0:17。たった今、階段ですっ転んだ私を置いて、最終電車が発車していった。
「…最悪」
本当は終電なんかに乗らなくても、定時で帰れたはずなんだ。
それなのに、周りの圧に負けて参加した会社の飲み会で、お会計の集計をしたり酔っ払いたちの代わりにタクシーを捕まえてあげたりしているうちに、気づけば終電五分前になっていた。
慌てて駅に向かって全速力で走り、ホームに続く階段を駆け下りているところで足を滑らせ転倒。
幸い、数段から落ちただけで怪我はないが、たった今私を置いて最終電車が発車していき今に至る。
タクシーを捕まえたところで急な飲み会でお財布の中はすっからかんだし、家まで歩いて帰ろうにも頑張って二時間とかはかかる。
言いたいことも言えず、断ることができなかった私の自業自得なのだろうか。
「…あれ?もしかして、蒼依?飯村蒼依だろ?」
「…え?」
とりあえず迎えにきてくれそうな人がいないか、ホームの椅子に座りながらスマホをいじっていると、ふと上から声をかけられた。
「…橙里?」
そこにいたのは、高校の頃から何も変わらない、柔らかそうなふわふわの髪の毛、二重のくりくりとした瞳、犬歯で少し幼く見える人懐っこそうな笑顔を見せる橙里だった。
「うわー久しぶりだな!高校卒業以来じゃん!」
「あ、うん、本当、久しぶり」
「おいおい、なんだよその薄い反応は。俺らマブだっただろ?もっとこの再会に感動しろよ」
いや、そんなこと言われたって。
突然すぎて私だって頭がついていかないのだ。
橙里とは高一の秋学期に隣の席になったことがきっかけでよく話すようになり、いつメンであった男女八人グループの中でも一番仲がよかった。
二年生になってからはみんなバラバラのクラスになって集まることもなくなり、私も新しい四人組の女子グループでいたけど橙里とはなんの縁なのか三年間クラスが一緒で高校卒業まで変わらずたまに話す関係であった。
それも、高校を卒業してからは一度も会っていなかったけど。
「てかこんなところで何してんの?蒼依の最寄り、もっと先だろ?」
「あー、会社の飲み会でこっちまで来てて。色々あって終電逃したんだよね」
「へぇ。俺の職場は二駅先の小学校で、今はこの辺で暮らしてんだよね」
「そっか、ちゃんと教師になれたんだね」
「まあなー」
橙里から教師になりたいという話を高校生の頃に聞いていたけど、小学校の先生になったことは今初めて知った。
たしかに一番橙里らしい選択な気がする。
「ちょっと。なんで隣座ってくるの?」
最寄りがここならさっさと帰ればいいのに、なぜか橙里は空いていた私の隣に腰掛けてきた。
「んー暇だし?終電を逃した蒼依と十年ぶりの再会なんて、これも何かの縁だし久しぶりに話そうぜ」
「あんたね…終電を逃した私を面白がってるでしょ?」
「あ、バレた?」
ケラケラと楽しそうに笑う橙里の肩をバシッと叩く。
本当、あの頃と何も変わってない。
私を馬鹿にしている時が一番楽しそうな、ムカつくけどずっと好きだったこの笑顔。
「で、蒼依は?なんの会社で働いてるの?」
「私は広告系。最近は大きな仕事も任せてもらえるようになってきたんだ」
「おー!たしかに蒼依、文化祭とかのパンフレット作る係に任命されてたくらい、チラシとか作るのうまかったもんな」
私が作った文化祭のパンフレットも、友達に頼まれて作った部活勧誘のチラシも、全部橙里は大袈裟なくらい褒めてくれて、それが夢にしてまで続けようと思ったきっかけでもあった。
「もう十年も経ったんだな。高校のやつらなんてもうずっと会ってねぇや。みんな元気にしてんのかなー」
「そうなの?橙里のことだからしょっちゅう会ってるんだと思ってた」
「まさか。忙しくてそれどころじゃなかったよー。そのせいで麗美と別れたことも知ってんだろ?」
麗美とは、高三で同じクラスになり一番仲がよかった友達。
そして、私がずっと片想いをしてきた橙里の元カノ。
