真夏だというのに震えが止まらなかった。タオルを何枚も重ねがけしても腹の底から込み上げる震えは止まらず、私は電車の座席でうずくまっていた。

「村瀬さん、温かいものでもどう?」

 ボックス席の向かいに腰を下ろした福留。差し出された緑茶の缶はほんのりと暖かく、冷えきった私の喉を優しく伝っていく。

 ※

 ――夜明けの海に松本の姿が消えたあと。
 私は松本の名前を呼びながら海に入った。ゾッとする冷たさに思わず後ずさりしたけれど、覚悟を決めて再度踏み込んだ。
 日焼けした肌を容赦なく削る塩水と底知れない冷たさ。ためしに潜ってみても濁っていてなにも見えない。
 泳ぎが苦手な私にとって海の広さは絶望的だ。それでもしばらくは必死に足を動かして辺りを探してみたけど松本は見つからない。どんどん体が重くなって指先の感覚が失われていくのが分かった。

 なんで? なんで戻ってこないの?

 これだけ探してもいないってことは陸にあがっているのかもしれない。
 そんな楽観的な考えが脳裏をよぎった。
 そうだよ。松本が溺れるわけないじゃん。

 期待と不安を抱いて砂浜を振り返る。だれもいない。履いてきたサンダルや片方の靴はずいぶんと遠くにあり、泳いでいるつもりがかなり流されていることが分かった。

 松本はとっくに陸に上がって民宿に戻っている。きっとそうだ。

 そうであって欲しい。そう願って、棒きれのような手足を懸命にバタつかせて陸へと這い上がった。
 サンダルをとりに戻る気力もなく素足のままで民宿への道を進む。
 夜明けで目覚めたセミたちのけたたましい鳴き声、海水を含んだ重たい服、千切れそうな手足。なにもかもが最悪で、これが夢だったらどんなにいいかと思った。

 松本はきっと先に戻ってる。そうだよね、そうだよね、そうだよね……。

 だれも通ったあとのない渇いた地面を自分の髪から滴る水で濡らしながらひたすら歩いた。

「うっ」

 不意に吐き気が襲ってきた。口元をおさえてうずくまると壊れたように体が震えだした。寒くて寒くて仕方ない。意識が朦朧としてきた。
 そうして身動きとれずに震えていたところを通りかかった人に発見された。軽度の低体温症だった。



「朝ごはん食べていないでしょう? おにぎり買ってきたから」

 福留はおにぎりの包み紙をほどいて手渡してくれた。食欲はなかったけど一口かじりついたら止まらなくなり、あっという間に平らげてしまった。
 一時的に席を外していた福留が戻ってきたときには、みっつめのおにぎりに手を伸ばしていた。福留は私に気づくと携帯をポケットにしまった。

「すみません先生の分まで」

「いいのよ、気にせずにたくさん食べて」

「はい……」

 促されるままおにぎりの包みをほどいて口に運ぶ。

「いまの電話、現地に残っている先生からですか」

 私の問いかけに、福留は曖昧に笑うだけだった。

 早朝ふたりの女子生徒が部屋を抜け出して海で泳ぎ、ひとりは低体温症で救急搬送、もうひとりは行方不明――。

 そんな状況にもっとも困惑しているのは福留だろう。他の生徒は今日の予定を全部キャンセルして一足先に帰宅。病院で手当てと事情聴取を受けていた私には福留が付き添ってくれた。連絡を受けた松本の家族は新潟に向かっており、現地に残っている先生が対応することになっている。

 私が四つめのおにぎりを頬張る間も思いつめたようにうつむく福留を見ていると、申し訳なさでいっぱいになってくる。

「せんせい、ごめんなさい」

 今日だけで何度口にしたか分からない言葉を再び吐いてしまうのは、心のどこかで『だれでもいいから』許してもらいたいと願っているせいだろう。でも決まって先生は曖昧に笑うだけなのだ。
 だけどいまは違った。

「ねぇ、どうしてふたりきりで海に行ったの?」

 どこか不安そうに瞳を揺らしながら問いかけてくる。口の中のお米粒が途端に不味くなり、唾液だけで飲み下した。

 福留は私が松本を呼び出したと思っているんだ。
 言葉にされなくても切迫したような眼差しを見ればなんとなく分かる。こんな状況下でも相手の顔色を冷静に見極めている自分が心底嫌だった。

