四十分後にまた来て、と言われてもどこで待てばいいのだろう。
悩んだ末、一年六組の教室に戻ることにした。教室に入ると私と同じように出番を待つ生徒たちがいた。机に突っ伏して寝ていたり何人かでお喋りしたりと様々だ。私が入った瞬間に視線が集まった、けれど、なにを言うでもなくまたお喋りを再開している。「お疲れさま」の言葉もないのだろうか。あんなに頑張ったのに。心ではそう思っていても面と向かって文句を言える勇気はない。
次は四十分後。保健室でメダカでも見ていよう。
そう思って息苦しい教室を後にした。
廊下を歩いていると突き当たりを誰かが通りすぎるのが見えた。背の高いスーツ姿の男性だ。
私はハッと息を呑む。
「――時任先生!?」
ほんの一瞬だったけどよく似ていた。
私は急いで走り出す。さっきの筋肉痛がもう足にきている。
「待って! 待って時任先生!」
後ろ姿を追って正面玄関に出た。リレーを走り終えた生徒がぱらぱら歩いているだけで、時任先生らしき姿はない。
「いない……見失っちゃった」
せっかく再会できたと思ったのに。がっくりと項垂れていたら体全体が重くなってきた。
その時だ。ヂー、と聞こえた。あの音だ。
「……屋上だ」
あちこち歩き回って音がいちばん大きく聞こえるのは屋上の方向だと気がついた。
ひと気のない階段を一段ずつ慎重に上がっていく。音はどんどん増幅して痛いくらいだ。踊り場に辿りついたところで上の様子を確認してみた。「立ち入り禁止」のロープは貼られたままだけど扉が少し開いて隙間がある。
きっと時任先生だ。私は力を振り絞って階段を駆け上がった。ロープをくぐりぬけて鈍色の扉を押し開ける。
「時任先……え、あれ……、先生?」
そこにいたのはジャージ姿の福留だった。私と目が合って不思議そうに首を傾げる。
「村瀬さんどうしたの。ここは立ち入り禁止よ」
本気で怒っているような顔ではなかった。
「ちょっと気になる音が聞こえたので」
「音? なにも聞こえなかったけど?」
確かに耳を澄ましてももう聞こえない。私はてきとうに頭を下げた。
「すみません、私の聞き間違いかもしれません。……先生はどうしてここに?」
「ああ、私?」
福留は薄く笑ってフェンスに近づいた。
「なんとなく昔を思い出してね。私が学生だった頃はまだ屋上は閉鎖されていなかったから、一人になりたい時はたまに来ていたのよ」
「この学校出身なんですか?」
「そう。偶然にも六組だったのよ」
「へぇ」
こうして間近で顔を見るのは初めてだ。二十五歳だという福留は顔の輪郭が小さくて目が大きい。芸能人と言われても納得するレベルだと思う。ただ都合が悪くなると笑顔を浮かべるばかりで大事なことはなにもしてくれないのだ。私のイジメに関しても不登校になるまでは見て見ぬふりを通した。私の自宅にやってきたときだって、スーツは地味な青色だったくせに、玄関に置かれたレモンイエローのパンプスを目にした瞬間「こいつは私より自分のオシャレの方が大事なんだ」と失望したものだ。
今日だってレモンイエローの石をあしらったネックレスをしている。私たちは砂埃の舞うグラウンドで汗だくになっているって言うのに自己主張を忘れないのだ。釈然としない気持ちになる。
「先生知ってます? ダメヒヨコって呼ばれているの」
頑張って教師らしいことをしようとしている一方でいつも自信がなさそうな福留はレモンイエローが好きなことや名前をもじってイジられている。こんなことを面と向かって告げるのは私が初めてだろうに、福留は笑顔のままだった。
「頼りないひよっこ教師だもの、仕方ないでしょう。あだ名で親しみをもってもらっているだけマシだと思わないと」
ちがう、全然ちがう。バカにされているんだよ。
先生がそんなんだから私は何度も絶望して、失望して――。
「そういえばこの屋上にまつわる七不思議を知ってる? 卒業式の日に飛び降りると過去に戻れるって噂があるの」
どきっとした。まさか福留からタイムトラベルの話がでるとは思わなかった。まるで私のことを知っているみたいに。
福留は私ではなく青空に視線を向けている。
「この噂は先輩から聞いたの。卒業式にだけ現れる『魔女』がいて、強い絶望を抱いた生徒を過去に飛ばしてくれるんですって。でも噂を本気にした生徒が何人も飛び降りしたから閉鎖されるようになっちゃったのよ」
