わたしは最後の賭けに出ることにした。
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何度目かわからない乾杯。
わたしたちにとって、いつもと同じ居酒屋。
だし巻きたまごが名物で、お通しがキャベツで、生ビールが299円で飲める安居酒屋。飲み放題は1680円。
わたしたち倉ゼミがいつも二次会で利用する店だ。
だけど、グラスを重ねるたびに「結芽、がんばれよー」って言われるのはいつもと違う。
激励をハイボールと一緒に飲むこむ。喉の奥が少し熱くなって、わたしの決意も高まる。
先輩たちが言う、この「がんばれよー」の意味は「俺たちがいなくなってもやっていけよー」とか「これからも健康に生きろよ」みたいなやつなんだけど、今夜の勇気エネルギーに使わせてもらってる。
今夜はみんなまんべんなく話したいんだと思う。先輩たちが代わる代わるやってきて、そのたびに何度も乾杯をした。
「結芽、時間大丈夫?」
何十回目かわからない乾杯をしたわたしの肩をつついたのは、周先輩。先輩はそのままわたしの隣に座った。先輩のさらりとした黒い長めの前髪が揺れて、わたしのレモンハイの氷がカランと溶けた。
先輩の視線の先にある時計は二十三時前をさしている。大学の最寄り駅から一時間かかる実家から通うわたしは、みんなより終電が早い。
いつもよりお酒のペースが早いわたしが時間を見逃していないか、気遣って声をかけてくれているんだと思う。
「大丈夫です。今日先輩たち最後なんで。いとこんちに泊まるつもりなんです」
「ならいいけど。結芽はこっちにしといたら」
左でわたしのジョッキをやんわりと掴み、机の上にあったウーロン茶をわたしてくる。
「今日は飲みたい気分なんですよ。はい、かんぱーい」
わたしは自分のジョッキをしっかり掴んで、周先輩のハイボールのジョッキにかちんと当てた。周先輩とする乾杯だって、もう五回目だ。
「はいはい、乾杯」
だけど何度でも付き合ってくれるのは、ここで薄いハイボールを飲むのが今日が最後だからだ。
「どれくらい荷作り終わりました?」
「ぼちぼち。……やっぱ酔ってるよな。それもう聞くの三回目」
「違いますよ」
――やっぱり行くのやめることにした。
そんな奇跡起こらないかな、て何度も質問してるだけ。何回聞いても、当たり前に答えはおんなじだったけど。
「はい、没収」
「いやですー」
奪われたジョッキを奪い返して、わたしは一気にそれを飲み干した。喉の奥は熱くならなくて、かわりに鼻の奥がつんとした。
「そんな強くないんだから」
「ここのチューハイ薄いんですよ。わたしワインにしちゃお」
わたしは注文パッドを取ると、先輩が口を挟む暇もないうちに注文ボタンを押した。お酒なんてどれでもいい、手早くアルコール数だけは確保できる薄まってないお酒。
だって今日は、酔わないといけないんだから。
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二月下旬の外気が、熱された身体を急速に冷やす。
重い頭をコンクリートの壁につけると、頬にアイスが当てられたみたい。
誰かが声をはりあげているけど、水の中にいるみたいに、うまく音が聞こえない。
「――行く人」
ああ、たぶん。三次会の出席確認だ。さっき居酒屋を出て、みんなで狭いエレベーターに乗って、ビルの下で集まっている。
名残惜しくてすぐに帰りたくないひとも多いだろうからカラオケを予約しておくって同期の尊が言ってた。ぼんやりとした視界の中で手が何人も挙がるのが見える。