橙里のことをいつから好きになったかなんて覚えていない。
だけど一つ言えることは、麗美よりも誰よりも先に私の方が橙里を好きだった。
だけど私は下に妹弟が四人もいるせいか、昔から自分を優先させることよりも相手に譲ってしまう性格で、麗美から橙里のことを好きになったと打ち明けられた時も、自分の気持ちはなかったことにしようと決意した。
大切に育てていた恋心を、誰にも伝えることなく私は私の中から消したんだ。
麗美の猛アタックもあり、二人は高三の春から付き合い出し、大学一年生の夏まで続いていた。
別れた原因は、橙里が忙しくて二人の時間をなかなか作れなくなってしまったこと。
そんなよくある別れ方だった。
私も最初は麗美とかなりの頻度で会っていたけど、短大に入ってからは毎日が忙しくてレポートや課題に追われる日々で、だんだんと連絡を取らなくなった。
だからその後の二人についてはよく知らなかったけど、それももう何年も前のことだし時間が過去にしてくれたのだろう。
今目の前にいるあまり気にしていなさそうな橙里が何よりもの証拠だ。
「俺、麗美との別れ方があんなんだったから、蒼依にもなんとなく嫌われたんだろうなって思ってたんだよ」
「え、何それ。別に、嫌ってなんてないけど。すれ違って別れるなんてよくある別れ方でしょ」
嫌いになっていないのは本当だけど、避けていたことについては事実で気まずくて思わず目を逸らす。
麗美と別れたと知っても、今更好きだった気持ちを取り戻すことなんてできなくて、それならもういっそのこと会わない方がいいと思ったんだ。
会ったらきっと、嫌でも思い出してしまうから。
「十年経ったからか、蒼依が全くの別人に見えるよー。長かった髪もばっさり切っちゃって、制服からオフィスカジュアルになって大人になってる」
「見た目だけだよ。十年経っても、私は私のまま。なんにも変わってない」
ずっと私は私が嫌い。昔も今も変わらず、ずっと。
「飲み物買ってくるよ。蒼依はなにがいい?」
「私は、なんでも…」
つい無意識にいつもの口癖を言ってから、ハッと我に返る。
ああ、ほらね。また。
自分の気持ちを相手に伝えることなく呑み込むこの癖、ずっと変わらない。
自分で自分が嫌になってくる。
「了解、じゃあちょっと待ってて」
橙里は特に気にした様子もなく、近くの自販機に歩いて行った。
しばらくして戻ってきた橙里の手には二つの缶が握られていた。
「はい、大人な蒼依にはブラックコーヒー」
「あ、ありがとう…」
正直、ブラックコーヒーは苦手で飲める自信がないけど、なんでもいいと言ってしまった手前そんなこと絶対に言えるわけがない。
「…なんて、どうせブラック飲めねぇだろ?」
「え?」
受け取ろうと手を伸ばした私の手に握らされたのは、ブラックコーヒーではなくミルクティーだった。
「昔からミルクティー好きだったよな。もしかして今は嫌い?」
「あ、ううん。今も好き、だけど…」
どうして?どうして“なんでもいい”って言ったのに、私が本当にほしかったものがわかったんだろう。
「昔から蒼依の“なんでもいい”の中には“蒼依の好き”があったこと俺は知ってるよ」
「…え?」
「蒼依は優しいから。いつだって自分のことよりも他人を優先しがちだろ?だけど、本当に欲しいものはずっと見つめてたり、譲ってから悲しそうな顔をしたり、バレバレなんだよ。それなら最初から譲らなければいいのにっていつも思ってた」
橙里には、バレていたんだ…。
「もったいないだろ。蒼依の本当の気持ちを“なんでもいい”の一言で片付けるなんて」
『ねえ、蒼依。蒼依は修学旅行のバスの席、どこがいい?』
『えーと、私は…』
ふと、橙里の隣が空いているのが目に入る。
隣に橙里がいたら、きっとバスの時間なんてあっという間になるくらい楽しいんだろうな…。
『あ、橙里の隣空いてるじゃん!私座ってもいいー!?』
『あ、こら、麗美。先に蒼依に聞いてるんだから待ちなさいよ』