『魔女』――私が出会った時任先生は人間ではなく『魔女』だったのだろうか。
「あの人たちは一体なにをやり直したかったのかしら? 過去を変えて自分だけ幸せになったとしても、かわりに別の人が不幸になるかもしれないのにね」
まるで私への当てつけのような言葉だ。
先生になにが分かるというのだろう。
「過去をやり直すことは悪いことですか?」
「え?」
反論されるとは思っていなかったのか福留は目を白黒させる。
「要領の悪い人間は、他人の幸せを大人しく眺めていろって言うんですか? 自分の幸せを願ってはいけないんですか?」
「村瀬さん……?」
我知らず熱くなっている自分に気づき、急に恥ずかしくなった。
「すみません。教室に戻ります」
顔を見ないで走り出した。福留相手にムキになってバカみたいだ、私。
階段を駆け下りて教室へ戻る。乱暴な音で扉を開けたことを一瞬後悔したけどすぐに違うことに意識が切り替わる。
だれもいない。
がらんとした教室内を見回し、最後に黒板上の時計に目が留まった。
「一時間!? そんなに経ってた!?」
とっくに自分の番になっているはずだ。大急ぎでグラウンドへ向かった。
「遅い! どこいってたの!」
露骨に怒りをぶつけてくるのは市川さんだ。花岡さんや土屋さん、トモちゃんまでも私をにらむ。リレーはクライマックスを迎えているらしく、ほとんどのクラスはすでにゴールの余韻に湧いている。一方、私のクラスとは言うと。
「村瀬が戻ってこないから松本さんが二周走ってるんだ。もうすぐ戻ってくる。それでフィニッシュだ。ビリかブービーだけどな……。ほんとどこに行ってたんだよ、何回も連絡したのに」
隣に立って状況を説明してくれる秋吉くん。遠回しに責められているのだと分かった。
「見て、松本さんが来たよ」
花岡さんの声で全員がフィニッシュラインの方向を見る。
最後の直線でふたりの生徒が競っていた。ひとりは松本、もうひとりも一年生だ。どちらかがビリで、どちらかがブービー。松本は体を激しく上下させてとても苦しそうだった。私たちがつないだバトンを必死に握りしめている。
「がんばれ!」
「もうちょっとー!」
「ラストー!!」
みんなが声援を送る。
ふらつく松本を見ていると心配になってくる。
私の中で熱いものが込み上げてきた。
「が……がんばれ、がんばれぇー!」
必死に声を張り上げた。
どうか、転ばずにちゃんとゴールできますように。
願っていたのはそれだけだ。
口を開けて苦しそうに呼吸している松本が一瞬こちらを見た。目が合ったと思った。すると並走していた一年生を抜き、ぐんぐん引き離して加速してくる。どこにそんな体力が残っていたのか。
「ゴール! 一年六組!」
大歓声の中、松本がテープを切った。
ゴールを駆け抜けていく横顔を本気で格好いいと思った。まさか松本に対してこんなに気持ちになるなんて。
「松本さんお疲れ様、すごかったね」
「泣きそうだった~」
「最後の追い上げ鳥肌たった!」
我先にと駆けつけて松本をねぎらう同級生たち。私は遠巻きに見つめるしかない。
「ほら、いこうぜ村瀬」
秋吉くんに促されて遅れて輪に入った。けれど周りの視線は冷たい。メダカの群れに一匹だけ紛れ込んだドジョウみたいだ。
私は深々と頭を下げる。
「松本さん、ごめんなさい。あとお疲れ様。すごく格好良かった」
「……」
松本は無表情だ。タオルで汗を拭いながら一言も喋らない。しびれをきらした市川さんが前に進み出た。
「表彰式だって。みんな行こう」
ぞろぞろと歩き出す集団から私だけが取り残される。
絶望と後悔で目の前が暗くなる。自分がどこに立っているのか分からなくなる。底なしの沼に沈んでいきそうだ。
でも。
「……声、聞こえたよ」
私の肩を叩いてきたのは松本だった。
「まつも……」
そのままクラスの輪に加わってしまった松本に声をかけることはできなかった。
汗だくでもピンと伸びた背中。憎いけど、格好いい。明日からも私たち関係はなにも変わらないだろう。でも「ありがと」とばかりに叩かれた手の重みを私は忘れないだろう。
こうしてクラスマッチは終わった。