ゆらゆらと身体が揺れて、頭の中はふわふわしてる。
これくらいになっておかないと、最後の瞬間を迎えられる気がしなかったんだもん。仕方ないよね。いいわけしながら、わたしはその光景をぼうっと見守る。
「結芽、がんばれよー」
また先輩たちが言った。手を挙げなかったわたしと、カラオケに行く先輩たちの別れが訪れる。もうこうしてみんなで集まるのは最後かも。その悲しみはぼやけた頭の中でもわかる。
わたしは目を閉じながら、先輩たちの言葉にうんうんと頷いて歯を見せて笑顔を作る。先輩たちも今日はいつも以上に酔っぱらっていたから、わたしが相当酔っぱらってることにも気づかない。私は手をひらひら振って見送った。
頭はぐらついて思考はほとんど停止してるけど、心臓だけは早鐘を打っている。これはアルコールのせいじゃない。
……おねがい。
ぼやけた視界では、周先輩が手を挙げたか確認できなかったから。
「結芽、大丈夫?」
だから周先輩の低い声がきこえたとき、わたしはもう涙が出そうだった。
「せんぱい、カラオケは?」
自分で思っているより、お酒は回っているらしい。ろれつがほとんど回っていない。こんな舌足らずの自分の声ははじめて聞いたかも。
「俺は元々行くつもりじゃなかったから。送ってく」
「でも、」
「ふらふらだよ。だからやめとけって言ったのに」
「すみません」
心臓はまだどきどきと音を立てている。
――賭けに勝った。
「いとこの家ってどこらへん?」
「いとこ、むりになっちゃいました」
「え?」
「予定入っちゃったみたいで」
「結芽の終電は……もうないか」
「はい」
わたしは周先輩の手の先に触れた。触れてみて気づく、わたしの手が相当熱を帯びていることに。わたしは冷たい先輩の手を握ってみる。
「先輩の家、行ったらだめですか」
一世一代の勇気と賭けだったからか、その言葉は妙にはっきりしてた。
周先輩の表情をなんとか確認する。ちょっとだけ困った顔をしてから
「まあ、それしかないよな」
ぽつりと言うと、先輩は手をつないだまま歩き始めた。
先輩、困らせてごめんなさい。
でも十五人の仲間のひとりとして最後の夜を終わらせたくなかった。
✦
何度かみんなで先輩の家で宅飲みをしたから、三階建てのアパートには何回かお邪魔したことがある。いつもの居酒屋から大体十分くらい。
大学の最寄り駅近くは居酒屋が立ち並び、夜中でもそれなりに人はいるけれど、一本外れると閑静な住宅街だ。
わたしと先輩以外に人はいなくて、街灯の明かりだけがわたしたちを照らしている。
まっすぐ歩いているつもりだけど、少し足がもつれる。そのたびに繋がれた手がぎゅっと握られる。これは甘いものではなくて、介護とか育児とか、そういうのに近いけど、それでも胸がきゅっと締まった。
今さらながら、なんて大胆な賭けに出たんだろう。
ゼミに入ってすぐに好きになって一年弱。
勇気を出すタイミングなんて、何度でもあったし、こんな大きな賭けに出るくらいならもっと小さな賭けをしてもよかったのに。
先輩は優しいから困らせてしまう、ゼミ内できまずくなったらどうしようとか、そんなことを考えているうちにあっという間に四季なんて過ぎるんだから。
わたしの手を引いている周先輩は空を見ながら歩いていた。
なにを考えているんだろう。というか、普通に迷惑だったよね。そんないろんな考えはアルコールのせいでぼやけていて、先輩とまだいられる浮遊感に変わる。
「コンビニ、寄る?」
五分歩いて周先輩が質問した。以前宅飲みしたときに途中で買い出しに行ったコンビニだった。あのとき周先輩が買い出しに行くって言ったから、わたしは慌てて「アイスが欲しいからわたしも行きます!」と叫んだんだった。
