夏休みが終わった。
 始業式がはじまる時間に起き出した私は、居間に行ってテレビをつけた。
 適当にチャンネルを回した情報バラエティー番組には新人だという花岡さん似の女優さんが出ていた。視線を漂わせて明らかに緊張している様子に思わずクスリと笑ってからお母さんが用意しておいてくれた朝食のトーストを頬張る。

 家の中は静かだった。携帯はしまいっぱなし、固定電話の回線も抜いたままだった。「どうせ困るようなことはないんだし」と母も姉もあっけらかんとしていた。
 そのとおり本当に困らなかった。
 困ったのはたぶん福留で、始業式どころか一週間経っても一ヶ月経っても姿を見せない私を案じて何度か母の携帯に電話が入ったそうだが「娘の好きなようにさせていますから」と返され黙り込んでしまったという。


 二ヶ月が経ったころに母と福留と校長とによる三者面談があり、私が「不登校」であることが粛々と確認された。福留は安堵した様子だったという。
 相変わらず郵便受けには匿名の手紙や小動物の死骸が入れられることがあり、冬を前に大家さんの手で封鎖された。インターフォンは切っている。あるとき、物音がしたので扉を開けた瞬間見ず知らずの相手と鉢合わせてびっくりすることがあったけど、直接なにかを言われることはなかった。所詮その程度の気持ちなのだ。

 春になるとお姉ちゃんは地元の高校に進学し、お母さんは過酷な仕事をきっぱり辞めて知り合いに紹介された職場に転職した。
 家の中には笑顔があふれた。お姉ちゃんには彼氏ができたし、お母さんのお給料と待遇も良くなった。

 そして私は――――不登校のまま形ばかりの二年生になったある日、よれよれの制服を着て家を出、まっすぐ中学校の門をくぐった。

 靴箱に詰め込まれたゴミの中から上履きを掘り出して爪先を入れる。妙な違和感があった。成長してサイズが合わなくなったのなら良かったけど、残念、爪先の方に干からびた虫の亡骸がいくつも潜んでいたのだ。これでは虫が浮かばれないじゃないか、なんて思いながら隣の花岡さんの靴箱にお裾分けしておいた。あとゴミも。

 ぎょっとして立ち止まる人、ヒソヒソと笑い声を上げる人、完全に無視する人。いろんな人たちを視界に収めながら二年生の教室が並ぶ廊下を突き進んだ。

「おっ邪魔しまーす」

 初めて入る二年六組の教室にちょっとドキドキしたけど、元クラスメイトたちは誰ひとり喋らず、動かず、ぽかーんと口を開けて突っ立っているだけだった。まるで金縛りに遭ったみたいだ。

 教室の片隅に追いやられていた自分の机に近づく。引き出しを覗き込み、半年以上放置していた一年の教科書を回収して手提げ袋に入れる。ちょっと生臭いニオイがするのは誰かが給食の牛乳でもぶっかけたのかな。
 まぁいいや。

「じゃ、お邪魔しました」

 きちんと頭を下げてから教室を辞した。
 最初から最後まで、だれもなにも言わなかった。あんな人たちに怯えていたなんて、なんだか可笑しい。

 そういえばメダカたちはどうなっただろう。私が不登校になったので秋吉くんが養護の水沢先生に世話をお願いしていたはすだ。
 保健室に寄ると水槽の位置が変わっていた。奥の方にひっそりと、置物みたいに寄せてある。中を見ると水槽のあちこちに藻が生え、内側を窺い知ることはできなかった。
 メダカはどうしたのか尋ねると、パソコンを見ていた水沢先生は困ったように水槽を振り返った。まるで存在を忘れていたとばかりに。

「もうなにもいないのよ。早く片づけないと」

 立ち上がってカーテンを閉める。光を遮断された水槽内の濁りが一層際立って見えた。

「餌をあげすぎたのかしら。だめね。昔から生き物の世話が苦手なのよ。今度こそはと思って引き受けるのに失敗しちゃう。もっと簡単に育ってくれればいいのにね」

 メダカが死んだことに対する罪悪感はまるでない。まるで料理を焦がした程度に”ちょっと失敗しただけ”という認識なんだろう。

「そんなことでお子さんができたらどうするんですか?」

 いずれ水沢先生は産休に入り、かわりに時任先生が現れるはずだった。
 しかし先生は何もない左手を掲げて見せる。

「残念ながら当分予定はないの。彼氏もいないしね」

 あっけらかんと笑う先生の向こうで、たっぷりの栄養を含んだ水草が揺れている。
 伸び伸びと楽しそうに――仲間を呼ぶように――揺れている。だれもいない水槽の中で。

「もうすぐ朝礼はじまるわよ。教室に戻りなさい」

 そう促されたのでハイと頷いて廊下へ出た。
 さよなら保健室。
 卒業までの残りの一年半、私がここに来ることはない。

 私は歩いた。
 前回とまったく同じ日に。同じ道順で。同じ歩幅で。
 同じ時間に、八組の教室に到着する。
 出迎えてくれた先生を前にぺこりと頭を下げた。

「村瀬まどかです。今日から八組でお世話になります。よろしくお願いします」

 前回よりもちょっとだけうまく笑えた。

 これが私のすべて。これが私の青春。
 おわりのはじまり。