最終順位は私の予想通りだった。
悩んだ末、一年六組の教室に戻ることにした。教室に入ると私と同じように出番を待つ生徒たちがいた。机に突っ伏して寝ていたり何人かでお喋りしたりと様々だ。私が入った瞬間に視線が集まった、けれど、なにを言うでもなくまたお喋りを再開している。「お疲れさま」の言葉もないのだろうか。あんなに頑張ったのに。心ではそう思っていても面と向かって文句を言える勇気はない。
次は四十分後。保健室でメダカでも見ていよう。
そう思って息苦しい教室を後にした。
廊下を歩いていると突き当たりを誰かが通りすぎるのが見えた。背の高いスーツ姿の男性だ。
私はハッと息を呑む。
「――時任先生!?」
ほんの一瞬だったけどよく似ていた。
私は急いで走り出す。さっきの筋肉痛がもう足にきている。
「待って! 待って時任先生!」
後ろ姿を追って正面玄関に出た。リレーを走り終えた生徒がぱらぱら歩いているだけで、時任先生らしき姿はない。
「いない……見失っちゃった」
せっかく再会できたと思ったのに。がっくりと項垂れていたら体全体が重くなってきた。
その時だ。ヂー、と聞こえた。あの音だ。
「……屋上だ」
あちこち歩き回って音がいちばん大きく聞こえるのは屋上の方向だと気がついた。
ひと気のない階段を一段ずつ慎重に上がっていく。音はどんどん増幅して痛いくらいだ。踊り場に辿りついたところで上の様子を確認してみた。「立ち入り禁止」のロープは貼られたままだけど扉が少し開いて隙間がある。
きっと時任先生だ。私は力を振り絞って階段を駆け上がった。ロープをくぐりぬけて鈍色の扉を押し開ける。
「時任先……え、あれ……、先生?」
そこにいたのはジャージ姿の福留だった。私と目が合って不思議そうに首を傾げる。
「村瀬さんどうしたの。ここは立ち入り禁止よ」
本気で怒っているような顔ではなかった。
「ちょっと気になる音が聞こえたので」
「音? なにも聞こえなかったけど?」
確かに耳を澄ましてももう聞こえない。私はてきとうに頭を下げた。
「すみません、私の聞き間違いかもしれません。……先生はどうしてここに?」
「ああ、私?」
福留は薄く笑ってフェンスに近づいた。
「なんとなく昔を思い出してね。私が学生だった頃はまだ屋上は閉鎖されていなかったから、一人になりたい時はたまに来ていたのよ」
「この学校出身なんですか?」
「そう。偶然にも六組だったのよ」
「へぇ」
こうして間近で顔を見るのは初めてだ。二十五歳だという福留は顔の輪郭が小さくて目が大きい。芸能人と言われても納得するレベルだと思う。ただ都合が悪くなると笑顔を浮かべるばかりで大事なことはなにもしてくれないのだ。私のイジメに関しても不登校になるまでは見て見ぬふりを通した。私の自宅にやってきたときだって、スーツは地味な青色だったくせに、玄関に置かれたレモンイエローのパンプスを目にした瞬間「こいつは私より自分のオシャレの方が大事なんだ」と失望したものだ。
今日だってレモンイエローの石をあしらったネックレスをしている。私たちは砂埃の舞うグラウンドで汗だくになっているって言うのに自己主張を忘れないのだ。釈然としない気持ちになる。
「先生知ってます? ダメヒヨコって呼ばれているの」
頑張って教師らしいことをしようとしている一方でいつも自信がなさそうな福留はレモンイエローが好きなことや名前をもじってイジられている。こんなことを面と向かって告げるのは私が初めてだろうに、福留は笑顔のままだった。
「頼りないひよっこ教師だもの、仕方ないでしょう。あだ名で親しみをもってもらっているだけマシだと思わないと」
ちがう、全然ちがう。バカにされているんだよ。
先生がそんなんだから私は何度も絶望して、失望して――。
「そういえばこの屋上にまつわる七不思議を知ってる? 卒業式の日に飛び降りると過去に戻れるって噂があるの」
どきっとした。まさか福留からタイムトラベルの話がでるとは思わなかった。まるで私のことを知っているみたいに。
福留は私ではなく青空に視線を向けている。
「この噂は先輩から聞いたの。卒業式にだけ現れる『魔女』がいて、強い絶望を抱いた生徒を過去に飛ばしてくれるんですって。でも噂を本気にした生徒が何人も飛び降りしたから閉鎖されるようになっちゃったのよ」
