夏服に衣替えして少しずつ日差しが強くなってきたころ、一学期の期末テストがあった。過去に同じテストを受けている私にとっては楽勝――のはずだったけれど。

「どうしよう、理科と社会……ダメかもしれない」

 テストから解放された午後、秋吉くんと帰った。問題文を思い出してはため息ばかりついてしまう。

「タイムトラベラーなんだから楽勝じゃないのか?」

「三年前のテスト問題なんて記憶とともにブラックホールの彼方に吹っ飛んでます!」

 さすがに赤点ということはないだろうけど先が思いやられる。そもそもテストの成績で松本たちを見返すことができたら良かったけどそれほどの知能は持ち合わせていなかったのだ。

「つまり村瀬は村瀬のまんまってことか」

 秋吉くんは憎たらしいほど上機嫌で足取りは軽やかだ。顔色もいい。

「その顔、余裕って意味でしょう? 嫌味だなー」

 私は知っている。お姉ちゃんがいなくなったり仕事が変わったりで母はしだいに私に厳しく接するようになり、テスト結果を見せるときは閻魔大王の前に立たされたような気分を味わうことを。だから高揚感に包まれている秋吉くんが羨ましい。

 秋吉くんは歯肉が見えるくらい口端を持ち上げた。

「ばーか、教室にいるより保健室にいるほうが多いのにいい点とれるわけがないだろ」

 秋吉くんが保健室に行く回数は徐々に増えていた。登校しても三時間授業に出ていればマシな方。ともすれば保健の先生よりも長い時間保健室にいると同級生たちに揶揄されるくらいだ。

「じゃあなんで嬉しそうなの?」

「だって村瀬がタイムトラベルする前の世界でのおれはもう死んでいて、テストの話をすることもなかったわけだろう? そう思うとテストですら嬉しいんだよ。もし赤点だったとしても親に自慢するし、平均点とれたら万歳すると思う。こうやって。ばんざーい」

 頼んでもいないのに勝手に万歳をはじめ、通りかかった家の犬に吠えられている。頭のネジ跳んでいるのかと思うくらいあやしい。

 ……でも、そうか。
 一度死を突きつけられた秋吉くんにとってはすべてが眩しい景色なんだ。
 私だって自殺を思いとどまって定時制の高校や翌年高校受験すればまた違った世界が見えていたかもしれない。
 秋吉くんの単純さを見ているとそう思えてくる。
 でもあの世界に秋吉くんはいない。彼が生きて元気にしているこの世界で、私は幸せな青春を送りたい。こういう気持ち、なんて言うんだろう。

 もしかして噂に聞く「恋」ってやつ?
 まさか。まさかね、だって恋なんてタイムトラベル前だって一度もしなかった。
 それに秋吉くんに好意を寄せている市川さんがなんて言うか。

 ――あの靴箱の落書き以降、目立った形での嫌がらせは起きていない。松本とは朝と帰りに挨拶する以外これといった会話ないけれど私を避けている様子はない。かわりにトモちゃんをはじめとする同級生たちから距離を置かれている。イジメとは呼ばないと思うけど「無視されている」「仲間はずれにされている」と感じることはある。特に市川さんは露骨だ。私が近づくとあからさまに避ける。

「村瀬、夏休みの予定は?」

「予定? 特にないよ」

 半袖から突きだした腕をジリジリと焼く日差しが痛い。来週からは夏休み。臨海学習は八月の十一日から一泊二日だ。

「じゃあ、頼みがあるんだけど……」

 視線を外して恥ずかしそう頬を掻いている。
 この展開、もしかして夏祭りにでも誘われる?