『…私はなんでもいいよ!空いてるところで』
本当は橙里の隣が良かった。
だけど、もし本当の気持ちを伝えたところでギスギスしたくないし相手からなんて思われるかが怖くて、私はいつもこの一言で片付けてしまっていた。
「蒼依の気持ちなんだから、他の誰でもない蒼依が大事にしてやらないと。我慢する必要はないんだよ」
にっと橙里に優しく微笑まれ、心が少しずつほぐれていくのを感じる。
橙里の笑顔は魔法みたい。
私の心を軽くしてくれて、嫌なことを全部忘れさせてくれて、忘れていたと思っていた気持ちを一瞬にして思い出させる。
「…私ね、高校の時橙里が好きだったの」
「え?」
橙里は突然の私の告白に、目を丸くしていた。
十年間、ずっと私の中に押し殺して消してきた気持ち。それがやっと今、動き出した気がした。
「俺も、蒼依のことが好きだったよ」
「…え?」
「告白する勇気がないうちに麗美に告られて、流れで付き合って。結果的には麗美に気持ちが向いたから、俺の蒼依が好きって気持ちはいつの間にか消えていったんだ。だけど今、ちゃんと伝えられてよかったよ。蒼依も伝えてくれてありがとな」
…なんだ。橙里も私のことを想ってくれていたんだ。
あの時私が麗美にこの気持ちを譲ったりなんかしなければ、私たちが付き合っていた未来もあったのかな…?
「よし、そろそろ帰るかー。ちょうどタクシーも見つかったし」
「え」
橙里がアプリでタクシーを探してくれていたみたいで、スマホの画面をこちらに見せてくれた。
「さっき自販機行った時に予約したんだ。ちゃんとこの時間でも見つかってよかったよ」
「…そっか」
これでもう終わりなのかな。
せっかく再会して、過去の気持ちを伝え合えたのに、これで終わりだなんて悲しすぎる。
私は心のどこかで橙里と会えるこの日を待ち侘びていたのかもしれない。
今もまだあの頃の気持ちを鮮明に思い出せるくらい。
私はずっと橙里のことを忘れられていない。
もう動き出そうとしている恋の最終電車に乗り込むなら、今しかない。
「あの、さ…橙里」
「ん?」
意を決して口を開こうとすると、ふと、缶を持っている橙里の左手で何かが光ったのが目に入った。
「…それ。橙里、結婚したの?」
「ああ。まあな。って言っても、まだ婚約の段階?職場で知り合った同期なんだけどさ、まだ気になる段階ってところで相手にお見合いの話が来てること聞いて。もう後悔したくなかったから、勢いでプロポーズしちゃったんだけど、そっからは毎日が幸せで。一ヶ月後には式も挙げるつもりなんだ」
「そう、なんだ」
そっか。橙里はもうとっくに過去になっていたんだね。
ふと、橙里が麗美と付き合った日のことを思い出す。
『俺、麗美と付き合うことになったから』
『え?…そうなんだ。橙里も麗美のこと好きだったんだね』
『んーまあ流れで。ま、そこから始まる恋愛だってあるだろ?麗美といるの楽しいし』
『…そっか。そうだよね。お似合いだと思うよ』
あの頃は言えなかった言葉が、今の私なら言える。
「橙里、結婚おめでとう」
「おう。ありがとな」
私はやっと今日、この恋に終止符を打てた気がした。
恋の最終電車が音もなくゆっくりと発車して、私を置いてどんどん行ってしまう。
橙里を好きだったこの気持ちを乗せて。
「家の前まで送ろうか?もう夜中の一時過ぎてるし」
「いいよ。あんたは早く自分家に帰りな。こんな時間まで付き合わせてごめんね」
「いやいいって。久しぶりに蒼依に会って話せて楽しかったよ」
タクシーに乗り込んでから、もう一度橙里を見上げる。
大好きだった笑顔が今は私にだけ向けられている。
「じゃ、またなー。気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。じゃあね、ばいばい」
橙里に手を振り返して、今度こそちゃんとお別れをする。
さよなら、私の好きだった人。
ずっと嫌いだった自分だったけど、これからは変わっていける。