『魔女』――私が出会った時任先生は人間ではなく『魔女』だったのだろうか。
「あの人たちは一体なにをやり直したかったのかしら? 過去を変えて自分だけ幸せになったとしても、かわりに別の人が不幸になるかもしれないのにね」
まるで私への当てつけのような言葉だ。
先生になにが分かるというのだろう。
「過去をやり直すことは悪いことですか?」
「え?」
反論されるとは思っていなかったのか福留は目を白黒させる。
「要領の悪い人間は、他人の幸せを大人しく眺めていろって言うんですか? 自分の幸せを願ってはいけないんですか?」
「村瀬さん……?」
我知らず熱くなっている自分に気づき、急に恥ずかしくなった。
「すみません。教室に戻ります」
顔を見ないで走り出した。福留相手にムキになってバカみたいだ、私。
階段を駆け下りて教室へ戻る。乱暴な音で扉を開けたことを一瞬後悔したけどすぐに違うことに意識が切り替わる。
だれもいない。
がらんとした教室内を見回し、最後に黒板上の時計に目が留まった。
「一時間!? そんなに経ってた!?」
とっくに自分の番になっているはずだ。大急ぎでグラウンドへ向かった。
「遅い! どこいってたの!」
露骨に怒りをぶつけてくるのは市川さんだ。花岡さんや土屋さん、トモちゃんまでも私をにらむ。リレーはクライマックスを迎えているらしく、ほとんどのクラスはすでにゴールの余韻に湧いている。一方、私のクラスとは言うと。
「村瀬が戻ってこないから松本さんが二周走ってるんだ。もうすぐ戻ってくる。それでフィニッシュだ。ビリかブービーだけどな……。ほんとどこに行ってたんだよ、何回も連絡したのに」
隣に立って状況を説明してくれる秋吉くん。遠回しに責められているのだと分かった。
「見て、松本さんが来たよ」
花岡さんの声で全員がフィニッシュラインの方向を見る。
最後の直線でふたりの生徒が競っていた。ひとりは松本、もうひとりも一年生だ。どちらかがビリで、どちらかがブービー。松本は体を激しく上下させてとても苦しそうだった。私たちがつないだバトンを必死に握りしめている。
「がんばれ!」
「もうちょっとー!」
「ラストー!!」
みんなが声援を送る。
ふらつく松本を見ていると心配になってくる。
私の中で熱いものが込み上げてきた。
「が……がんばれ、がんばれぇー!」
必死に声を張り上げた。
どうか、転ばずにちゃんとゴールできますように。
願っていたのはそれだけだ。
口を開けて苦しそうに呼吸している松本が一瞬こちらを見た。目が合ったと思った。すると並走していた一年生を抜き、ぐんぐん引き離して加速してくる。どこにそんな体力が残っていたのか。
「ゴール! 一年六組!」
大歓声の中、松本がテープを切った。
ゴールを駆け抜けていく横顔を本気で格好いいと思った。まさか松本に対してこんなに気持ちになるなんて。
「松本さんお疲れ様、すごかったね」
「泣きそうだった~」
「最後の追い上げ鳥肌たった!」
我先にと駆けつけて松本をねぎらう同級生たち。私は遠巻きに見つめるしかない。
「ほら、いこうぜ村瀬」
秋吉くんに促されて遅れて輪に入った。けれど周りの視線は冷たい。メダカの群れに一匹だけ紛れ込んだドジョウみたいだ。
私は深々と頭を下げる。
「松本さん、ごめんなさい。あとお疲れ様。すごく格好良かった」
「……」
松本は無表情だ。タオルで汗を拭いながら一言も喋らない。しびれをきらした市川さんが前に進み出た。
「表彰式だって。みんな行こう」
ぞろぞろと歩き出す集団から私だけが取り残される。
絶望と後悔で目の前が暗くなる。自分がどこに立っているのか分からなくなる。底なしの沼に沈んでいきそうだ。
でも。
「……声、聞こえたよ」
私の肩を叩いてきたのは松本だった。
「まつも……」
そのままクラスの輪に加わってしまった松本に声をかけることはできなかった。
汗だくでもピンと伸びた背中。憎いけど、格好いい。明日からも私たち関係はなにも変わらないだろう。でも「ありがと」とばかりに叩かれた手の重みを私は忘れないだろう。
こうしてクラスマッチは終わった。
最終順位は私の予想通りだった。

