※   ※   ※

 ごぼごぼと白い気泡が上がっていくのが見える。

 気がつくと私は水の中にいた。
 蒼く深く濁っていて視界はゼロ。制服姿で揺蕩っている。

 前回タイムトラベルした時と同じだ。
 足元に広がる濃い闇。水の冷たさに体がすくむ。息が苦しい。はるか頭上に白く輝く水面が見えた。

(やり直す。もう一度。今度は間違えない)

 必死に手足を動かした。松本の足の力強さを思い出して、水を蹴る。
 少しずつだけど水面が近づいてくる。

(あとちょっと、もう少し)

 ごぼっと大きな気泡を吐いた。
 急に力が抜けた。意識が遠のいていく。

(だめ、このままじゃ……また……)

 その時だ。
 水面からだれかの手が差し伸べられていた。

「村瀬」

 この声を知っている。
 私は最後の力を振り絞って手を伸ばした。


 掴んだ。


 と思ったとき――ガタンと椅子が揺れた。

「わぁびっくりした!……どうかしたの? 村瀬さん」

 教壇に立って驚いたように私を見つめる先生。福留だ。
 私はまた過去に戻ってきたのだ。三十八人しか卒業できない教室へ、また。

「村瀬さん。具合悪いなら保健室に行く?」

「いえ……へいきです」

 おとなしく着席する。
 ポケットに違和感を覚えて手を入れると古びた名札が入っていた。『六組 村瀬』と書かれた、過去の私のものだ。
 どうしてここにあるんだろう。

 そこへ。

「悪い悪い、遅くなった」

 前の扉が開いてひとりの男性が現れた。
 どうしてあの人がここに?

「えーと、皆さん、はじめまして。ぼくがこの六組の担任、時任です。こちらは副担任の福留先生。長ったらしい挨拶は性に合わないので一言だけ」

 軽く教室内を見回した時任先生は、最後に私と視線を合わせた。

「ぼくはここに立つために十年以上かけて教員免許とってきました。教師だからと威張るつもりもないし、生徒だからと甘く見るつもりもありません。ぼくは君たちの飼育係になります。君たちが生き生きと輝くためならどんな泥でも砂でも浴びる覚悟があります。だから、ここにいる四十人揃って立派に巣立って行ってくれよ」

 時任先生の熱量に押され、生徒たちはぽかんとしている。隣で聞いていた福留がすかさず釘を刺した。

「先生、飼育係だなんて発言が保護者さんに知られたらどうするんですか」

「保護者が怖くて教師ができるか。……あ、でも頼むからオフレコでな」

 両手をあわせて懇願する姿がおかしくて生徒の数人が笑い声を漏らした。そこへすかさず援護射撃が入る。

「じゃあ親には言わないでSNSに書き込もう」

「瑛人、おまえ叔父さんを無職にする気か」

 教室内にどっと笑いが起きる。
 秋吉くんだ。

 そうか、時任先生は。やり直したんだ。
 私よりもさらに遠い過去に戻って十年以上の歳月をかけて教員となり、秋吉くんが産まれているルートを経てここに立っている。「福留が受け持った最初のクラスは三十八人しか卒業できない」という呪いのような運命を変えるために。

 でも時任先生が担任になったところで三年後に全員が卒業できる保証はどこにもない。また脱落者が出るかもしれない。
 そうしたら先生はまた違う方法を模索してタイムトラベルするんだろう。そして遡っただけの年月をかけてまたここに戻ってくる。
 だれにも知られず、だれにも理解されずに何度でもタイムトラベルして運命に抗うんだろう。私たち四十人を卒業させるためだけに。
 それはとても果てしなく、地道で、あまりにもバカらしく……偉大なことだ。

「じゃあまずは前後の席の同級生と自己紹介がてら握手して友だちになれ。ん、他人の手を握るのは気持ち悪い? そういうこと言わない。人間みんな兄弟」

 あっという間に教室内を掌握した”飼育係”の時任先生に言われ、みなそれぞれ椅子の向きを変える。初対面の相手にだれもが緊張していたものの、戸惑ったような笑みを浮かべて互いに握手を交わす。

「よろしく、あたし松本アズサ」

 振り返った松本が微笑んだ。意地の悪い顔つきだとばかり思っていたけど、こうして見ると結構可愛い。

 一度くらい友だちになれ、って言ったよね? 冗談じゃない。
 時任先生の視線に気づきつつ、私はゆっくりと身を乗り出した。

「私、村瀬まどか。また……よろしくね。先に言っておくけど髪は切らないから」

 手を差し伸べるとき、涙があふれた。
 松本は一瞬戸惑った表情を見せたけど笑顔で手を握り返してくれた。

「よく分からないけど、またよろしくね。村瀬さん」

 暖かな手を握り締める。
 思えばこれまでの人生で初めて、松本と握手したのだった。


(了)