少しだけそんな予感がした。
「…最悪」
本当は終電なんかに乗らなくても、定時で帰れたはずなんだ。
それなのに、周りの圧に負けて参加した会社の飲み会で、お会計の集計をしたり酔っ払いたちの代わりにタクシーを捕まえてあげたりしているうちに、気づけば終電五分前になっていた。
慌てて駅に向かって全速力で走り、ホームに続く階段を駆け下りているところで足を滑らせ転倒。
幸い、数段から落ちただけで怪我はないが、たった今私を置いて最終電車が発車していき今に至る。
タクシーを捕まえたところで急な飲み会でお財布の中はすっからかんだし、家まで歩いて帰ろうにも頑張って二時間とかはかかる。
言いたいことも言えず、断ることができなかった私の自業自得なのだろうか。
「…あれ?もしかして、蒼依?飯村蒼依だろ?」
「…え?」
とりあえず迎えにきてくれそうな人がいないか、ホームの椅子に座りながらスマホをいじっていると、ふと上から声をかけられた。
「…橙里?」
そこにいたのは、高校の頃から何も変わらない、柔らかそうなふわふわの髪の毛、二重のくりくりとした瞳、犬歯で少し幼く見える人懐っこそうな笑顔を見せる橙里だった。
「うわー久しぶりだな!高校卒業以来じゃん!」
「あ、うん、本当、久しぶり」
「おいおい、なんだよその薄い反応は。俺らマブだっただろ?もっとこの再会に感動しろよ」
いや、そんなこと言われたって。
突然すぎて私だって頭がついていかないのだ。
橙里とは高一の秋学期に隣の席になったことがきっかけでよく話すようになり、いつメンであった男女八人グループの中でも一番仲がよかった。
二年生になってからはみんなバラバラのクラスになって集まることもなくなり、私も新しい四人組の女子グループでいたけど橙里とはなんの縁なのか三年間クラスが一緒で高校卒業まで変わらずたまに話す関係であった。
それも、高校を卒業してからは一度も会っていなかったけど。
「てかこんなところで何してんの?蒼依の最寄り、もっと先だろ?」
「あー、会社の飲み会でこっちまで来てて。色々あって終電逃したんだよね」
「へぇ。俺の職場は二駅先の小学校で、今はこの辺で暮らしてんだよね」
「そっか、ちゃんと教師になれたんだね」
「まあなー」
橙里から教師になりたいという話を高校生の頃に聞いていたけど、小学校の先生になったことは今初めて知った。
たしかに一番橙里らしい選択な気がする。
「ちょっと。なんで隣座ってくるの?」
最寄りがここならさっさと帰ればいいのに、なぜか橙里は空いていた私の隣に腰掛けてきた。
「んー暇だし?終電を逃した蒼依と十年ぶりの再会なんて、これも何かの縁だし久しぶりに話そうぜ」
「あんたね…終電を逃した私を面白がってるでしょ?」
「あ、バレた?」
ケラケラと楽しそうに笑う橙里の肩をバシッと叩く。
本当、あの頃と何も変わってない。
私を馬鹿にしている時が一番楽しそうな、ムカつくけどずっと好きだったこの笑顔。
「で、蒼依は?なんの会社で働いてるの?」
「私は広告系。最近は大きな仕事も任せてもらえるようになってきたんだ」
「おー!たしかに蒼依、文化祭とかのパンフレット作る係に任命されてたくらい、チラシとか作るのうまかったもんな」
私が作った文化祭のパンフレットも、友達に頼まれて作った部活勧誘のチラシも、全部橙里は大袈裟なくらい褒めてくれて、それが夢にしてまで続けようと思ったきっかけでもあった。
「もう十年も経ったんだな。高校のやつらなんてもうずっと会ってねぇや。みんな元気にしてんのかなー」
「そうなの?橙里のことだからしょっちゅう会ってるんだと思ってた」
「まさか。忙しくてそれどころじゃなかったよー。そのせいで麗美と別れたことも知ってんだろ?」
麗美とは、高三で同じクラスになり一番仲がよかった友達。
そして、私がずっと片想いをしてきた橙里の元カノ。
橙里のことをいつから好きになったかなんて覚えていない。