あのときだって、二人きりだったのに。
周先輩はコンビニに入ると、まっすぐにドリンクコーナーに向かってミネラルウォーターを買った。言うまでもなく、わたしの酔いを冷ますものだった。
「もうちょっと飲んじゃだめですか?」
わたしはもう少しアルコールに助けてもらうことにした。わたしがカゴにチューハイを入れることに周先輩は文句を言わなかった。
「あ、これ先輩が好きなやつだ」
焼きあご明太をカゴに入れると、先輩はようやく笑顔を見せてくれた。
「よく覚えてたな」
「これ、他のコンビニには売ってないんですよ」
「結芽はこれだろ」
周先輩がたまねぎせんべいをカゴにいれるから「ふふ」と声が漏れる。ひとつ覚えてくれているだけでこんなに嬉しい。
「洗顔とかは? 買う?」
アルコールとおつまみをカゴに入れた先輩は、日用品コーナーに進んだ。
洗顔。
……そうか。自分が先輩の家に行きたいと言ったんだ。終電はもう逃しているし、そりゃもちろん泊まる、ということだ。
「そ、そうですね。そうします」
わたしは洗顔セットとそれから下着を買っておく。現実的なラインナップに決意がへこたれそうになってしまう。
でも、最後なんだから。ここまできたらがんばるしかない。
最後だという緊張と、寒空を歩いたことで頭が冷えてきてしまっていた。お酒を買っておいて正解だった。もう少し勇気を加速させたい。
コンビニを出ると、冷たい風が吹いてわたしはコートに顔をうずめた。
「寒い?」
「ちょっと」
「はい」
周先輩はコンビニの袋を右手にもって、左手をわたしに差し出した。
「えと、」
「ふらふらしてて、危ないから」
繋がれた手は少しだけ熱い。
わたしの足はもうふらついてない、だけど言わなかった。
✦
周先輩の家は三階にあって、エレベーターはない。外階段をのぼるたびに、身体の温度が高くなる気がする。
だけど、玄関の扉を開いてその熱は一気に引いた。
そこはわたしの知っている周先輩の部屋じゃなかったから。
周先輩の部屋は、1Kで廊下に狭いキッチンがあって、その奥にワンルームがある、大学生の一人暮らしの典型的なアパートだった。
狭いキッチンながら、自炊はけっこうするらしくてフライパンとか鍋が壁にぶらさげてあって、おたまやフライ返しの調理器具が空き瓶に突っ込まれていた。塩コショウも味の素も百均のラックに並んでいて。
でも、今日のキッチンはそれらは何一つ存在しなかった。
焦る気持ちをおさえて部屋に進む。
三回しか来たことはないけど、先輩の部屋はすぐに頭に思い浮かぶ。
ネイビーの寝具のシングルベット。アイアンフレームの棚に小さなテレビと、先輩の好きな漫画が巻数ばらばらに並んでて、その漫画の食玩がテレビの近くに飾ってあった。みんなで鍋を囲んだミニテーブル。ごろ寝に使える大きなクッション。
それが周先輩の部屋だった。
だけど、ベッドだけが存在していて、それ以外はがらんとしていた。
代わりに目立つのは段ボールの山。
「ぼちぼちどころじゃなくないですか」
「明日、引っ越すから」
「え、卒業式は?」
「その日だけまた来る」
周先輩が遠くに行ってしまう。それはわかっていた。だけど、まだ猶予はひと月くらいはあるのだと思っていた。
「ベッド以外の家具は?」
「もうぼろいから処分した。向こうで買う」
「そ、そうなんですね……」
動揺して酔いなんて完全に冷めてしまった。
先輩は段ボールを一つ持ってきて部屋のまんなかに置くと、段ボールの前に座った。
「散らかってて悪いけど」