「頼み? なに?」

 市川さんの顔がチラついたけど急にドキドキしてきた。

「……メダカの稚魚もらってくれないか? 少しでいいんだ」

「はぁ?」

 がっかりした。
 たしかにこの数日でメダカの稚魚が次々と孵った。数十匹。親メダカが食べてしまわないように別の水槽に移している。

「頼むよ~、村瀬さまぁ~」

 両手を合わせて懇願される。一瞬でも期待した自分がバカだった。

「分かった分かった、お母さんに聞いてみるね」

「サンキュ。ついでで悪いけどお盆以降の餌やりも頼んでいいか?」

 なんだか体よく仕事を押しつけられている気もする。

「良かった。お盆から夏休みが終わるまでの数日間ってことでいいの?」

「できればお盆以降、しばらくの間」

「しばらく? どういうこと?」

 秋吉くんは苦笑いして自分の胸元を軽く叩く。

「手術が決まったんだ。術後しばらくは学校を休まなくちゃいけないから」

「そうなんだ……」

 夏休み明けの教室に秋吉くんの姿がないことを想像して淋しくなった。

「ま、早ければ一ヶ月くらいで戻ってくるからそんな残念そうな顔するな」

「だれがー!」

 反射的に言い返してしまう。
 秋吉くんは「冗談冗談」と笑い飛ばしていたけどホッとしたような胸をなでおろした。

「ああ良かった。村瀬がもらってくれるなら安心だ。養護の水沢先生はどうも頼りなくて……あ、おい、聞こえてたか?」

 急に立ち止まって耳に手を当てた。

「一番ゼミが鳴いてるぞ」

「一番ゼミ?」

 街路樹の一角からジーと高い音が聞こえる。最近まで雨で寒かったけど、やっと夏らしくなってきたから地中から出てきたのだろう。

 あの音に似ている気がする。
 タイムトラベルに関わる瞬間いつも耳元で聞こえるヂーという音。
 まだ鳴き慣れていない弱々しい声だけど、もうしばらくすれば耳をふさぎたくなるような大音量で鳴くはずだ。

「なにしてるの秋吉くん」

 急に静かになったと思ったら秋吉くんは手を合わせて瞑目している。

「“長生きできますように”って一番ゼミにお願いごとしているんだよ」

「一番星の間違いじゃないの?」

「セミでも星でも、一番がいいだろ。おれも出席番号一番だし」

 よく分からない理屈だけど秋吉くんは真剣そのものだ。傍から見れば樹木に祈っている変人だけど、死んでしまえば一番ゼミに祈ることもできなかったのだ。

 仕方ないなぁ。
 私も隣で手を合わせた。
 ――今度は失敗せず過ごせますように。

「村瀬、なにをお願いしたんだ?」

「言わない。一番ゼミにしたお願いごとは他人に話しちゃいけないって知らないの?」

「マジで?」

 秋吉くんの鼻息が荒くなった。面白い。

「そうだよ、三年後はそれが当たり前なんだから。あとね、お願いごとしている人に話しかけると悪いことが起きるんだって。お気の毒さまです」

 早足になると秋吉くんも慌ててついてくる。

「え、悪いことを回避する方法とかないのか?」

「あるけど教えない」

「村瀬ぇ―」

 秋吉くんに追いかけられながら一番ゼミの鳴き声を聞く。きっとスキップしている間に夏が来る。


   ※


「ただいま」

 家に帰るとお姉ちゃんと母の靴が三和土の横に並べて置いてあった。お母さんがこの時間に帰ってるなんて珍しい。
 自分の靴を脱いで奥のリビングへいくと、薄暗い室内で母がテレビを見ていた。

「ただいまお母さん」

「あぁ……おかえり」

 気だるそうに視線を上げる。

「暑かったでしょう、なにか飲む?」

 言いながらキッチンに向かうと、冷蔵庫から取り出したオレンジジュースをコップに注いだ。私は急いで手洗いとうがいを済ませて机に座る。
 手渡されたジュースはとても冷たい。コップの淵にかじりついて一気に飲み干した。母はまた机に戻ってテレビのお笑い番組を見ている。でもちっとも楽しそうじゃない。

「机の上にアップルパイあるわよ。サキの三者面談で、さっきまで先生が来ていたの」

「ふぅん、夏休み前なのに珍しいね」

「サキが進路悩んでいるって言うから」

 どきんと心臓が鳴った。
 前より早くなってる。
 タイムトラベル前、お姉ちゃんが進路の話をしたのは二学期に入ってから。母が勤める会社の経営状態が厳しくなってきてて、お互い顔を合わせれば喧嘩していた。私がイジメを認識しはじめた頃でもある。