だけど一つ言えることは、麗美よりも誰よりも先に私の方が橙里を好きだった。
だけど私は下に妹弟が四人もいるせいか、昔から自分を優先させることよりも相手に譲ってしまう性格で、麗美から橙里のことを好きになったと打ち明けられた時も、自分の気持ちはなかったことにしようと決意した。
大切に育てていた恋心を、誰にも伝えることなく私は私の中から消したんだ。
麗美の猛アタックもあり、二人は高三の春から付き合い出し、大学一年生の夏まで続いていた。
別れた原因は、橙里が忙しくて二人の時間をなかなか作れなくなってしまったこと。
そんなよくある別れ方だった。
私も最初は麗美とかなりの頻度で会っていたけど、短大に入ってからは毎日が忙しくてレポートや課題に追われる日々で、だんだんと連絡を取らなくなった。
だからその後の二人についてはよく知らなかったけど、それももう何年も前のことだし時間が過去にしてくれたのだろう。
今目の前にいるあまり気にしていなさそうな橙里が何よりもの証拠だ。
「俺、麗美との別れ方があんなんだったから、蒼依にもなんとなく嫌われたんだろうなって思ってたんだよ」
「え、何それ。別に、嫌ってなんてないけど。すれ違って別れるなんてよくある別れ方でしょ」
嫌いになっていないのは本当だけど、避けていたことについては事実で気まずくて思わず目を逸らす。
麗美と別れたと知っても、今更好きだった気持ちを取り戻すことなんてできなくて、それならもういっそのこと会わない方がいいと思ったんだ。
会ったらきっと、嫌でも思い出してしまうから。
「十年経ったからか、蒼依が全くの別人に見えるよー。長かった髪もばっさり切っちゃって、制服からオフィスカジュアルになって大人になってる」
「見た目だけだよ。十年経っても、私は私のまま。なんにも変わってない」
ずっと私は私が嫌い。昔も今も変わらず、ずっと。
「飲み物買ってくるよ。蒼依はなにがいい?」
「私は、なんでも…」
つい無意識にいつもの口癖を言ってから、ハッと我に返る。
ああ、ほらね。また。
自分の気持ちを相手に伝えることなく呑み込むこの癖、ずっと変わらない。
自分で自分が嫌になってくる。
「了解、じゃあちょっと待ってて」
橙里は特に気にした様子もなく、近くの自販機に歩いて行った。
しばらくして戻ってきた橙里の手には二つの缶が握られていた。
「はい、大人な蒼依にはブラックコーヒー」
「あ、ありがとう…」
正直、ブラックコーヒーは苦手で飲める自信がないけど、なんでもいいと言ってしまった手前そんなこと絶対に言えるわけがない。
「…なんて、どうせブラック飲めねぇだろ?」
「え?」
受け取ろうと手を伸ばした私の手に握らされたのは、ブラックコーヒーではなくミルクティーだった。
「昔からミルクティー好きだったよな。もしかして今は嫌い?」
「あ、ううん。今も好き、だけど…」
どうして?どうして“なんでもいい”って言ったのに、私が本当にほしかったものがわかったんだろう。
「昔から蒼依の“なんでもいい”の中には“蒼依の好き”があったこと俺は知ってるよ」
「…え?」
「蒼依は優しいから。いつだって自分のことよりも他人を優先しがちだろ?だけど、本当に欲しいものはずっと見つめてたり、譲ってから悲しそうな顔をしたり、バレバレなんだよ。それなら最初から譲らなければいいのにっていつも思ってた」
橙里には、バレていたんだ…。
「もったいないだろ。蒼依の本当の気持ちを“なんでもいい”の一言で片付けるなんて」
『ねえ、蒼依。蒼依は修学旅行のバスの席、どこがいい?』
『えーと、私は…』
ふと、橙里の隣が空いているのが目に入る。
隣に橙里がいたら、きっとバスの時間なんてあっという間になるくらい楽しいんだろうな…。
『あ、橙里の隣空いてるじゃん!私座ってもいいー!?』
『あ、こら、麗美。先に蒼依に聞いてるんだから待ちなさいよ』
『…私はなんでもいいよ!空いてるところで』
