「来週はいよいよクラスマッチです。今日は出場する競技と最後のリレーの順番を決めましょう。クラス委員長の市川さん、司会進行お願いできる?」

「はい」

 六月。配られたプリントに記されていたのはクラス対抗体育大会――別名クラスマッチの内容だ。
 私は無難なバレーに手を挙げた。すんなり決まる。
 問題はリレーの順番だった。学校一周を四十回、クラスの全員が参加することになる。運動が苦手な生徒と得意な生徒をいかに振り分けるかが肝だ。

「順番を決める前にいいですか」

 挙手して立ち上がったのは秋吉くんだ。

「おれ心臓に爆弾があるのでリレーは欠席します。すみません。ソフトボールではしっかりベンチを暖めますので勘弁してください」

 異論は出なかった。
 この前のことがあって、秋吉くんは両親を交えて福留と話をしたらしい。心臓の病気があって激しい運動は禁じられているとクラス内で公表したのはつい先日のことだ。

 市川さんが話を続ける。

「では、秋吉くんが抜けて三十九人。だれかが二周することになりますね」

 すると土屋さんが挙手した。

「もうひとり来ない人がいると思いまーす」

 視線が吸い寄せられたのは私――ではなく私の前の席だ。ここ二週間ほど松本は欠席している。

「松本さんはどうしたんですか?」

 福留が曖昧に微笑んだ。
 松本がこれほど長く欠席したことなんてあっただろうか。記憶をたどっても思い浮かばない。

 私の知っている世界となにかが変わっている。
 すこしずつ、確実に。



「村瀬さんちょっといい?」

 放課後、帰ろうとカバンを担いだところで福留に呼び止められた。両手に抱えているプリントの束と申し訳なさそうな眼差し、イヤな予感がする。

「村瀬さんのお家、西森よね。申し訳ないけれど松本さんのお家にプリント届けてくれない? クラスマッチのことが書いてあるの」

「私が、ですか」

「ごめんなさいね。遅くまで職員会議があって行けそうにないの。村瀬さんは部活をしていないから時間があると思って。親御さんには先生から連絡しておくから」

 ほとんどのクラスメイトは部活に入った。トモちゃんや市川さんは図書委員だけど毎日放課後に図書館で本の整理を手伝っているという。一方の私は秋吉くんの推薦で保健委員にさせられた。保健委員といっても秋吉くんと交代でメダカの世話をするのがほとんどで、それほど忙しいわけではない。

「なになに。お宅訪問? おれも行っていいですか?」

 首を突っ込んできたのは秋吉くんだ。

「ふたりは本当に仲がいいのね」

 福留の笑顔はぎこちない。クラスで悪目立ちしたくない私としてはあまり親しくしたくないけど、彼と話していると気が楽なのも事実だ。

 でもなぁ。
 ちらっと周りを見ると市川さんがじっと私を見ていた。やっぱり敵対視されている。表立って何かしてくるわけじゃないけれど、ちくちくと刺すような眼差しが痛い。早くこの場から離れたい。

「分かりました先生、私一人で行きますから」

 プリントの束を受け取ろうとすると横からさらわれた。秋吉くんだ。

「よし村瀬。ちゃちゃっと餌やってちゃちゃっと行こう」

 自分のカバンにプリントを押し込んでしまう。
 もうどうにでもなれ。諦めの気持ちで教室を後にした。


 ※


「教師って大変そうだよな」

 赤信号で立ち止まった秋吉くんが思い出したように口を開く。

「この前の新聞で教師も長時間労働で大変だって書いてあったんだ。授業のプリント作りに公的機関からの調査、保護者からのクレーム、挙げ句に給食費の回収までやらなくちゃいけないんだってさ。だから村瀬もそんな不満げな顔するなよ」

「してない。だれかさんが勝手についてきたことに怒ってるの」

「こりゃ失礼しました」

 おどける秋吉くん。そもそも彼の家は学校のすぐ近くだ。わざわざ私に合わせて遠回りしなくてもいいのに。

「少しでも体力つけたいんだよ。臨海学習でみんなと泳げるように」

 シャツの袖をまくって腕を見せてくる。中学生男子とは思えないほど白くて骨ばった手首を見てどきっとした。
 タイムトラベル前のこの時期、秋吉くんはもうお骨になっていたのだ。いまは私も知らない未知の時間。

「……そう、みんなと泳げるといいね」

「うん」

 ニッと歯を剥き出しにする。なんだか私の体温が二度くらい上がった気がした。
 
 福留によると松本の住所は東森の一軒家。教えられた地図を頼りに閑静な住宅街を進んでいくと目印の公園が見えてきた。

「ここみたいだな」

 一足先にその家を見つけた秋吉くんが指をさす。家の前には引っ越し会社の名前が入ったトラックが停車していて、おそろいの青いジャージを着た人たちが忙しそうに出入りしていた。私はその人たちの合間を縫って開けっ放しの玄関から中へ声を掛ける。

