「松本!!」

 薄暗い浜辺に佇む人影を松本だと確信して駆け寄っていった。その人影はびっくりしたように振り返る。

「なにしてんの」

「もどって、こなかったから、さがしに」

 運動不足がたたって心臓がばくばくしている。息が苦しい。松本が呆れたように息を吐いた。

「朝日を見に来ただけ。あたしなんか放っておけばいいのに。また叱られるよ」

「いいよ。もしなにか言われたら靴に砂を入れられたので海に返しに行きましたって言うから」

「は? なにそれ」

 ようやくまともに呼吸できるようになった私はサンダルを脱いで波打ち際まで進んだ。足先を撫でるひんやりした感覚にしゃきっと背筋が伸びる。

「三年後……ううん、約二年半後に死ぬんだ私」

「はぁ?」

「きっかけはこの臨海学習。集合写真からハブられて、靴の中に砂入れられて、帰りの電車の中では不細工な寝顔撮られる」

「意味わかんない。なんのはなし」

「イジメを苦に死ぬつもりだったけど三年前の入学式までタイムトラベルしてきたの。青春をやり直すために」

 心なしか潮騒が静かになった気がしたけど、松本は沈黙を返してきた。突然こんなこと言われて訳が分からないだろうことは私も承知している。

「それだけ言っておこうと思って」

「なんであたしに?」

「前の、臨海学習の写真係は松本だったんだよ。靴の件は分からないけど、私は夏休み明けからイジメられるようになって松本のことをすっごく恨むんだ」

 タイムトラベルのことも含めて明かしたのは、私なりのけじめと言うか一種の宣戦布告みたいなものだと思う。遠回しに松本の罪も糾弾する意味もあるし、牽制の意味もある。とにかくモヤモヤした気持ちを吐き出したかった。

 しばらく待っていると松本は力が抜けたようにしゃがみ込んだ。靴を脱ぎ捨ててあぐらをかく。

「前々からなーんか変だなと思っていたけど、タイムトラベルして来たんだ。なるほどね」

「冗談でしょって笑わないの?」

 私も松本にあわせて靴を脱いでしゃがみこんだ。

「部活。一緒に見に行かないか誘ったときに『陸上部』って即答したでしょ? まだ何も言ってなかったのに。あとは落書きの件。六組のだれかって最初から決めつけていたでしょ? 何か確信があるような言い方だったから」

「あ、ほんとだ……」

 言われれば私はいくつもの失言を重ねていたんだ。

「タイムトラベルしたって聞いて全部納得したよ。だから昼間あたしをのけ者にしたんだね、仕返しのつもりで」

 “仕返し”という強い言葉に思わず「ちがう」と叫んでしまった。

「ちがう、仕返しとか復讐とかそういう気持ちじゃなくて」

「じゃあなに。腹いせ? 嫌がらせ? まぁ呼び方なんてなんでもいいけど。つまり村瀬さん……あぁもう呼び捨てでいいか、村瀬はあたしのことが嫌いで仕方ないんでしょう、だから今度はあたしをイジメることにしたんだね」

 まるで予期していなかった言葉を吐かれ、胸の中がかぁっと熱くなった。

「ふざけないで、私がイジメなんてするはずないでしょう?」

 とんでもない言いがかりだ。松本は本当に性格が悪い。

「そりゃあ昼間のことは悪かったと思っているけど、他にはなにも」

「声かけるといつもイヤそうな顔、近づくと露骨に避ける、授業中になにか間違えると笑う、そういうのイジメって呼ばないの?」

「え……?」

 こらえきれないように松本の肩が膨らんだ。

「自分の胸に手を当ててみなよ、ぜんぶアンタがやってきたことだよッ!」

 投げつけられた言葉に全身を砕かれたような気がした。
 無視されることもイヤな顔されることも接触を避けられることも笑われることも……どんな些細なことでも私にとってはイジメだ。同級生たちのそんな姿を見るたびに傷ついて胸の中でドロドロした涙を流し、“なんで私が”“なんで私ばっかり”と行き場のない叫び声を上げていた。

