初めて終電を逃してしまった。駅から歩いて帰ると軽く四十分ほどかかる。
タクシーは極力使いたくない。理由としては一度ハズレの運転手を引いてしまい、あからさまな遠回りをされた挙句、住所を聞き出そうとしてきたからだ。
警察に通報するぞ、と番号を入力したスマホ画面を見せて、その場は乗り切ったが、トラウマになってしまい、ひとりでタクシーに乗れなくなった。
「俺、歩いて帰りますけど、みゆさんは?」
黒地にワンポイントの刺繍がされたオーバーサイズのTシャツに黒のワイドスラックス、シンプルの中にある気品さは、彼、水瀬涼を象徴しているようだ。
「私も歩くよ」
「は、彼氏は?迎えにきてもらえばいいのに」
「多分、残業。連絡つかないし」
スマホを持つ手に力が入る。おかげで指先が赤い。
「社会人って大変なんすね」
「そうみたいだね」
私には社会人二年目の彼氏がいる。
出会いはダーツバーで、私は大学の友達と、彼は会社の同期と一緒に来ていた。ダーツ初心者だった私に手取り足取り教えてくれたのが彼で、目鼻立ちのはっきりした顔や、落ち着きのある所作、心地の良い声色が私の心をときめかせた。
連絡先を交換して、何度かデートを重ねて、恋人同士になるまでに、そう時間はかからなかった。
「帰る方向どっちでしたっけ」
「えと、西口を出て右かな」
「じゃあ行きますか」
「え、どこに?」
「西口出て、右」
「それ私の帰る方向だよ?」
「送ります」
長い足が西口へと向かうので、背中を追いかける。
「送るって、水瀬くんも同じ方向なの?」
「ぜんぜん違う、むしろ逆」
「え、うそ、それなのにどうして」
「迷惑だったらやめるけど」
「迷惑じゃないよ、ただ、その、申し訳なくて」
「それが理由なら、黙って送られて」
「…ほんとに、いいの?」
「いいから言ってる」
「…じゃあ、お願い、します」
「はい」
ここは、彼の優しさにあまえてみることにした。
⬛︎
『水瀬です。よろしくお願いします』
三年前の夏、焼き鳥の安さと品数の多さを売りにした昔ながらの居酒屋にオアシスが現れた。
水瀬くんを見たとき、どうしても煙草や炭の煙で黒くなった壁、油の独特な匂い、何度掃除しても取れない床の汚れよりも、お洒落なBGMが流れる清潔感あふれる店内でコーヒーを淹れている姿が容易に想像できて、バイト先、間違ってない?と本気で心配になった。
一度、『どうしてこんな汚い居酒屋を選んだの?』と聞いたことがある。すると、『まかないが一番うまそうだったんで』と、高校生の男の子らしい素直な返事が返ってきて、そこでやっと、納得できた。
水瀬くんはとにかく仕事ができた。飲み込みが早く立ち回りもうまい。大人顔負けの佇まいで、彼がいるとホールやキッチンが効率よく回った。
ただ。
『おにーさん、めっちゃかっこいいですね』
『え、すきなんだけど!』
『連絡先教えてくださーい』
『この中で誰が一番タイプですか?』
『興味ないっす』
ルックスがいい故に女性客からいじりの標的にされ、そのたびに容赦なく本音で返すから、こちらとしては何度もヒヤヒヤさせられた。
ちなみにそれは今も変わらない。
「彼氏から連絡きました?」
「んーん、音信不通です。ていうか未読無視です」
「ほんとに残業なんすか」
「ちょっと待って、こわいじゃん、やめてよ!」
「怪しいっすね」
「ねえお願い、それ以上、私を不安にさせないで!」
「はは、おもろ」
「ぜんっぜんおもしろくないし!!」
トーク画面を眺める。彼氏にはバイト前の十七時に一度メッセージを送っていて、そのメッセージさえもいまだに未読だ。直近のやりとりは今朝の《おはよう》絵文字なしの一言。おはようと送り返して既読無視。これは私が反省している。おはように対しておはようと返せばそのあとに何を返せばいいかわからないし、なんなら完結してしまっている。この点については彼氏を責める気は微塵もない。だけど。だけどさ、バイト前に送ったメッセージはせめて既読にしてほしかった。ちゃんと見てるよって。じゃないと不安だよ。いろんな意味で。
「そんなに気になるなら送ればいいじゃないですか」
「なにを送ればいいの?」
「知らんし」
「一緒に考えてよ!」
「やだ、めんどくさい」
言い出しっぺのくせに!!
