴な感情があるなんて入学するまでは知らなかった。

「どうしたの?」

 いずれ私を罵倒するその声で親しげに話しかけてくる。

「べつに」

 あんたのせいだ。ぜんぶあんたのせい。
 そうわめき散らして殴りかかってやりたい。だけど必死にこらえる。

「ねぇ村瀬さん。その髪、邪魔じゃない?」

「え……髪?」

 反射的にうなじを撫でる。すると滑らかな手触りがあった。一房引っ張り出してさらに驚く。びっくりするくらい長い。
 私は小学生のころから髪を伸ばしていて、入学式は毛先が腰に届くくらい長かった。一つ結びにしていたけど馬の尻尾に見えるからって松本たちにバカにされて、卒業式の時はすっかり短くしていたのだ。

「き、切るもん。すぐに切る」

「べつに切れとは言ってないけど」

「いいの。切るって決めたの」

「あっそ。勝手にどうぞ」

 松本は会話を切り上げて前を向く。
 教壇では福留がこれからの授業の進め方や年間スケジュールなどを一所懸命説明している。

 私は松本の背中をにらみながらぎゅっと唇を嚙みしめた。
 あの松本がなんのためらいもなく私に話しかけてくる……そんなの、入学したころだけだ。やっぱり私は三年前にタイムトラベルしたんだ。

 ――『やり直せるとしたら、死ぬなんてバカなこと言わないか?』

 時任先生の言葉がよみがえる。
 せっかく入学式に戻ったんだもん。今度は絶対いじめられたくない。そのためにはまず髪の毛を切って、他にもいろいろ直さないと。

 とにかく、いまのままじゃダメだ。