終電は、もう行ってしまった――。
 それは、まるで置いてけぼりを食らったような現実だった。

 改札の電光掲示板には、もうどの列車の時刻も表示されていない。
 人の気配が少なくなった駅の構内。残されたのは、気の抜けた缶コーヒーと、ぽつねんと立ち尽くす自分だけ。

 (どうしよう……)

 佐倉奈央は、こっそり溜息をついた。
 居酒屋での送別会、あまり得意ではない人付き合いに疲れて早めに抜けたはずだった。
 それなのに、ぼんやりしていて時間の感覚を失ってしまった。コンビニに寄ったのが、いけなかったのかもしれない。

 タクシーアプリを開いてみても「ただいま付近に車両がありません」の表示ばかり。
 友達に頼ろうかと思ったが、実家暮らしの自分には「いまから泊まりに行けそうな人」なんてすぐに浮かばなかった。

 (こういうとき、誰か頼れる人がいればって……)

 ふと、改札近くにひときわ落ち着いた雰囲気の男性の背中が見えた。

 (え……? 橘さん?)

 目を疑った。
 その鋭く整った横顔――間違いなく、営業部の課長、橘祐一さんだった。

 「……橘さん?」

 声をかけると、彼がこちらを振り返る。

 「……佐倉か。お前も終電、逃したか?」

 落ち着いた、けれどどこか疲れを含んだ声。
 少し目元が緩んだその表情に、意外な柔らかさを感じて、奈央は一瞬だけ緊張を忘れた。

 「はい……。なんだか、こんな時間になるなんて」

 そう答えると、橘はスマホを見ながらため息をつく。

 「タクシーも捕まらない。……公園で時間をつぶすか」

 静かな提案だった。

 普段の彼は、社内恋愛を一切認めず、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっている。
 そんな人と、夜中の公園で二人きりになるなんて――ちょっとした背徳感が胸に生まれる。

 でも、不思議と怖くなかった。
 この人なら、何もしない。そんな予感がしていた。

 

 ***


 駅前の公園のベンチに並んで腰掛ける。
 コンビニで買った麦茶を開けながら、奈央は心の中で鼓動をなだめようとした。

 (どうしよう……距離が近い。落ち着いて、私)

 男性が苦手――そう自覚してから、人と二人で並ぶのもなるべく避けてきた。
 だけど、橘の隣にいると、不思議と「逃げたい」とは思わなかった。
 静かに流れる空気。隣にいても干渉しない彼の距離感が、妙に心地よかった。

 「……お前、男が苦手だったよな?」

 ぽつり、と橘が言った。

 「っ……あ、はい。よく……分かりましたね」

 「観察は得意だ。営業だからな。お前、人と距離を詰めるのが苦手だ」

 淡々とした声。
 でもそれは決して責めているのではなく、ただ“事実として見てくれている”という感じがした。

 「……私、怖いんです。急に近づかれたり、声を荒げられたり。学生時代にいろいろあって……」

 「無理に話さなくていい」

 その一言に、肩の力が抜けた。
 この人は、私のことを“無理に変えようとしない”んだ。そう思ったら、胸の奥があたたかくなる。

 「橘さんは……どうして社内恋愛、禁止にしてるんですか?」

 「過去に、職場で感情を優先して、大きな失敗をしたことがある。だから、もう誰とも関わらないって決めた」

 彼もまた、傷を抱えている人なのかもしれない。
 仕事中の彼からは想像できない、過去と感情。

 (それを私に話してくれたの……?)

 鼓動が速くなる。

 ふと、橘が目をそらしながら言った。

 「……だけど、最近、考えるんだ。そうやって感情を切り離すことで、大事な何かも置いてきたかもしれない、ってな」

 静かな告白だった。
 奈央は小さく、でもはっきりと笑った。

 「私も……。橘さんと話してるとき、不思議と怖くないんです。男の人なのに」

 風が吹き、ベンチの背後にある木々の葉がさらさらと揺れた。
 時計の針はもう深夜一時を回っている。
 時間が止まったみたいな、夜の静けさだった。

 

 翌朝、会社に出勤しても、胸の奥に残っていたのは、あの夜の橘の表情だった。
 それは、これまで彼が見せたことのない、少しだけ“寂しさ”をまとった顔。
 あの時見えた、弱さのある目が、ずっと頭から離れなかった。

 彼のもとに書類を届けると、橘は静かに顔を上げて、こう言った。

 「昨日のこと、……忘れられそうにないな」

 その一言が、奈央の胸をつかんだ。

 「私も……覚えていたいです。あの時間。あの会話」

 すると橘は、ゆっくりとうなずいた。

 「じゃあ、それを前提で……この先を考えよう」

 その“この先”が何を意味するのか、奈央にははっきりわかった。

 

 そして数日後――また終電を逃すようにして、彼女はあの公園へ向かっていた。
 ベンチに並ぶ彼の横顔が、やさしく微笑んでいる。

 「また来たのか」

 「……橘さんが待ってる気がして」

 「俺も、そう思ってた」

 二人はふっと笑い合った。

 「奈央」

 名前を呼ばれたのは初めてだった。
 その声が、とても自然で、胸に落ちていく。

 「俺、お前と……向き合ってみたいと思ってる。規則や周囲の目よりも、自分の気持ちを優先してみたくなった」

 心が震えた。
 この人が、自分のためにそこまで言ってくれるなんて、思ってもみなかった。

 「……私も、変わりたいって思ったんです。あの夜、橘さんと話して。怖くなかった。むしろ、安心した」

 二人は、夜明け前の薄明かりの中で、そっと手を重ねた。

 夜はいつか明ける。
 でも、あの夜のことは、ずっと消えない。