「いえ……わたしが無理やりお願いしたんで」
わたしは先輩の隣に腰かけた。ビニール袋から缶のお酒とおつまみを並べていく。
「食器もなくて、直飲みで悪いけど」
「いつもそうだったじゃないですか」
「そうだっけ」
わたしは缶のプルをあけて、先輩に傾けた。缶がぶつかる。
わたしたちの肩の距離は缶ひとつぶん。
「引っ越し明日……なのに、迷惑じゃなかったですか」
「俺も最後の夜はもうちょい飲みたかったし」
さっきコンビニで見た時刻は十二時を回っていた。
「わたしのせいで、カラオケいけなくなりました?」
「全然。オールからの引っ越しはきつい。宅飲みがちょうどいいよ」
「それは、そうですね……」
レモンチューハイがしゅわしゅわと喉を通り苦しくなる。すっかり落ち着いてしまった酔いをもう一度復活させないと。
周先輩が明日、行ってしまう。
いままで勇気を出せなかったことがほんとうにいやになる。
周先輩はここから何時間も離れた、北の方に行ってしまう。
それがせめて東京とかなら、私も一年後の就職先を東京に選んでも良かった。
久しぶりですね、なんて後輩のまま飲みにいくことくらいはできたかもしれない。
だけど、周先輩は自身の地元で就職することを決めた。
たまたま就職のエリアが被りましたね、なんていいわけができないような地域に。ここでもまだいいわけを探して後輩ポジションにおさまろうとする自分が情けない。
もしも先輩に付き合ってって言われたら、どんな場所だってついていく。雪かきはしたことないけど、朝二時間早起きしてがんばれる、と思う。
でも好きも、一緒に行きたいも、言えなかった。
だから勇気を振り絞るのが、こんな捨て身の最終決戦になってしまったのだけど。
「結芽、一気はやめとけって」
「今日は飲みたい気分なんです」
「まあそれは俺もそうだけど」
周先輩はハイボールをもうひと口飲んだ。
「てか寒いよな。ちょっと待ってて。エアコンのリモコンしまっちゃって」
「いいです」
山積みの段ボールに向かおうとする周先輩の手を引っ張った。周先輩がわたしを見下ろして、その顔がもうやだな、大好きだなって思う。
「お酒飲んだら、あったまりますよ」
「結芽の手、冷たいよ」
引っ張った手を、周先輩が両手で確かめた。
「先輩の手、あったかい」
わたしに引っ張られる形で、先輩は座り直した。
わたしたちは向き合っていて、いままでで一番距離を近く感じる。だってこんなふうにふたりになることなんてなかったから。
「せんぱい」
両手をつないだまま名前を呼んだら、またふにゃふにゃの声が出た。よかった、お酒のせいに出来る。
周先輩がわたしの顔をうかがうようにじっと見た。
当たり前にキスは落とされなくて、かわりに鼻をつままれた。
「いたい」
「酔いすぎ」
「酔ってないです、そんなに」
周先輩はたちあがると、段ボールの山のもとに向かった。一番上の封がされていない段ボールからタオルをひとつ取り出して、わたしに投げてよこす。
「シャワー浴びてきたら?」
タオルをキャッチしたと同時に、身体が固まる。……それはどういう意味で。
「酔い、冷めるんじゃない?」
「そうかも、です」
座り直した周先輩は、わたしから顔をそむけて缶に口をつけた。
✦
水音が聞こえる。わたしは周先輩の匂いにつつまれたスウェットを着て、三本目のチューハイを一気に半分飲んだ。
周先輩がシャワーから戻ってくる前に、酔わないと。
じゃないと、できない。なんにも。
焦りながら、一口二口と飲む。炭酸が喉につまるし、おなかはけっこう苦しい。
