やばい、靴擦れしたかも。
濱村結愛は深夜の街をひた走りながら、そんなことを思った。仕事用のパンプスで陸上部の学生もかくやという走りを見せているのだから、無理もない。
六メートルほど後ろをついて来ているらしい男は筋肉質でいかにも運動慣れしていますという出で立ちの割には、既にぜえはあと息が上がっているようだ。「は、速いですね」と切れ切れの声で話しかけられても無視を決め込み、結愛は駅に向かって疾走する。
深夜でも煌々と明るい金曜の繁華街には、酔っ払いが大量にたむろしていた。結愛は少々酔いの回っている頭をフル回転させつつ、人の波を器用に避けていく。これが運動会の障害物競走なら、間違いなく一等賞である。
彼女の目的はたった一つ。終電に滑り込む、それだけだ。
ようやく駅の高架と停車している電車の車両が見えてきて、あともう少し、というところで。
「ああ!?」
彼女たちが駅舎にたどり着く前に、最終電車は無慈悲にも動き出してしまった。結愛の自宅がある方面へとスピードを上げながら走り去っていく車両に、彼女は膝から崩れ落ちそうになる。
「行っちゃいましたね」
後ろから追いかけてきた後輩の男性社員が、やはりぜえぜえと肩で息をしながら言った。
「行っちゃいましたね、じゃないっての! 元はと言えば、アンタがあんなギリッギリのタイミングで新企画の話を振るからでしょ!?」
「僕のせいにしないでくださいよ。結果的に例のプロジェクトにも先方の支援を取り付けられたんですから」
「私たちが二人揃って終電を逃すハメになるっていうデメリットも込みで、全て計画通りだって言いたいわけ?」
憤慨して詰め寄る結愛に、後輩の彼――エリック・ハシモトは飄々とした様子で「思った以上に今回の接待が上手く進んだので」とのたまった。
百九十近い上背にピッシリと着込まれたグレースーツ。サングラスでもかければ外国映画の俳優と言われても違和感のない容姿をしているこの男。日系アメリカ人という出自である彼はその堪能な語学力と、高い洞察力に裏付けられたコミュニケーション能力を買われて昨年結愛の勤める商社へと中途入社してきたのだが。
「今日という今日は我慢ならん! アンタ、自分がデキる人間だからって、周りに泥被せ過ぎなのよ!」
「そう言われましても。僕はいつも、自分にできる形で会社の業績に貢献しているだけなのですが」
肩をすくめてみせるエリックに、結愛は眩暈がしそうになりながらも何とか踏ん張った。
「だからって個人の生活まで削っていいわけ!? 何で週末のこんな日に限って、終電逃さなくちゃいけないのよ!」
「それについてはごめんなさい。ニューヨークの電車は二十四時間営業なので」
「ここは日本だっつの!」
噛みつかんばかりの勢いでツッコミを入れる結愛に、エリックは形だけ申し訳なさそうに頭を下げる。眉を下げてこちらを見る彼は雨に濡れた大型犬のように慈悲を誘う雰囲気を醸し出してはいるが、そんな見目に騙される結愛ではない。コイツは反省などしていない、絶対にだ。
「はあ。ま、しょうがない。タクシー拾って帰るか……」
「ねえ先輩、その前に」
駅近くのタクシースタンドへと歩き出そうとする結愛に、エリックが待ったをかける。
「何よ」
「さっきの店ではあんまり食事できませんでしたよね。お腹、空いてませんか?」
「そんなことは……」
いきなり何を、と結愛が彼を振り返ると、エリックは人好きのする笑顔と共に続けた。
「週末の深夜で、適度にアルコールも入っている状態。こういうコンディションの時に食べる夜食は最高ですよ。ミッドナイトランと言いましてね、食欲に抗えずに食べ物を求めて夜の街を彷徨うのも、また楽しいものです」
「何? マーティン・ブレスト?」
「デ・ニーロの映画は今関係ないんですよ」
疲労した脳味噌で適当なやりとりをしていると、結愛の胃袋が不意に主張をし始める。ぐう、と空腹を訴えかけるその反応に、彼女は小さくため息をついた。
「確かに、さっきは先方をもてなすのに集中してて、あんまり食べなかったもんね」
「そうでしょう。ボリュームがあって、ハイカロリーで、食べた後にぐっすり眠れるというのが夜食の流儀です。ここがロスとかなら、インしてアウトするバーガーなんかがちょうどいいんですけど」
「だからここは日本だって」
「分かってますとも。ちょうど、少し行った先に朝の四時まで営業しているダイニングカフェがあるそうですよ?」
そこまで言うと、エリックは何やら結愛の背後に視線を送る。何だろうと彼女が思ったところで、彼は「もちろん、もう今すぐにでも帰りたいということであれば、そこのタクシー乗り場までお送りしますが」と付け加えた。
