その日の夜のニュース。行方不明だった中学生が沖合数キロのところで遺体で発見されたと速報が流れた。

 死因は溺死。ポケットには本人のものではない靴が片方ねじ込まれており、警察が詳しい状況について調べている――そう締めくくられていた。

 リビングでテレビを見ていた私の携帯が立て続けに鳴る。登録していないメールアドレスからだった。

『ひとごろし』

 心臓が止まりそうになって自分の部屋へと駆け込んだ。
 ものすごい早さで未読メールの件数が増えていく。

『責任とれ』
『謝れ』
『村瀬まどかを絶対に許すな』

 がくがくと震える手で電源ボタンを押した。震えているせいで長押しできない。ようやく電源が切れたところで引き出しに押し込み、反転してベッドに飛び込み頭から布団をかぶった。

 私は悪くない。
 悪くないんだもん。

 静まりかえった室内がひどく不気味だった。ラジオをつけたかったけどあのニュースが流れているかも知れないと思うと怖くて手を伸ばせない。

 なんで?
 なんで私がこんな目に?

 私をいじめていた松本が悪い。死んだのは運が悪かっただけ。私は悪くない。
 プルルル、と鳴り響いたのはふだん滅多にならない固定電話だった。リビングにいたお姉ちゃんが出た気配がある。もしかしたらあのメールを寄越した奴らかもしれない。

「話しちゃダメ!」

 あんな罵声を聞いたらお姉ちゃんが悲しい思いをしてしまう。
 転がり落ちるように布団を出てリビングへと這い出していく。

「お姉ちゃんいまの電話――」

「ん」

 姉はソファーで漫画を眺めていた。私の顔を見ておかしそうに笑う。

「ただの間違い電話だったよ? なに慌ててんの?」

 その瞬間の安堵感、なんて言ったらいいんだろう。体中の空気が抜けていくみたいだった。

「お母さん今日も遅くなるらしいよ。なに食べたい?」

 胃袋をさすってみたけどなにも感じなかった。お腹が空くって感覚自体が分からなくなる。

「ううん、なにも食べたくない。寝る」

「はいよ。おやすみー」

 にこやかに手を振るお姉ちゃん。引き抜かれた電話回線がだらりと垂れ下がっているのが見えた。


   ※


 八月下旬、お母さんと一緒に松本の家に行った。お線香をあげさせてもらうためだ。
 お通夜も告別式にも来てほしくないと言われ、学校を通じてどうしてもと懇願してなんとか承諾をもらったのだった。

 インターフォンを押して訪問を告げてからたっぷり五分は待たされただろうか。長袖の喪服を着ていた母の首筋を大粒の汗が流れていく。レースのハンカチで必死に拭いながらも母は気丈にも扉を見つめ続けていた。
 二十分が経ったころ、ようやく扉が開く。中に入ろうとする母を押し返すように出てきたのは以前会った義理のお兄さんだった。

「この度はお嬢様のことで本当に申し訳ないことを――」

 母は慌ててその場に両手をついた。私も急いで倣う。熱されたコンクリートは鉄板のようにチンチンで痛いほどだったけど、滴り落ちる汗でいくぶん涼しくも感じた。

「母が、家にあがってほしくないと言うので庭に回ってください。そっちに線香を持っていきますから」

 ばたんと閉めきられた扉の風圧で母の髪がなびく。
 私は死んでしまった松本のことよりも土下座した母の姿の方が何倍もショックだった。そんな自分をまた最低だと思った。

 言われたとおり庭先へ回ると縁側に椅子がひとつ置かれていた。その上のお盆には香炉と線香とライター。
 ガラス越しの室内は分厚いカーテンで隠されていたけど、カーテンの外側に松本の遺影と白い骨壺がこれみよがしに置いてあった。遺影の中の松本は少し幼い。まさか自分が死ぬなんて露ほども思わなかった、そんな笑顔だ。
 静寂に包まれたカーテンの向こうでは松本の家族が息を潜めて私たちの一挙一動を窺っているに違いない。
 まずは私、次に母が一本ずつ線香を立てる。赤黒い火元からうっすらと煙が上がっていく。

 ここへ来ても私には松本を悼む気持ちは湧いてこなかった。
 申し訳ないな、悪いな、と思う気持ちはあるけど心がえぐられるような痛みは感じない。
 自分も一度死んだからだろうか。松本ならどうだっただろう。私が死んだら責任を感じてお線香をあげにきてくれただろうか。

 分からないや。
 どうして私、松本にお線香をあげているんだろう。
 いくら線香をあげても死んだ松本には届かないのに。

「松本さん、この度はまことに申し訳ありませんでした、心よりお詫びいたします。このとおりです!!」

 母は大声で叫びながら土下座した。私もコンクリートに額をこすりつける。

 暑い。おでこが焼けそうだ。

 母はいつまでこうする気だろう。一分、二分、いや三分だろうか。もっと?
 アイスクリームにようにボタボタと滴ってくる自分の汗を眺めながら頭を下げ続けた。頭がくらくらしてきた。吐きそうだ。
 もうだめだと思ったとき、カラカラと窓ガラスが開く音がした。
 白い足袋を履いた足先が畳をこすって近づいてきたのが見えた。

「……あつっ!」

 自分の上げた悲鳴に驚く。
 砂のようなものを投げつけられたのだ。燃え切っていない線香が手の甲を転がっていく。香炉の中身だと分かった。

「もう来ないでください。おねがいですから」

 かすかに震える女性の声がそれだけを告げ、窓は再び閉められる。
 母は――ゆっくり、ゆっくりと立ちがあると窓に向かって三度頭を下げた。私も同じことをやろうとしたけど、立ち上がる前から体がふわふわして上手くできない。足早に引き上げていく母を追うので精一杯だった。

 交通量の多い歩道を黙々と歩いた。前をいく母の髪にかかったままの砂。払い落としてあげたかったけど、手を伸ばすのを躊躇した。

 お母さんは松本のことなんて知らないよね。
 本当に悲しかった?
 それとも、ああしなくちゃダメだったの?
 私だって死にかけたんだよ。いま隣にいなかったかもしれないんだよ。
 そうしたらお姉ちゃんと仲良くしなくちゃいけないよ。
 私がいなくても、できる?

 あぁ、そうか。
 松本はもうお母さんにもお兄さんにも会えないんだ。本当なら生きて高校生になっていたはずなのに私のせいで終わっちゃったんだ。それってすごく悲しいことかもしれない。

「……うっく」

 急に目頭が熱くなってきた。ぼろぼろと流れる涙、だらしなく鼻水が垂れ下がる。

「まどか」

 振り返った母が私の手を握りしめた。こうして手をつなぐのは小学校の入学式以来かもしれない。握り返した手のひらは皺だらけだったけど、とてもあたたかい。

「ごめんなさい。お母さ……」

「……うん」

「ごめんなさい」

「うん」

 母は小さく頷いて、私の手を取ったまま歩き出す。少しずつ、前へ。

 だから私は子どもみたいに泣き叫ぶ。

 おかあさん、ごめんなさい。
 こんな悪い子で、ごめんなさい。
 生まれてきて、ごめんなさい。
 私が死ねば良かったのに、ごめんなさい。