本当は橙里の隣が良かった。
だけど、もし本当の気持ちを伝えたところでギスギスしたくないし相手からなんて思われるかが怖くて、私はいつもこの一言で片付けてしまっていた。
「蒼依の気持ちなんだから、他の誰でもない蒼依が大事にしてやらないと。我慢する必要はないんだよ」
にっと橙里に優しく微笑まれ、心が少しずつほぐれていくのを感じる。
橙里の笑顔は魔法みたい。
私の心を軽くしてくれて、嫌なことを全部忘れさせてくれて、忘れていたと思っていた気持ちを一瞬にして思い出させる。
「…私ね、高校の時橙里が好きだったの」
「え?」
橙里は突然の私の告白に、目を丸くしていた。
十年間、ずっと私の中に押し殺して消してきた気持ち。それがやっと今、動き出した気がした。
「俺も、蒼依のことが好きだったよ」
「…え?」
「告白する勇気がないうちに麗美に告られて、流れで付き合って。結果的には麗美に気持ちが向いたから、俺の蒼依が好きって気持ちはいつの間にか消えていったんだ。だけど今、ちゃんと伝えられてよかったよ。蒼依も伝えてくれてありがとな」
…なんだ。橙里も私のことを想ってくれていたんだ。
あの時私が麗美にこの気持ちを譲ったりなんかしなければ、私たちが付き合っていた未来もあったのかな…?
「よし、そろそろ帰るかー。ちょうどタクシーも見つかったし」
「え」
橙里がアプリでタクシーを探してくれていたみたいで、スマホの画面をこちらに見せてくれた。
「さっき自販機行った時に予約したんだ。ちゃんとこの時間でも見つかってよかったよ」
「…そっか」
これでもう終わりなのかな。
せっかく再会して、過去の気持ちを伝え合えたのに、これで終わりだなんて悲しすぎる。
私は心のどこかで橙里と会えるこの日を待ち侘びていたのかもしれない。
今もまだあの頃の気持ちを鮮明に思い出せるくらい。
私はずっと橙里のことを忘れられていない。
もう動き出そうとしている恋の最終電車に乗り込むなら、今しかない。
「あの、さ…橙里」
「ん?」
意を決して口を開こうとすると、ふと、缶を持っている橙里の左手で何かが光ったのが目に入った。
「…それ。橙里、結婚したの?」
「ああ。まあな。って言っても、まだ婚約の段階?職場で知り合った同期なんだけどさ、まだ気になる段階ってところで相手にお見合いの話が来てること聞いて。もう後悔したくなかったから、勢いでプロポーズしちゃったんだけど、そっからは毎日が幸せで。一ヶ月後には式も挙げるつもりなんだ」
「そう、なんだ」
そっか。橙里はもうとっくに過去になっていたんだね。
ふと、橙里が麗美と付き合った日のことを思い出す。
『俺、麗美と付き合うことになったから』
『え?…そうなんだ。橙里も麗美のこと好きだったんだね』
『んーまあ流れで。ま、そこから始まる恋愛だってあるだろ?麗美といるの楽しいし』
『…そっか。そうだよね。お似合いだと思うよ』
あの頃は言えなかった言葉が、今の私なら言える。
「橙里、結婚おめでとう」
「おう。ありがとな」
私はやっと今日、この恋に終止符を打てた気がした。
恋の最終電車が音もなくゆっくりと発車して、私を置いてどんどん行ってしまう。
橙里を好きだったこの気持ちを乗せて。
「家の前まで送ろうか?もう夜中の一時過ぎてるし」
「いいよ。あんたは早く自分家に帰りな。こんな時間まで付き合わせてごめんね」
「いやいいって。久しぶりに蒼依に会って話せて楽しかったよ」
タクシーに乗り込んでから、もう一度橙里を見上げる。
大好きだった笑顔が今は私にだけ向けられている。
「じゃ、またなー。気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。じゃあね、ばいばい」
橙里に手を振り返して、今度こそちゃんとお別れをする。
さよなら、私の好きだった人。
ずっと嫌いだった自分だったけど、これからは変わっていける。
少しだけそんな予感がした。