「お姉ちゃん、なんて?」

 恐る恐る聞いてみると母はこらえきれないように大きな息を吐いた。

「よく分からないのよ……なんで急に県外の高校なんて。通学にしても下宿にしても、いまのお給料じゃとても無理だわ、仕事増やさないと」

 そのまま机に突っ伏してしまう。
 私はアップルパイとジュースをお盆に載せてお姉ちゃんの部屋へ向かった。

「ただいま。入るよお姉ちゃん」

 お姉ちゃんはベッドで丸まっていた。

「ここに置かせてね。なにかあったの」

 勉強机の上にお盆を置く。様々な高校のパンフレットがファッション雑誌のように並べられている。

「おかあさん、なんか、いってた?」

 布団にくるまったままお姉ちゃんが訊いてくる。
 私はジュースを飲みながら「べつに」と答えた。

「ウソだ。絶対に怒っていたでしょう!」

 がばっと起き上がって叫ぶ。涙で腫れた目元のせいでいつものお姉ちゃんじゃないみたい。

「どうせサキはなんにも考えてない、思いつきで言っているだけって悪口言っているんでしょう。娘の幸せは公務員以外ありえないと本気で信じてる毒親だからね」

 お母さんはそんなこと言ってない。お姉ちゃんを進学させるためにどうお金を捻出しようか考えていた。

「喧嘩別れしたんでしょう。ちゃんと話したほうがいいよ」

「余計なお世話!」

 お姉ちゃんの目が鋭く吊り上がった。

「アンタはいいわよね、なーんの悩みもなく呑気でいられるんだから。お母さんもアンタのこと甘やかしてばっかり」

 呑気と言われてカチンときた。

「私だって大変なんだよ。学校だけじゃなく家でも気を遣って苦労しているの」

「ウソばっかり。クラスの男子と付き合っているんでしょう?」

「……え?」

 秋吉くんと付き合っているわけではないけどよく話すのは事実だ。クラス内でも散々ひやかされて公認カップルという扱いになっている。

「スピード告白スピード交際した一年カップルがいるって噂でさ、よりによってアンタとは思わなかった。なんで教えてくれなかったの?」

「だって付き合ってないし」

「ウソつき。ウソつきまどか。大っ嫌い」

 そう言い捨てて布団にくるまってしまう。こうなるとなにをしてもダメだ。
 諦めてリビングに戻るとお母さんはスーツに着替えて出かける支度をしていた。

「こんな日も会社行くの?」

「残っている仕事があるの。帰りは遅くなるからふたりでご飯食べてね」

 鼻をすすりながら玄関へ向かう。

「ねぇお母さんメダカ飼っていい? メダカの赤ちゃん。保健室で飼っているんだけど殖えすぎちゃって」

 パンプスを履こうとしている丸っこい背中に問いかける。母は振り返らない。

「ちゃんと世話できるの?」

「できるよ。餌やりや水替えの方法も教えてもらったから」

「ならいいけど少しにしなさいね。どうせすぐ死んじゃうだろうし、多いと片づけるの大変だから。じゃあ行ってきます」

 バタンと重たい音を残して母は行ってしまう。薄暗い玄関に漂う冷たさがそのまま私の胸に押し寄せてくるようだった。呼吸をするだけで苦しくなる。

 なによ、あの言い方。最初から死ぬのが前提みたいに。
 なによ、お姉ちゃんもお母さんも逃げてばかりで。面と向かって話し合えばいいのに。

 感情的になった瞬間、ふと思った。
 『話したってなにも変わらない』って前の私は思ったはずなのに、どんな心境の変化よ。
 
 秋吉くんのこと、松本のこと、タイムトラベル前の世界と違いすぎて自分がどこにいるのか分からなくなっている。
 モヤモヤした気持ちを晴らすようにリビングのソファーにダイブした。反動で舞い上がった埃が光を反射しながら降りてくる。
 なんとなく保健室のメダカの水槽を思い出した。

 ――私はいまアクアリウムの中にいるんだ。狭くて窮屈な水槽のどこへも逃げられずに足掻いている。

 だったら。
 水槽の外から私を見てくれている人は秋吉くんがいいな、とも思った。
 やっぱりこれは恋かな。