何だ、後ろのタクシースタンドを見ただけか。結愛が背後を振り返ると、彼女らと同じく終電を逃したらしい酔客たちがタクシーに乗り込んでいるところだった。
「しょうがないから、少しだけなら付き合ってもいいよ」
己が空腹に負けたことはおくびにも出さず、結愛は了承の返事をする。
「付き合いのいい先輩で助かりますよ」
彼女を先導して歩き出すエリックの大きな背中を見ながら、結愛はもう一度小さくため息をつくのだった。
「おお……これは……」
テーブルに置かれた一皿を見て、結愛は感嘆の声を漏らす。厚切りのトーストにスライスされたトマト、輪切りのピーマン、カリカリに焼かれたベーコンが載り、さらにそれらすべてを親の仇とばかりに覆い尽くすかのごとく大量のチーズがかけられたピザトースト。セットの飲み物はラージサイズのコーラである。
エリックに案内されたダイニングカフェは、本当に夜の七時から翌朝の四時まで営業している店だった。店内はどこか外国のドライブインを思い起こさせるレイアウトで、五つほどのカウンター席とあとは小さなテーブル席が四つほど。自分たちの他にはカウンター席に数人いるばかりで、結愛はエリックに通されるがまま窓近くの奥まったテーブル席へと腰を下ろしていた。
エリックが頼んでいるのは、この店ではスタンダードなメニューらしいハンバーガーとドリンクのセットだった。ハンバーガーは牛肉百パーセントだという分厚いパティとスライスチーズ、瑞々しい色をしたレタスがふっくらした見た目のバンズで挟まれており、これはこれでなかなかのボリュームだ。おまけにハンバーガーの周りは大量のフライドポテトで埋め尽くされており、飲み物はやはりラージサイズのコーラである。
エリックいわく、日本人が枝豆をつまみにビールを飲むように、こういうメニューにはコーラと相場が決まっているのだとか。なお、いわゆるダイエットコーラは邪道であるらしい。
目の前に運ばれた正真正銘のカロリー爆弾に、結愛はごくりと生唾を飲み込む。さすがに手で直接持って食べるのは難しそうだったので、カトラリーボックスからナイフとフォークを一組取り出し、熱々のピザトーストに切れ目を入れた。一口サイズに切り取ってフォークで持ち上げれば、トロリとしたチーズが糸を引く。
いただきます、と小さく言って、結愛はピザトーストを口に含んだ。トマトの酸味とピーマンの歯ごたえ、ベーコンの旨味を大量のまろやかなチーズが余すことなく受け止めている。さくりとした生地のトーストにはどうやらバターまで塗られているようで、明らかに深夜に食べてはいけない味に脳がバグを起こしそうになる。
向かいのエリックも大きなハンバーガーを器用に両手で持ち、旨そうにかぶりついている。たっぷりと挟まった具をこぼすことなく綺麗に食べられているのはやはり、慣れが大きいのだろうか。
「よくそんな綺麗に食べられるね。私だったら絶対こぼしちゃう」
「この程度のサイズだったら普通ですよ。日本に来る前はこれの倍ぐらいあるバーガーを平気で食べてましたからね。ハートアタックグリル、知ってます? ラスベガスにあるハンバーガー店なんですけど、先輩なら商品の画像を見ただけで心臓が止まっちゃうかも」
くすくすと笑いながらポテトをつまむエリックの姿は妙にサマになっていて、何故か無性に悔しくなった結愛は、ようやく半分ほどまで減ったピザトーストを大口で頬張った。
「あはは、そんなに詰め込んだらリスみたいな頬っぺたになっちゃいますよ。そこまでお腹空いてました? しょうがないから、特別に僕のポテトを分けてあげます」
「え、本当? あ、いや、別に欲しいなんて一言も」
慌てて取り繕う結愛を他所にエリックは紙ナプキンを一枚取り、一本のポテトの下半分ほどを包むようにして持つ。そして至極自然な動作でそのポテトを結愛の口元まで持ってきて、「はい、どうぞ」などと言ってくるのだ。
ははあ、これは他の相手にも散々やり慣れているな、と結愛は察した。職場でも女性陣から常に注目を浴びている男だ。これまでもさぞ多くの人間を勘違いさせてきたに違いない。
自分までうっかり沼にハマってしまってはいけないと、結愛は差し出されたポテトに無言でかぶりついた。ホクホクとした食感にほど良く塩気が効いていて、確かにこれはおいしい。それはそうと、明らかにエリックの機嫌が良くなっているように感じるのは気のせいだろうか。
「ここのポテト、絶品なんですよ。時々、テイクアウトでポテトだけ買って帰ることもあるんです」
「うん。確かにこれはおいし……」
分けてもらったポテトをかじっていると、不意に彼のシャツの袖が目についた。ハンバーガーのケチャップが飛んだのか、小さいが濃い色のシミができている。
