ようやく夏休みに入ったと思ったら、あっという間に二週間が過ぎた。

 休み前、五匹のメダカの稚魚を金魚鉢に迎えた。最初は環境の変化に戸惑っていたメダカたちも半日も経てば自由に動き始めた。いまのところ弱いものいじめもなく元気に過ごしている。

 最初は面倒がっていたお母さんもいまでは餌やりを自ら買って出るくらいだし、水替えも頻繁にしてくれる。お姉ちゃんもそれぞれに名前をつけ成長の様子をSNSにあげている。いつの間にか二人は仲直りしていて、メダカってすごいと感心してしまった。

 そして私は。

「海だー」

 反対側のボックス席で花岡さんが歓喜の声を上げた。待ちきれないように開けた車窓から潮のにおいが飛び込んでくる。私たち一年生を乗せた貸し切り電車はトンネルを抜けて海岸線に差し掛かっていた。

「きゃー紫外線めっちゃ強そう」

 隣の土屋さんはカバンから取り出した日焼け止めをドパドパと肌に塗り込んでいる。私も海を撮ろうとカバンを漁っていると市川さんが近づいてきた。

「ハイ、お仕事」

 渡されたのはクラスに一個貸与されているデジカメだ。臨海学習では班ごとに係が決まっていて、私の班はアルバム係。当日クラスみんなの写真を撮る担当と後日感想文を集める担当とを手分けすることになっていて、私は前者だ。
 臨海学習の記録を残すのに、個々のスマホで撮った写真だと色々問題があるので、貸与されたデジカメを使うよう指示されている。

「ちゃんとやってね」

 押しつけられたカメラを持ちなおし花岡さんたちにレンズを向ける。

「写真とるよー」

 声をかければみんなが振り返ってピースしてくれた。男子も女子も、いい笑顔だ。私に向けて笑ってくれているみたいで嬉しくなってくる。あとでアルバムにするため、同級生をまんべんなく撮影しようと通路へ立つ。

「秋吉くん……寝てる?」

 姿が見えないと思ったら両手で荷物を抱いたまま座席で寝ていた。服用している薬のせいかもしれないし、手術前でなかなか寝られないのかもしれない。

 寝顔もいい思い出だよね。
 この臨海学習が終わったらしばらく会えなくなる。リハビリの助けになるか分からないけどアルバムができたら送ってあげよう。いまは簡単にメールで送れる時代だけど実物のほうが嬉しいよね。
 少しでも多く写真におさめてあげたいと思い、寝顔に向けてシャッターを切った。

「ねぇ」

「ひゃっ」

 後ろから突然声をかけられたせいでブレてしまった。

「市川さんか。びっくりしたー」

 まだバクバクしている心臓をなだめて息を吐く。市川さんは無表情のまま私に迫ってくる。

「人の寝顔をとるのは悪趣味じゃない?」

「あ、これは、思い出に」

「村瀬さんが撮られる方だったらどう? 少なくともいい気はしないでしょう」

「そうだけど」

 ショッピングセンターで出くわした日から、私への風当たりは一層強くなっていた。私と秋吉くんが仲良くしているのが気に入らないなら自分も秋吉くんと積極的に話をすればいいのに私にばかり怒りをぶつけてくるのは反則じゃない?

「あーよく寝た」

 大きく伸びをして秋吉くんが目を覚ました。私と市川さんの姿を見て目を丸くする。

「なんだなんだケンカ?」

 目を丸くしてあきらかに面白がっている顔だ。

「ばか、ケンカじゃないよ」

「あっそ。あ、村瀬いいカメラ持ってるじゃん。撮ってやろうか」

 言う傍からカメラを奪い取って私たちにレンズを向ける。昔からの習慣でカメラを見るとポーズをとらなくちゃいけない気がして仕方なくピースしてみた。しかし市川さんは無言でカメラのフレーズから立ち去る。

「おーい、市川」

 秋吉くんの呼びかけもむなしく、市川さんは自分の席に戻って断固としてこちらを見ようとはしなかった。

「つまんないやつ。じゃあ村瀬だけでいいか」

「『だけ』は余計」

「はいピース」

 シャッターが鳴る。結局私ひとりだけが写真におさまった。
 返されたカメラの画像を確認すると、よりによって瞬きのタイミングの半眼で映っていた。最悪だ。写真係として問答無用で削除する。その直前に撮った秋吉くんの寝顔は多少ブレているものの映りは悪くはない。これは保存だ。


   ※


 最寄り駅で降りた瞬間からぶわっと汗が出てきた。すごい熱気。カラッと晴れた空から降り注ぐ日差しでサンダルごしでもアスファルトの熱さが伝わってきた。
 まずはクラスごとに決められた民宿に向かい、荷物を置きながら着替えを済ませることになっていた。

「水着に着替えたら砂浜に集合してください。点呼と準備体操をしたら自由時間になります」

 班ごとの部屋をまわって福留が忙しそうに指示を出している。
 私の班はトモちゃん、市川さん、松本の四人だ。隣室からは花岡さんと土屋さんたちが海に興奮してはしゃぐ声が聞こえてくるのに、私たちの班はお通夜みたいに粛々と着替えて荷物をまとめている。