なんでチューハイを選んじゃったんだろう。全然酔っ払える気がしなくて、焼酎とか日本酒とか、いろいろ選択肢はあったのに。もう三十分前に戻りたい。
どうでもいいタイムリープを考えていると、がたりと音が聞こえた。
先輩が部屋に戻ってくる音がする。スマホを確認すると、時刻は一時になろうとしていた。朝がくるまであと何時間? わたしは慌ててもう二口飲んだ。
「全部飲んだの?」
タオルで髪を拭きながら、周先輩は段ボール机の上に置かれた缶の数を確認した。酔えなかった三つの缶。
わたしは自分がぴんとした背筋で座っていることに気づいた。全然酔っ払ってる感じに見えない。慌てて背中の後ろにあるベッドにもたれかかる。
「はい、のみました」
「明日頭痛くなるよ」
「ですよねー」
周先輩は隣に座ると、わたしの前髪に触れる。
「ごめん、ドライヤー見つからなくて」
「全然ですよ」
わたしの濡れた前髪を先輩がつねると水分が漏れる。先輩は持っているタオルでわたしの髪の毛をわしゃわしゃと拭いていく。
「もうこれで大丈夫です」
「やっぱリモコン探すわ。さすがに風邪引く」
「じゃあ、あっためてくださいよ」
わたしが両手を伸ばすと、周先輩はベッドから毛布をずりおろして、わたしにぐるぐる巻いた。
「どう?」
「……あったかいです」
「だよな」
周先輩が目を細めると、猫みたいな目になる。この切れ長の目が大好きだった。
……だった、てなんだ。
まだ今夜は終わらないんだから。
「周先輩のハイボールもらってもいいですか」
「これは俺の。結芽のはこっち」
周先輩はミネラルウォーターをわたしのほっぺたにくっつけた。
「寒いんです」
「布団もまいてやろうか」
「周先輩の地元は寒いですか」
「うん」
わたしも就職先はそこを目指したらだめですか。それは口から出なかった。
ここに来るまでの過程で勇気は使い果たしてしまっている。残りの勇気もさっき二回くらい使ってしまっているし。お酒は全然助けになってくれないし。
「先輩、会いに行ってもいいですか」
うつむくと、床に置いてある先輩の左手とわたしの右手が目に入る。
その距離はたった数センチしかない。
なのに、明日には周先輩は何百キロも離れてしまう。
もう触れることなんてできない。
先輩の左手に自分の右手を重ねてみる。
周先輩は右手で缶ハイボールを飲んだまま、なんにも言わなくて手を振り払うことも、握ることもしなかった。
「嫌だったら、言ってください」
「嫌じゃないよ」
周先輩がわたしのことを見た。わたしを見下ろす瞳は真剣だったけど、どういう感情を持っているかわかんなかった。熱があるように見えたのは、自分に都合のいい解釈だと思う。
「結芽、今までありがとうな」
「最後みたいですね」
「まあ卒業式では会えるか」
でもこうしてふたりきりで喋るのはきっと最後ですよね。
それは言葉にならなかった。
「せんぱい」
声がふるえる。わたしは先輩に向き直る。
「さ、最後にキスしてくれませんか」
顔から火が吹くとはこのことだ。アルコールはまったく残ってなくて純粋に羞恥心で体温が高い。
周先輩はあきれたように眉をひそめると、
「あのなー。酔ったからってそういうのはやめとけよ」
ベッドの上に無造作に置かれていた布団までわたしに巻きつける。
「俺は倉ゼミ一番の紳士だから、なんにもしないだけだからなー」
「せんぱい」
「大学一かも」
周先輩はわたしの顔をみてくれない。
「周先輩っ」
酔いなんてまったく感じられない焦った声が出た。
「わたし、先輩がすきで、最後に思い出が……」
言葉にして、ますます恥ずかしい。
最後の思い出ってなに?