「袖、汚れてるよ」
「え!? うわ、本当だ。しまったな」
結愛が指摘してやると、エリックは慌ててシャツの袖を確認する。手拭きで袖を拭こうとする彼を止め、結愛は自身の鞄を探った。
「シミって下手に触ると広がっちゃうからね。こういうのは専門の道具を使うのが一番いいの」
営業関連の部署で接待の場に出る機会も多い結愛は一度、取引先との会食時にソースのシミをスーツに付けてしまったことがある。その時に恥をかいてしまったことを大いに悔やんだ彼女はそれ以来、ポケットサイズのシミ抜きアイテムを常に持ち歩くようにしているのだ。
「はい、これで大丈夫」
シミ取り剤を拭き取り、ほとんど元通りの見た目に戻った袖を見て、エリックは「ありがとうございます」と感謝を告げた。
「先輩、こんな道具まで持ち歩いているんですね。やっぱりすごい人だ」
「昔、恥かいたから同じ失敗をしたくないだけ。何もすごいことなんてないよ」
「そうやって、過去の失敗からきちんと学んで対策を取れるという時点で素晴らしいんですよ。いやあ、それにしてもダサいところを見せてしまいました。僕も見習わなければいけませんね」
アンタに比べたら、私なんか何もすごくない。アンタがダサけりゃ、私は一体どうなるわけよ。
そんなネガティブな思考は表に出さず、結愛は「そんな謙遜するなんてらしくないじゃない」と、何とか笑顔を作ってみせた。
食事を済ませて店を出ると、時刻は午前二時に迫ろうとしていた。大通りに出たがなかなかタクシーが捕まらず、駅近くのタクシースタンドまで戻ることにする。
幸い、まだ数台のタクシーが停まっていた。結愛が後部座席に乗り込むと、エリックは「それではお気を付けて」と言って送り出そうとする。
「あれ、一緒に乗らないの?」
「僕の家は先輩と逆方向ですよ。僕は別のタクシーで帰ることにします」
そのように説明されてしまっては結愛としても何も言えない。そっか、じゃあまた月曜日に、と言う代わりに彼女はエリックの方を見た。
「今日はあのお店、連れて行ってくれてありがとう。おかげで今夜はぐっすり眠れそう」
「いえいえ、お口に合ったようなら何よりです」
心底嬉しい、とでも言いたげな満面の笑みを浮かべる彼に、結愛も微笑んで答える。
「お互い今日は帰ったらゆっくり休もうね。じゃあ、また」
結愛はドライバーに行き先を告げると、仕事からの解放感と満腹から来る眠気に抗わず、座席の背もたれに体を預ける。大通りに出て姿が見えなくなるまで、エリックは結愛が乗ったタクシーを見送ってくれていた。
無事に彼女を乗せたタクシーが大通りへ出て行くのを見送り、エリック・ハシモトは踵を返した。辺りを見回すと、さすがにもう周辺に人影はなくなっている。安堵のため息をこぼし、彼は再び夜の街を歩き出した。
終電を逃した直後、結愛がタクシースタンドに向かおうとしていた時、ロータリーの出口付近に少々気になる振る舞いをしている男数人のグループが見えた。通りかかる人間、特に女性を見る度に何やらヒソヒソと互いに耳打ちをしている三人組。そして濱村結愛が停まっているタクシーに向かって歩き出そうとした時、彼らの一人が明らかに彼女を指差して、不審な動きを見せたのだ。
まずい、と直感したエリックは、結愛を呼び止めて食事に誘った。最悪、誘いに乗ってくれなくても彼女の近くに男がいると彼らに見せることで、牽制になるという目算だったのだ。幸い、上手く結愛と食事をする方向に誘導でき、彼らから距離を取ることに成功した。
今回、終電を逃したのはむしろラッキーだったのかもしれない。もしも電車に間に合う時間に会食が終わって、店の前などで互いに別れていたら。結愛が一人で、駅に向かって歩いていたら。想像するだけで背筋が寒くなる。
そして僥倖と言うべきか、仕事終わりに二人きりで食事ができたのは、本当にラッキーだった。おまけにエリックの手ずからポテトを食べる彼女の可愛らしい姿という、思わぬ目の保養にまであずかれたのだから。
しかしせっかく良い雰囲気で終わったというのに、最後に何も決定的なことを告げられなかったのは残念でならない。己の出身や振る舞いから、思ったことは積極的にはっきり言うタイプだと周囲に考えられているエリックである。実際、ビジネスにおいては物怖じせずに言いたいことを言ってきたのだが、ことプライベートな事情が挟まると途端に口下手になってしまうのだ。
「本当に、ダサい男だな」
結愛の手によって綺麗にケチャップのシミが抜き取られたシャツの袖を触りつつ、彼は夜の闇に向かって呟いた。
(了)