「どうなの、もし無自覚だったなら最悪だけど」

 松本が波間に石を投げた。プレッシャーをかけてくる。

「……そんなつもりじゃなかったの。イジメているつもりなんて」

 ぼそぼそと口を突いて出たのはみっともない言い訳だった。

「そういえば来るときの電車で秋吉くんの寝顔撮って市川さんに叱られていたよね。さっき言っていたことと不細工な寝顔撮られたのとなにが違うの?」

「それは、だって……、秋吉くんは嫌がっていなかったし悪気もないし」

「じゃあさ」

 松本は私のスニーカーの片方を掴むと助走をつけて海に放り投げた。私は呆気に取られながら靴の軌道と小さな飛沫が上がるのを見るしかない。

「なに……なにすんの、ひどい! ひどいひどい!」

 体の奥底から怒りがこみあげてくる。松本は平然と肩をすくめた。

「あたしは落ちていたものを投げただけで村瀬さんのものとは知りませんでした、悪気はありませんのでイジメではありません、もうしません、ごめんなさーい」

「バカにしないでよ、許せるはずないでしょう!」

 こんなひどい仕打ちをされて、いい加減な謝罪ひとつで許せるはずがない。
 しかし松本は得意げに鼻を鳴らす。

「だからさ、いまあたしがした”こと”と村瀬があたしにした”イジメ”となにが違うの? タイムトラベル前のあたしがイジメているつもりなんてなかったんですーって言ったら許すの?」

「……それは」

 許すはずがない。人の人生を踏みにじった上で平然と笑っている奴らに私の心の傷なんて分からないはずだし、薄っぺらい謝罪ひとつで傷を癒せるとも思えない。どうやったら許せるのか私自身にも皆目見当がつかない、それほどの深い傷なのだ。

 だけど――……だけど私は、同じような深手を松本に負わせていたのだ。しかもまったく無意識に。もし指摘されなければ卒業までずっと気づかなかったかもしれない。

 謝ろうか……。
 でも、私は悪くない。

 喉元まで出かかったゴメンナサイの言葉を強すぎる正当性が押し返す。現実を突きつけられてもなお、自分の過ちを認めたくない弱い自分がいた。間違いを受け入れて謝罪することは自分の性格や行動を片っ端から否定するような気がして、怖い。
 松本は私の言葉を待ってくれたけど、しびれをきらしたように海に踏み込んでいった。

「謝る気がないなら謝らなくていいよ。あたしも許さない。ずっと背負い続ければいい。だけど次に同じようなことしたら本気で先生に訴えるから」

 言いながらどんどん海に入っていく。

「ちょ、どこ行くの。濡れるし冷たいよ」

「靴とってくるの。前のあたしはともかく、今のあたしは悪いことした自覚くらいあるから」

 波に流された靴を追いかけ、平泳ぎで軽快に進んでいく。悔しいけど、カッコイイ。

 そう、私は、息苦しい中学生活の中でずっと松本のことを見ていた。一挙一動をつぶさに観察して、至らないところや未熟なところを見つけては心の中で笑っていた。同じ漫画を好きなことも知っていた。もしもイジメっ子とイジメられっ子の関係じゃなかったら……そんなことを考えて「ありえない」と笑い飛ばしたこともある。

 私はイジメなんてしたくなかったし、されたくなかった。
 もしかしたらそれは、松本も同じだったのかもしれない。
 私はタイムトラベル前の世界に固執しすぎていたのかもしれない。
 秋吉くんと同じように松本も新しい世界を生きているんだ。私はイジメに拘りすぎてちっとも青春を楽しめなかった。

 イジメは許せないし松本のしたことを許すつもりもない。
 でもそれだけに固執したらダメなんだ。

 松本が靴を手に戻ってきたら「ありがとう」と「ごめんなさい」をちゃんと言って、そこからまた考えよう。もう二度と戻らないかもしれない中学生活をどう生きるかを。

 東の空が明るくなってきた。暗い夜を吹き飛ばすように水平線からどんどん光が拡がっていく。穏やかな水面に反射して鏡のようにキラキラと輝いた。

 夜明けだ。すごくきれい。

 水槽の中をメダカが泳いでいるときみたい。
 カメラを持ってこなかったことが悔やまれる。せめて自分の携帯を持ってくれば撮れたのに。
 朝日が昇る水平線にしばらく見入っていた。

「……あれ?」

 ふと思い出して靴が流れていった方の海面に目を向ける。
 先ほどまで波間に見えていた松本の頭はどんなに目を凝らしても見つけられなかった。