「こんにちは、村瀬と言います。アズサさんにお届け物があるんですが」

「はぁい」

 少しして家の中から出てきたのは若い男性だ。大学生くらいだろうか。背が高くて体つきがしっかりしている。

「聞いてるよ。アズサちゃん、学校の友だちが来たよ! すぐ来ると思うからちょっと待ってて」

 いえ友だちではないのですが。まぁいいけど。
 しばらくするとバタバタと足音がしてパーカー姿の松本が現れた。私服姿を見るのは初めてで新鮮だ。

「村瀬さんじゃん。どうしたの?」

「これ。先生から頼まれたから」

 プリントを突き出すと意外そうに目を丸くした。

「ああなんだ電話で先生が言ってたクラスの子って村瀬さんだったんだ。わざわざありがとう」

「どういたしまして。じゃあこれで」

 回れ右するが「ちょっと待って」と呼び止められる。

「智史さん、学校の友だちを途中まで送っていくね。お待たせ、行こう」

 先ほどの男性に声を掛けると踵がつぶれたスニーカーを履いて表に出てくる。智史さん、と呼ばれた人は「また来てね。今度はゆっくり」と笑顔で手を振ってくれる。兄妹……という感じには見えないけど、どんな関係なんだろう。

「バタついててごめんね。クラスマッチはちゃんと出るから」

 肩を並べて歩いていた松本が申し訳なさそうに手を合わせた。

「それはいいけど。トラック停まっていたけど引っ越しでもするの?」

「その逆。親の再婚で相手家族が引っ越してきたの。まさかこの年になってお兄ちゃんができるとは思わなかったよ、智史さんっていっていま大学三年生だって」

 苦笑いしながら肩をすくめる。
 思い返せば松本の家庭事情を耳にするのはこれが初めてだ。再婚ということは片親だった時期があるのだろう。我が家と同じように。

「うちの母親、不倫して家を出て行ったんだよ。元々お酒呑むと人が変わったように罵倒してきたサイテーな人だったけど。最後の最後までひどい人だったんだよ。ヒステリックな人見るといまでもびくびくしちゃうけどね」

 私も秋吉くんも互いの顔を見合わせるしかない。笑いながら話しているけどとても大変なことじゃないだろうか。

「でさ、あたし村瀬さんに謝らなくちゃいけないことあるんだ」

「謝る? なにを」

 まさかタイムトラベル前にいじめたことじゃあるまいし一体なにを謝ろうというのだろう。

「気を悪くしないでね。村瀬さんの顔、どことなく元母親に似ているんだ。髪が長かったところも。だから入学式のとき変なこと言っちゃったね。ごめん」

 すんなりと頭を下げられる。

 ありえない。
 ざわざわと心が波立つ気がした。
 松本が私をいじめていたのって母親に似ていたから……だったの?
 ただの腹いせだとしたら私にとってはいい迷惑だ。そのせいでタイムトラベルしているのだから。

 でもいまは。
 松本の家庭のことを知り、こうして謝罪まで受けた。

 そんなことされたら私は。

「……ここまででいい。私、こっちだから」

 居たたまれなくなり、家とは反対の方向に足を向けた。秋吉くんは松本に「じ、じゃあな」と頭を下げてから私を追いかけてくる。
 肩を並べてこそこそと話しかけてきた。

「村瀬どうしたんだよ、なんか変だぞ」

「どうもこうも……どうしろっていうの」

 あんなに憎んでいたのに。
 松本のこと大嫌いだったのに。
 松本も松本なりに大変だったのだと知って「許そう」としてしまっている。私をいじめて自殺に追い込もうとした過去を仕方のないことだと認めようとしている。
 一方で「許してはいけない」と叫ぶ自分もいる。
 あの苦しみを、絶望を、恐怖を、この程度のことで許容していいのかと断固として受け入れない自分だ。

「どうしたらいいのよ……」

 歩くペースが上がる。逃げ出したいのは松本ではなく私自身の気持ちからだ。

「村瀬さん!」

 後ろから足音がしたかと思うと、自慢の俊足で私たちの前に回り込んだ松本がなにか差し出してきた。ペットボトルが二本握られている。

「そこの自販機で買ったの。少ないけどお礼。秋吉くんも」

「おー、さんきゅー、村瀬も。ほら」

 よく冷えたペットボトルを頬に当てていると体の火照りが収まっていく気がした。

「……ありがとう」

「いいよいいよ。来週には登校するから。クラスマッチのリレーはアンカーにしておいて。頑張るから!」

 見たこともないような笑顔に鳥肌が立った。
 松本の声は私の心を波立たせた。強く、激しく。悔しいほどに。