自分に対しての嫌悪と恥ずかしさでますます顔が熱い。
「ごめん、暑かったか」
周先輩はぐるぐるまきにした布団を簡単にほどいた。
「せんぱい」
「付き合ってないのにそういうのはよくないよ」
「付き合ったらいいんですか?」
めちゃくちゃな方程式に先輩が顔を上げた。先輩の顔は少し険しくて、彼女がいないなら最後に……と思った自分が本当に恥ずかしくなる。
「ご、ごめんなさい。き、きもちわるいですよね。酔っぱらってるみたい、わ……わすれてください」
必死な涙声を消すようにパタパタと手で仰ぐ。告白をかきけすみたいに。
「結芽のこと、大切だから俺」
目障りなわたしの手を、周先輩がつかんだ。
「ありがとうございます。……後輩として、そう思ってもらえるだけでも、うれしいです」
「そういうんじゃない。他の人とはちがう。結芽のこと特別に思ってる」
周先輩がやっとわたしのことを見た。
「じゃあ――」
「だから、しない」
「どういう」
「思い出にできなくなる。ここに未練残していくの嫌だから」
特別だと言うくせに、周先輩の瞳は明確に拒絶を感じる。
「だからこのまま、先輩と後輩で別れたい」
「どうして、」
問いかけて言葉が詰まる。
だって、わたしは好きだと真正面から言えなかった。
わたしだって最後まで先輩と後輩でいようとした。
思い出にしようとしてしまった。
周先輩のことが死ぬほどだいすきで、世界の果てまでついていけちゃうって言えなかった。
好きという言葉をお酒でごまかした。
周先輩につかまれていたわたしの手が解放される。
「好きって、もっと早く、例えば半年前くらいに言ってたら違ってましたか?」
「うーん、まあ、どうだろう」
「そこは違うとか、違わないって言ってくださいよ」
今度こそほんとうにタイムリープしたくなるじゃないですか。
半年前にでも気持ちが繋がっていれば、距離があっても大丈夫。お互いにそう思えたかもしれない。ううん、一週間でも前なら、もしかしたら。
周先輩も一年後に俺のもとにきてって言ってくれたかもしれない。
だけど、今のわたしたちはまだ引き返せてしまう。
喉が苦しい。言えなかった一年分の好きがいまさらせりあがってきて、苦しい。
「周先輩、優しいから流されてくれると思ったのに」
周先輩はあははと軽く笑った。
「ほんとに優しかったら家に連れてきてない。一緒にカラオケに行ってたよ。覚悟もないくせに俺が結芽とまだいたいと思っただけ」
「ずるいですよ」
「ごめん」
それでも、特別だと言われたことがうれしい。
わたしの一世一代の勇気は使いどころを間違って失敗してしまった。こんなところで使うんじゃなかった。
甘い喜びが呪いみたいに喉をずっと絞り続けている。
「酔いも冷めたことだし寝るか」
先輩は立ち上がって、壁にたてかけられた使っていない段ボールを床に敷いた。
「俺、ここで寝るから。結芽はベッド使って」
「だ、だめです。先輩がベッド使ってください」
「いやいや」
「ほら明日、引っ越し大変ですよ! 身体バキバキになっちゃいます!」
「はは、バキバキて。さすがに女の子床に寝かせられない」
「じゃあ一緒に寝ますか? ……なんにもしないですから」
「なんにもしないって」
周先輩は声を出して笑ってから、降参したのかごろんとベットに転がった。
「どうぞ」
「失礼します」
わたしたちは隣に寝転んで天井を見つめた。
備え付けのライトは前来たときと変わらなかった。
「周先輩。もし、万が一、一年後もわたしが先輩のこと好きだったら、どうしますか」
「未来のことはわからないよ」
「好きでいてほしいとは言ってくれないんですね」
「言えないだろ」
「今日の先輩、なんかちぐはぐですね」
「ださいよな。突き放すなら突き放せよって」
「でも、誠実でいてくれてますよね」
「……どうなんだろう」
嘘はつかないから。
周先輩は「ほんとに寝るか」と言って、ベッドを抜け出し電気を消した。
