三年後に死ぬ私とアクアリウム教室

 私は秋吉くんを避けるようになった。

 教室で挨拶されても軽く会釈するだけでスルー。必要以上に近寄らず、保健室にも行かず、まっすぐ帰宅する。最初のうちは構ってほしそうにしていた秋吉くんも、徹底して目を合わせない私の態度でなにか察したらしく、距離を置くようになった。

 だれかが「別れた」だの「別の相手と付き合っている」だの噂していたけど聞こえないふりをした。あれ以降目立った形での嫌がらせもなく、私は自分の行動が正しかったと確信していた。
 秋吉くんはいずれこの教室からいなくなる。だからそれまで無関係を貫けばいい。……本当はちょっぴり寂しいけど。

「秋吉、またあのダンスやれよー」
「まかせとけー!」

 男子にムチャぶりされても笑顔で応えている秋吉くん。
 私はまだ彼がいなくなった日のことを思い出せずにいる。


   ※


 五月の連休が明けた。雨だ。この頃になると仲の良いグループが大体固まってくる。

「家族みんなで温泉に行ってきたの。これお土産。良かったら食べて」

 そう言ってトモちゃんからお煎餅をもらった。私とトモちゃんはまだ親友には程遠い関係だ。

「ありがとう大事に食べるね。温泉はどうだった?」

「うんすっごく良かったよ。お湯がまっしろでスベスベだったの」

 楽しそうに思い出話を聞かせてくれるトモちゃんだったけど市川さんに呼ばれて「ごめんね」と行ってしまった。
 私はいつも通り家でダラダラと過ごす味気ない休みだった。だれかにお土産を買ってくることもお土産話を聞かせることもない。

 秋吉くんはどうだったろう。
 一番前の席をちらりと盗み見たけど空っぽだ。また保健室に行っているのかもしれない。ここのところ休みか登校してても保健室ということが続いている。

 具合悪いのかな。
 たまには様子見を見に行こうか、でも自分から遠ざけていた相手を気遣うなんて、とふたつの気持ちがせめぎあっている。

「これ落ちたよ」

 鼻先に手のひらが突きつけられていた。松本だ。驚いて焦点を合わせると名札が乗っている。

「村瀬さんのでしょう、古いけど」

「あ、りがと」

 苦笑いしながら受け取ると安全ピンが手のひらに食い込んでチクリと痛んだ。
 耳の奥でヂーヂー、と音が響く。あの音だ。


(――秋吉くんが……!)


 唐突に声がする。
 切羽詰まったような自分の声だ。
 なに、なんなのこれ?
 困惑しつつも私は無意識に黒板の日付を見ていた。

 ――五月六日、水曜日。
 三年前のこの日も雨のせいで朝から肌寒くて、まるで一足先に梅雨がきたのかと疑いたくなる日だった。

「みなさん聞いてください」

 教室に顔を出した福留がこう告げた。

「次の体育の授業ですが雨のため体育館で創作ダンスをします。遅れないよう集まってくださいね」

 雨。体育館。創作ダンス。
 あぁそうだ今日は。


(救急車を。早くしないと、秋吉くんが……!)


 私を急かす、私の声。

「止めなくちゃ!」

 思いきり立ち上がったせいで椅子が後ろの席にぶつかってしまった。後ろの席の男子に謝罪してから秋吉くんを探すと、出ていく福留と入れ違いに教室に現れた。あくびを噛み殺しているけど寝癖がひどい。ずっと保健室で寝ていたのだろう。

 急いで駆け寄ろうとしたけど、複数の男子が先に秋吉くんを取り囲んでしまった。

「おまえ授業サボってばっかりだなー」

「悪いな、おれ勉強できちゃうもんだから授業免除なんだよ」

「そんな寝癖で言っても説得力ねぇし」

 口調は軽いものの言外に非難しているのが分かる。長くて退屈な授業をサボれる秋吉くんはズルいように見えるだろう。

「次の体育はダンスだってさ。秋吉、アレやれよ。動画サイトで流行ってるあれ」

 いまSNSで流行っているダンスは激しく全身を動かすものだ。『道化』の秋吉くんも困惑したように眉をひそめる。

「あれはちょっと難易度高いなー」

「いいからやれって。絶対だからな」

 有無を言わせぬ口調で念押ししてから男子たちは離れていく。残された秋吉くんは困り顔を浮かべたものの、着替えるため更衣室に向かう。私はその背中を追いかけて肩を叩いた。

「秋吉くん、次の体育は休んだ方がいいよ」

 驚いたように振り返った秋吉くんは一瞬立ち止まりかけたけど構わず歩き続ける。

「なんだよ、いままで無視してたくせに馴れ馴れしい」

「無視していたことは、ごめんなさい。でもこれはすごく大事なことなの。今日、体調悪いんでしょう。ここ数日入院していたんでしょう?」

「なんで知って……もしかして」

 なにかに気づいた秋吉くんがスピードをゆるめた。

「入院していたのは事実だけど、もう平気だ。雨の日に具合悪いのはいつものことだし、薬も飲んでる。だから」

「だめ! 全部思い出したの。どうしてあんな大事なことを忘れてたのか……忘れたかったのかもしれない、それだけショックだったの。怖かったの」

 三年前の五月。寒々とした体育館のステージでおどけて踊る秋吉くんの姿を覚えている。男子はみんな大笑いしていたっけ。
 ひとりだけ強制的に踊らされる姿は気の毒だったけど、本人が笑っているのだから私だって笑っていいんだと思っていた。
 十数分にわたって延々と踊り続けた秋吉くんは満足そうにステージをおりた。ちょうどチャイムが鳴ってみんな教室に戻ろうとしたとき――ドン、と音がした。と同時にだれかが叫んだのだ。『秋吉くんが倒れた。救急車を』と。

