【橘side】
終電を逃したことに気づいたとき、橘祐一は久しぶりに溜息をついた。
スマートフォンの画面には、タクシーアプリの読み込み中の表示が延々と続いている。
部下の送別会に出席することなど滅多にない。今夜は例外だった――顔を出すべき理由があった。
「……仕方ないな」
自販機で買った缶コーヒーを片手に、駅前の公園にでも向かおうとしたそのとき、聞き慣れた声が背後からかかった。
「……橘さん?」
声の主を振り返ると、そこにいたのは営業部の新人、佐倉奈央だった。
緊張気味に立っている彼女の姿を見て、橘は一瞬だけ口元を緩めた。
(まさか、こんなところで会うとは)
「お前もか。……終電、逃したな」
彼女もタクシー待ちだったようだが、状況は似たようなもの。
駅前の公園で時間を潰すことを提案すると、彼女は素直に頷いた。
彼女のそういうところ――誰かに合わせるのが下手で、でもまっすぐで――妙に気になるのだった。
ベンチに並んで腰掛けたとき、橘は横目で彼女を盗み見た。
麦茶のペットボトルを持つ手が、わずかに震えている。距離を置きたがっているのが分かる。
(男が苦手、か)
部下の間では有名な話だった。過去に何かがあったのだろう。
けれど、そういう彼女が、こんな夜に自分の隣にいる――それが、不思議だった。
「お前、男が苦手だったよな?」
そう言うと、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
やはり。だが、その瞳には拒絶ではなく、少しの戸惑いと、それ以上の“理解されたい”という気持ちが滲んでいた。
自分も同じだ。
誰かと心を通わせることに、どこか臆病になっている。だからこそ社内恋愛を禁止してきた。
仕事に私情を挟んでうまくいった例など、周囲を見渡しても少ない。
自分は、部下を守る立場でいたかった。ずっと。
けれど――彼女とこうして話していると、理屈ではない何かが胸に生まれる。
言葉にできない温度。共鳴。静かな心地よさ。
「……俺も、お前と話しているのは悪くないと思っている」
その言葉が口から漏れた瞬間、自分でも驚いた。
こんなふうに気持ちを吐き出したのは、いつ以来だろう。
彼女が静かに笑った。その笑顔が、橘の胸の奥に柔らかく灯る。
(……この人の前なら、肩の力を抜いてもいいかもしれない)
気づけばそう思っていた。
社内恋愛という壁の存在は変わらない。だが、すぐに答えを出す必要もない。
ただこの夜、この距離で、彼女と向き合っていたい。そう思った。
「明日、俺のところに書類を持ってきてくれ。……仕事の話だ」
あくまで“業務”として。けれど本心は、もう一度だけ、彼女とちゃんと話したかった。
そして言った――「それまでに、あの夜のことは忘れろよ」と。
未練がましい感情を閉じ込めるための言葉だった。
なのに、その瞳には、彼女がちゃんと何かを感じ取っていたような光があった。
翌日、彼女は真面目な顔で書類を差し出してきた。
けれど目は真っ直ぐにこちらを見つめていて、あの夜のことがまだ胸の中にあることを隠そうとしなかった。
「昨日の夜、公園で話したこと、頭から離れないです」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられるようだった。
彼女の声に、自分の中の理性が揺らぐ。規則ではなく、感情が、彼女を求めていた。
「俺もだ。社内恋愛は禁止だが……お前とは別だと思いたい」
正直だった。たとえ誰に否定されても、嘘はつきたくなかった。
そして夜。再び終電を逃したような顔をして、彼女は公園に現れた。
今度は、もう隣に座っても、手の震えはなかった。
「橘さんが待ってる気がして」
そう笑った彼女を見て、橘は心から思った。
――この人を、守りたい。
「俺、お前と……向き合ってみたいと思ってる」
言葉にしたとき、迷いはなかった。
彼女の手が、そっと自分の指を包むように握り返したそのぬくもりを、橘は一生忘れないと思った。
夜明けは近かった。けれど、この夜を、きっと何度でも思い出す。
あのとき、自分の心が確かに動いたことを――何よりも、信じたかった。
***
帰り際、公園の街灯の下、橘はふと立ち止まった。
佐倉も足を止め、振り返る。頬がうっすら赤く染まっていた。
「……今夜、もし朝まで一緒にいてくれって言ったら、引くか?」
そんなこと、橘の性格を知る部下なら誰も想像できないような言葉だった。
けれど、今の彼にとってそれは、精一杯の誠実な気持ちの表現だった。
佐倉は驚いたように瞬きをし、それからふっと笑った。
「引きませんよ。……たぶん」
その笑顔に、橘は心の奥にある凍てついたものが溶けていくのを感じた。
無理に手を伸ばさない――けれど、確かに惹かれている。
彼女の中にある、脆さも、あたたかさも。全部知りたいと思ってしまった。
二人はゆっくりと歩き出す。ベンチに戻るでもなく、駅に向かうでもなく、ただ夜の街を並んで歩く。
「……本当は、ずっと怖かったんです」
唐突に佐倉が口を開いた。橘は黙って、彼女の言葉を待った。
「男性に心を許すってことが、どうしてもできなくて。なのに……橘さんといると、不安じゃないんです。静かにしていても、そばにいるだけで安心できる」
「俺も、誰かを信じるってことが怖かった。仕事を盾にして、人間関係から逃げてたかもしれない」
言葉にすると、あまりにも無防備で、照れくさい。
けれどこの夜だけは、格好なんて気にしないでいられた。
「もしこれが夢なら、明日目が覚めたら全部忘れてるかもって思ったんですけど……」
佐倉は小さな声で言った。
「でも、ちゃんと覚えていたい。今日のことも、橘さんの言葉も」
「忘れさせないよ」
橘は思わず言っていた。
強くも、優しくもない。ただ、真っ直ぐに。
佐倉は驚いたように目を丸くして、それから笑った。
「……嬉しいです」
その笑顔は、まるで朝日が昇る前の空の色のように、穏やかで澄んでいた。
(――もう誰かを信じることを、怖がらなくてもいいのかもしれない)
橘の胸の奥で、そんな確信が芽吹いていた。
そして彼は思った。
終電を逃したこの夜が、人生の分岐点だったのかもしれないと。
誰にも言えないけれど、大切な“秘密”として、これからも心に刻んでいくのだろう。
彼女とともに、ゆっくりと、歩幅を合わせて――。