戻ってきた先輩は、ごろんと壁の方を向いた。
背中まで愛しくて、涙がにじむ。
こんなに好きなのにわたしは「離れても変わらず好きです。遠距離でも大丈夫です」が言えない。自信がない。
そんなわたしに周先輩も気づいてる。先輩も同じなんだと思う。
二人で恋を始めるには遅すぎた。
「周先輩、抱きしめるのはいいですか。それならギリ後輩でもいけますよね」
「ギリギリアウトだと思うけど……」
そう言いつつも先輩は寝返りを打ち、わたしに向き合うと背中に手をまわした。ほんのすこし頭を浮かせて、わたしの頬は先輩の左腕に着地する。
すっぽりと包まれると、なんとか我慢していた涙がこぼれて、先輩のスウェットの胸部分をしめらせる。
「ごめんなさい。酔っぱらってて」
「コンビニくらいから酔い冷めてただろ」
「ばれてましたか」
「ごめん、気づかないふりしてた」
「先輩ずるいなぁ、ほんと」
見上げると、先輩は目を細めて笑っていた。
五秒見つめ合って、先輩はたぶんキスのかわりに、わたしの頭をかきまぜた。まだほんのすこしぬれている髪が、先輩の指にからまって、ああやっぱり思い出にしなくてよかった、て思った。
✦
朝は来る、どうしたって。
七時に周先輩のスマホが鳴って、引っ越し会社からの着信だった。
午前中指定にしていたら、朝の八時からに決まったらしい。
「ごめん、こんなバタバタな見送りで。駅まで送らなくてほんとうに大丈夫?」
「こっちこそ気遣ってもらってすみません。むしろなにか手伝いましょうか?」
「いや、もうあとは布団を袋につめたり、細かいものいれるくらいだから」
「そ、うですか」
いよいよ本当にお別れだ。次会うときは卒業式。本当に先輩と後輩として、ゼミのみんなと写真を撮るくらいかも。
心も足も部屋から出たくないって言うけど、これから周先輩は最後の荷造りだ。タイムリミットはあと一時間、邪魔なんてできない。
時間制限があってくれてよかった。
わたしは借りていたスウェットを脱いで、昨日着ていた酒臭い服に着替える。カバンを持ってしまったら、あとはでていくだけだ。
「じゃあわたし、帰ります」
「うん」
玄関まで先輩が見送りにきてくれた。
えりあしに寝癖をつけて、まだ眠いのかあくびをひとつ。そうだ、先輩は朝に弱いんだ。
「お元気で」
「結芽も」
本当に最後だ。わたしは先輩と向き合う。
やっぱりキスくらいしてほしかったな。そう思って見上げると先輩は一歩距離を縮めた。
周先輩の手が伸びてきて――またわたしの髪の毛をかきまぜた。
「やめてくださいよー、これからわたし電車に乗るんですからね」
「ごめんごめん」
でも先輩はやめなくて、わたしもされるがままになっていた。こんなスキンシップはいままで一度もなかった。
わたしたちは一年ほんとうにただの先輩と後輩だったんだ。
手をつないだのだって、昨夜がはじめてだった。
これは〝先輩と後輩〟としての最上限。
優しくてずるい周先輩が伝えてくれる最後の「好き」な気がしたから、電車に乗れないくらいのヘアスタイルになっても、いい。
やめてくださいよ、と笑いながら目尻に涙がにじむ。
「じゃ、ほんとにいきます」
「うん」
「道中気をつけてくださいね」
それだけ言うとわたしは扉を開いた。
扉の先は、少し早い春だった。朝は春に似ている。
白い光がまぶしくて思わず目を瞑ったら、涙がひとつこぼれた。
ふりかえらない。
外階段を響かせながら、段差をおりるたびに涙がこぼれる。
思い出にできなかった。
まだこんなにも周先輩が好きで、大好きで、思い出にしてくれなかった周先輩はほんとうにずるい。やっぱり周先輩は優しくない。
階段を下までおりて、ようやく振り返る。
周先輩の姿は見えない。
わたしももう振り返らない。駅までの道は覚えている。
朝の冷たい空気が、頬に刺さる。
「もう、頭いたい。飲みすぎたー」
ひとりごとは、強がって震えて、だけどまぶしい朝によく似合った。