「ほら、校長先生や保護者方にも説明しなくてはいけないし」

 黙り込んだ私を気遣いつつ詮索してくる。
 私はカラカラに乾いた口を開いた。

「先に部屋を抜け出した松本さんを追いかけたんです。私の靴が流されてしまって、松本さんが泳いでとりにいってくれた……と言ったら、信じてくれますか?」

 信じて欲しい、そんな想いでまっすぐに見つめた。
 しかし福留は私と目を合わせるのを拒む。

「もちろん、もちろん信じるわ、生徒だもの。でも他の人たちはそうじゃないと思う。……私も初めての担任でどうしていいか分からないけど、校長先生方に訊かれたら"事実"を答えるしかないの」

 レモンイエローのハンカチで口元を隠してうつむく。事実とはつまり、私が松本をいじめていたという断片的な情報のことだ。

 私の味方なんて、ひとりもいないんだ。

 これ以上ないくらいに思い知らされる。私は逃げることも頼ることもできず、肌を刺すような冷たい世界をあてもなく漂うしかないのだと。


   ※


「おーい村瀬。あ、福留先生もお疲れさまでしたー」

 改札口を出た私たちを出迎えてくれたのは秋吉くんだった。
 シャツを着替えて身軽になっていることから一度帰宅したんだろうけど、上気した肌からダラダラと汗を流している。駅の待合室に冷房はないので、ほぼ屋外みたいなものだ。そんな中ずっとここにいたのだろうか。

「汗びっしょりじゃない。ずっと待っていたの?」

 呆れたように福留が眉を吊り上げた。

「ちょっと散歩していただけです」

 と、手うちわで扇ぐそばから汗が滴る。

「先生これから学校戻るんですよね? おれ、村瀬を家まで送っていきます。なっ、村瀬」

「え、いいよ、私……あ、ちょっと!」

 私の手からバッグを奪い取り、先に立って歩き出す。

「村瀬、早く来いよ」

 日差しの中で秋吉くんが手を振る。私は福留に頭を下げた。

「ご迷惑おかけしてすみませんでした。これで失礼します」

「……はい、寄り道しないようにね」

 福留は投げやりに呟いてそっぽを向いた。

「さすがにこの暑さじゃ喉が渇くな。休憩しようぜ」

 先をゆく秋吉くんは役場前の公園内にある屋根付きテーブルに空席を見つけて腰を下ろした。荷物を人質にされている私も仕方なく着席する。それを確認した秋吉くんは自分のポケットから数枚の小銭を取り出した。

「なに飲む? 特別におごってやるよ」

「そんなことより荷物返して。ひとりで帰れるから」

「だよな、暑い日に飲む炭酸ジュースは最高だよな」

 まるで話を聞いていない。私のバッグを担いだまま近くの自販機へと駆けていく。かわりにテーブルの上に残されたのはビニール袋に入ったビーチサンダルだった。

 ゴム製の底はあざやかなオレンジ色で、鼻緒にあたるビニールの部分は黄色や水色が混じった優しい色合いだ。シンプルだけど可愛い。
 臨海学習のお土産だろうか。一度帰宅したはずなのに何故わざわざ持ち出してきたんだろう。

「悪いけどこれもらってくれないか?」

 炭酸ジュース二本を手に戻ってきた秋吉くんはビニール袋ごと私の方へ押しやった。

「……いい、いらない」

 押し返そうとするとジュースを置いて塞がれた。

「頼むよ。おれの母親はSサイズのビーチサンダルなんて履けないし」

「なんでそんなもの買っ……」

 もしかして私のために?