「なんだか静かだね」

「そうだね」

 トモちゃんはぎこちなく頷く。私たちはまだ以前ほど仲良くなっていない。トモちゃんは市川さんとよく話しているのでなんとなく近づきにくいのだ。

「坂元さん準備できた? なら行こう」

 海水浴用に荷物をまとめた市川さんがトモちゃんを促して部屋を出る。置いて行かれまいと私も追いかけた。松本もついてくる。
 前を歩く花岡さんたちは「紫外線が」「化粧が」と騒がしくも楽しそうだ。ふたりとも五月には軽音部に入り、毎日楽しく活動しているらしい。
 タイムトラベル前の世界では、松本は花岡さんたちと同じ班だった。なぜか私はトモちゃんと引き離されて同じ班に組み込まれ、随分心許ない思いをしたっけ。それでもみんなと仲良くなろうと必死に話しかけたけど、全部苦笑いで済まされた。思えば集合写真を撮る前から私は避けられていたんだ。

 結局、運が悪いだけだったのかなぁ。
 だからイジメられたのかな。四十人分の一人なんて確率で当たってもちっとも嬉しくない。

 学年の全員が砂浜に集合した。学年主任の「集合するまで何分かかった」だの「海の事故は危険」だの長い話にしばらく拘束されたあと準備運動をやって解放される。待ちに待った自由時間だ。水を得た魚のようにみんな次々と海に飛び込んでいく。私も同じだった。

 冷た……くないや、ぬるい。

 生ぬるい海水に肩まで浸かる。持ち物として浮き輪を持参することになっていたのでそこに防水カメラを乗せて同級生たちの姿を撮影した。水際で遊んだり岩肌から飛び込んでみたり、みんな思い思いに海を満喫している。楽しい。

 そういえば秋吉くんは……と砂浜を振り返ると先生たちが造ったテントの中にいた。きっと手術前だから激しい運動は禁止されているのだろう。

 体力つけてみんなと泳ぎたいと言っていたのに、可哀想だ。
 でも秋吉くんは臨海学習を心待ちにしていた。本当ならすでに亡くなっていると私が教えたことも一因だろう。このクラスで過ごすイベントを精いっぱい楽しもうとしている。

「おーぃ」

 秋吉くんがこっちに手を振っている。
 遠くて目が合ったのか確信はないけど、たぶん私に対してだよね。

 同じ水着を着用したたくさんの生徒が波間にいる中でも気づいてくれた、そのことはすごく嬉しい。だけど恥ずかしいからちょっとだけ手を振り返して終わりにする。

「わたしたちラブラブでーすって感じ」

「恋人アピールしてきもちわる」

 背後で聞こえた声にぞっとして振り返った。
 マット型のフロートにしがみついている花岡さんと土屋さんと目が合った。ふたりは私の視線に気づくと、くすくすと笑いながら沖の方へ泳いで行ってしまった。

 ひやりと冷たい感覚が体内に拡がる。
 この感覚を知っている。
 ずっと遠ざけてきたものだ。

 ……こわい。

 毛穴という毛穴からじわじわと汗が噴き出す感覚。真冬のように手足が冷たくなってしびれていく感覚。なにか間違ったことをしたんじゃないか、恥ずかしいことをしたんじゃないかという羞恥心と罪悪感。どうして自分ばかりがこんな目に遭うのかという不公平感。

 私はまた失敗したの?
 いままで積み重ねてきたものが崩れていく。否定されていく。『雰囲気』という目に見えないものによって粉々にされていく。

「見つけた。村瀬さん」

 背後から声をかけられても驚かなかった。むしろ嬉しかった。市川さんは浮き輪なしで平泳ぎしながら近づいてくる。私の浮き輪に掴まりながらこう訊いてきた。

「村瀬さんカメラ持ってる?」

「うん。もしかして私を探していたの? ごめんね」

 首に提げていたカメラを返そうとすると首を振られた。

「二年の先輩から聞いたんだけど面白い場所があるんだって。そこで六組だけの集合写真撮りたいから松本さん探して連れてきてくれる? 私は他の同級生に声かけるから」

 集合写真。タイムトラベル前に映れなかった写真だ。

 思い出したら急に吐き気がしてきた。

 そもそも私がいじめられたのは松本のせいじゃん。
 タイムトラベル前の臨海学習では松本たちがアルバム係だった。主にカメラを持っていたのも松本だ。私とトモちゃんをのけ者にして知らない場所で集合写真を撮っていた。

 そこからだ。私が集中攻撃を受けるようになったのは。

 たとえば私が授業中に先生から質問されて発言するだけで、日直で黒板を消すだけで、体育で走るだけで……、いや、もっと、咳をするだけでトイレに行くだけで靴を履きかえるだけで喋るだけで立ち上がるだけで声を出すだけで息をするだけで――「きもい」って笑った。

 気持ち悪い笑顔と甲高い声を凶器にして何度も私の心をズタズタに切り裂いたんだ。
 それなのにタイムトラベル後も平然としているってどういうこと。切り刻まれた私の心どうしてくれるの。いまもこんなに痛いのに。

「……誘わなくてもいいんじゃないかな、松本さんは」

 私の中のドロドロした感情が粘り気を伴って吐き出される。

「絶対ダメってことじゃないんだけど、前に松本さんにいじめられたことがあって。あの人すごく性格悪いんだよ。だから――」

 ぼろぼろに擦り切れた心を持て余しながら、私はささやかな復讐を果たそうとしていた。

「ふぅん」

 市川さんは私の目を見ず、自分の顔にかかった前髪を鬱陶しそうに払いのける。

「村瀬さんって秋吉くんのこと気遣ういい人だと思っていたけど、やっぱりブスなんだね。性格」