「秋吉くんはこのあとのダンスで無理して倒れちゃうんだよ。救急車が呼ばれて大変なことになるんだから」

 鼻がツンと痛くなる。

「そのまま入院することになって、クラスのみんなで千羽鶴を折ったの。代表して男子数人がお見舞いに行ったよ。入院中の秋吉くんは顔色も良くてもうすぐ退院するらしいって聞いてみんなが安心していた矢先、福留先生がホームルームで言ったの」

 目を真っ赤にした福留が入ってきた瞬間、私たちは本能的にイヤな予感を察した。
 ふざけていた男子たちもすぐ席に着き、肩を震わせる福留の言葉を待った。

『とても悲しいお知らせがあります。今朝早く秋吉瑛人くんがお亡くなりになりました』

 祖父母の葬儀を経験していた人はいたけれど、同い年の、同級生が死んだという信じがたい事実――。
 静まり返った教室の中に、すすり泣く声が聞こえた。

「秋吉くんはずっと心臓の病気と闘っていたって聞かされた。お葬式にはクラス全員で参列したよ」

 立ち込める線香のにおい。遺影の中で笑う秋吉くん。泣きじゃくる声。ほとんど知らない人なのに私も涙があふれていた。
 こんなにハッキリ思い出せるのに、どうして忘れていたんだろう。

「みんな泣いていた。私、秋吉くんとほとんど喋ったことなかったけど、遺影を見ていたら急に涙が出てきたの。よく知らない人で、悲しいわけでもないのにハンカチがグチャグチャになるくらい泣いたの。だからもしいま秋吉くんがそんなことになったら――」

 着替えを終えた同級生たちが私たちの横を通り過ぎていく。花岡さんに土屋さん、松本、男子たち……好奇の目線を受けてずしりと胸が重くなったけど、いまは秋吉くんを引き留めたい気持ちが勝った。

「私は自分勝手な人間だよ。自分を守るために秋吉くんを遠ざけた。でもウソは言わない。お願いだから信じてよ」

 ここで手を離したら絶対に後悔する。それだけは嫌だった。

「お願い。これだけは……信じて……」

 目蓋が熱くなって涙があふれてくる。

「……もういいから」

 ぽん、と肩を叩いた秋吉くんがそのまま手を挙げた。

「ちょうどいいところに。福留先生、すみません」

 廊下を通りかかった福留が駆け寄ってくる。

「どうしたの? もうすぐ次の授業がはじまるわよ?」

「それなんですけど、村瀬さんが体調悪いみたいなので保健室まで連れて行きます。ついでに体育の授業も休みます」

「え……それなら先生が村瀬さんを連れて行きましょうか? 秋吉くんは久しぶりの授業でしょう」

「いえ、おれが連れて行きたいんです。村瀬が一緒にいてくれって」

 と、私の手を握りしめてきた。福留は驚いたように私たちの顔を交互に見比べていたけれど、焦れた秋吉くんが「じゃ、そういうことなので」と私の腕を引いて歩き出した。

「ということで授業をサボることにしたから、村瀬も付き合えよ」

 承知するよう小声で促してくる。
 手をつないで廊下を歩くなんて、まるでカップルだ。だけど敢えて振り払わなかった。

「サボるのはいいけどカップルになるつもりはないからね」

 鼻をすすりながらも念を押しておく。

「安心しろ、おれもそういうつもりじゃないから」

 前を歩く秋吉くんは鼻歌を口ずさんでいる。

「あれだけ目立ったら必然的に噂を立てられるだろうな。だから頃合いを見計らって別れたことにすればいいさ。おれは楽しく生活できればいいや」

「ひどい。私の苦労も知らないで」

 もういい。泣いたせいか目蓋が重いから、このまま保健室のベッドにダイブして熟睡してやる。後のことは後で考えよう。

「なぁ村瀬」

「なに」

 恥ずかしいから早く行きたいのに秋吉くんはわざとゆっくり歩いている。

「今日、本当はダルくて仕方なかったんだ。次の授業が終わったら帰ろうと思っていたくらい。村瀬がタイムトラベラーで良かった。死後の貴重な話も聞けたし。ありがとな」

 そんなふうに感謝されると、もうなにも言い返せない。

「いいからもっと早く歩いてよ。恥ずかしい」

 私は秋吉くんを追い抜いて逆に引っ張る立場になった。こんなにゆっくり、これ見よがしに歩かれたらたまらない。
 保健室に向かうため階段に踊り場にきたとき市川さんと出くわした。私たちの姿を認めた途端、凍りついたように固まる。そんな市川さんに秋吉くんは呑気に声を掛けた。

「あぁ市川、おれ保健室まで村瀬を連れて行くからよろしくな」

 市川さんは答えない。
 隣にいたトモちゃんが心配そうに顔を覗き込んでいる。

 すれ違おうとした刹那、ぎろっと私をにらみつけてきた。

「……ブス」

 まるで鬼のような形相だ。