 どきどきしながら自分の足元を見る。
 今朝のことがあって、私がいま履いているのはぶかぶかの大人用ビーチサンダルだ。運ばれた先の病院を出るとき、履くものがないことに気づいた福留が近くのコンビニで買ってきてくれたものだ。
 自分がしてしまったことを思えば、これだけで十分だった。

 私のためにわざわざ買ってくれたのだろうか? お土産買う余裕もないこと承知で。

 本当なら午前中にお土産屋さんで買い物する時間が用意されていた。私のせいでその予定もキャンセルになってしまったのに、忙しい中でわざわざ買ってくれていたんだ。

「ちょっと派手だけど村瀬なら違和感ないだろ? 少なくともうちの母親よりはさ。あーもらい手が見つかって良かったぁー」

 あくまでも母親へのお土産だと主張しつつ、プルタブをひねって缶に口をつける。飲み下す時間の長さが、駅で待ってくれていた時間の長さを想像させた。何時の電車で帰ってくるのかも分からないのに、ずっと待っていてくれたんだ。

 胸の奥がツンと熱くなる。
 だけどいまの私に泣く資格なんてない。
 泣きたいのはせっかくの予定が狂った一年生のみんなであり、迷惑をこうむった先生方であり、いまもまだ見つかっていない松本とその家族だ。私が泣くのは筋違い。

「せっかくだけど……やっぱり受け取れない。ごめんなさい」

 私はビニール袋を押し戻した。
 すでに缶の中身を飲み干していた秋吉くんは厚意を無下にされて怒るでもなく、あらかじめ予期していたように笑った。

「じゃあ餞別として受け取ってくれよ」

「せんべつって……、なにそれ」

 突然出た“餞別”の言葉に声が震えた。
 秋吉くんは背もたれに体を預けて眩しそうに目を細める。

「引っ越すことになったんだ。手術する病院に車で三十分もかからない場所だから家族の負担も軽くなるし、なにかあったときにもすぐ対応してもらえる。夏休み明けには転校するんだ。ウソついてごめんな」

 言葉が出てこない。
 秋吉くんが転校するなんて考えもしなかった。せっかく親しくなれたのに、夏休みが明けの教室をどんなに探しても秋吉くんはいないのだ。

 私はひとりぼっち。
 心が張り裂けそう。

「これ預かっていて欲しい。次に会うときまで」

 私の手のひらに置かれたのは“秋吉”の赤い名札。転校する彼にはもう必要のないものだ。
 私と彼を最初につないだのも名札だった。

「あとこれ、メール送っておく。係だった村瀬は自分のための写真ほとんど撮ってないだろ」

 秋吉くんが携帯を掲げて画面を見せてくれる。

「夜明け前に宿を抜け出して海に行ったんだ」

 例の入り江で水平線から顔を覗かせる朝日を捉えた一枚だった。岩の上に見覚えのある生徒たちの後ろ姿が映っている。花岡さんや土屋さん、市川さんやトモちゃんも。

「昨日花岡からメールが回ってきて入り江に集合したんだ。村瀬と松本がいないことにみんな気づいていたけど、おれも含めてだれも探しに行かなかった。だから、みんな悪いんだよ。村瀬がひとりで背負うには……重すぎる」

「……ちがう。ちがうの」

 秋吉くんは私を気遣ってくれている。
 だけどちがう、ちがうのだ。私は必死に首を振った。
 私は本当に最低の人間なのだ。

「私、あのとき……何度も海に入ったけど、自分ひとりじゃ全然ダメだって分かっていたのに助けを呼びにいかなかった……非難されるのが怖かったの。松本が死んじゃったとしても、どうやったら私のせいにされないかをずっとずっと考えていた……ほんと最低なの……」

 こらえきれず涙が溢れてきた。

 こんなのってない。
 こんな思いをするためにタイムトラベルしたんじゃない。

 膝の上で握りしめた拳に秋吉くんの熱い手が重なってくる。髪の毛から潮の香りがした。

「ずる賢くなれなんて言わねぇよ。イヤなら逃げればいい、顔を背けていい、だれになんて言われても、笑われても、いまをやり過ごせばいいんだ。おれもできるだけメールするし村瀬もいつ連絡してきてもいいから、重荷だなんて思わずに頼ってくれよ。村瀬は命の恩人だ。どんな形であれ生き延びてくれればおれは嬉しい」

 秋吉くんの手が離れ、ゆっくりと立ち上がる気配がした。

「高校生になったらまた会おうな」

 足音が遠ざかっていく。
 私は動けなかった。追いかけられなかった。サヨナラも言えなかった。
 自分の情けなさとバカさ加減とどうしようもない後悔で泣くしかなかった。