「水瀬くんが私の彼氏の立場になったとき、何度もメッセージが届いたら、どう?だるい?」
「別に、なんとも。そもそも好きな人からだったら嫌じゃないし」
「そっか、なるほど。じゃあ思い切って送ってみようかな。お疲れさま的な」
「おー、送れ送れ」
めちゃくちゃめんどくさがるじゃん。
悔しいぐらいに綺麗な横顔を横目にメッセージを打とうとしたそのとき、前に送っていたメッセージに既読がついた。突然のことで思わずスマホを水瀬くんに預ける。
「は?」
「既読ついた!」
「よかったじゃん、で、なんで俺に渡すの」
「な、なんか、こわくて」
「あんたの方がこわいわ」
無理やり握らされたスマホを片手に、はあ、と溜息をつく水瀬くん。
「どうすればいいの、これ」
「なんかメッセージ来てるかな」
「見たら?」
はい、と渡されたけど、ぶんぶん顔を振って押し返す。
「俺に見ろ、と」
「(こくこく)」
「はあ」
「お願いします」
心底だるそうな水瀬くんの視線が画面に落ちる。画面をじっと見つめて、何度か瞬きをしたあと、無言でスマホをこちらに向けた。
液晶からこぼれる明るい光に浮かび上がる黒い文字は私をひどく動揺させた。
「え、と、これ、どういう、意味だと思う?」
「そのまんまの意味だと思いますよ」
「私の目がおかしくなったとかではない?」
「だとしたら都合よすぎですね」
「そっか、そうだよね、うん、そうか」
ちょっとごめんね、と水瀬くんに背を向ける。
《他に好きな人ができた》
《別れてほしい》
《ごめん》
あー、やばい、やばいな。
ていうか、別れ話をメッセージ三通で終わらそうとしてるの、おかしくない?せめて電話しようよ。お互いの声を聞いて、ちゃんと話し合おうよ。一方的なの、ずるいよ。残された私に、なにも言わせてくれないの?ほんとに、もう終わりなの?
内側から込み上げてくる熱が目頭を熱くする。顔をあげて両手でパタパタして、なんとか乾かそうと試みてもあたたかな涙は絶え間なく頬を濡らす。
「ごめんね、水瀬くん。泣くつもりとかなくて、なんかちょっとびっくりしちゃったっていうか、いやー、さすがにね、うん、ごめん、こんなつもりじゃ、」
「もうしゃべんなくていいです」
「ごめ、っ、」
「あと謝んのもやめてください、みゆさん悪くないし」
「っ」
ぎこちなく乗せられた手のひらが頭を撫でる。撫で慣れてない骨張った手が今の私にとって安心材料だったりする。手は次第に耳を掠める。そして、そのままぐっと優しい力で引き寄せられた。いつの間にか隣に立っていた水瀬くんの腕の中にすっぽり収まった私はダイレクトに彼の心臓の音を聞く。どくん、どくん。規則正しい音がなぜか無性に心地よくて、また涙があふれた。
「水瀬くんの心臓の音うるさいね」
「いちいち言わんでいいし」
「なにこれどういう状況なの?」
「みゆさんが泣いてんのきつい」
「先輩の涙は見苦しいってこと?」
「だとしたら捻くれすぎでしょ俺」
はは、と小さく笑う水瀬くんの顔が私の頭の上に乗る。
「みゆさん、ちっちゃいですよね、何センチ?」
「154ぐらいだったかな」
「彼氏は?」
「170はあるって言ってたよ」
出会った当初の話だけど今は知らない。
「俺と、どっちが高い?」
「絶対、水瀬くん!」
「勝った」
「勝ったって、競ってるの?」
「そうですよ」
俺180あります、と少し自慢げに話す。
「勝負とか興味なさそうなのに」
「誰と勝負するかが重要だから」
月明かりに照らされる彼のフェイスラインを眺めていると、ふいに落とされた三白眼と目が合う。
「あんな奴のために泣くのもったいないよ」
「うん、ほんとにね」
まつ毛に残る涙を親指の腹で拭ってくれる。
あまりにも穏やかな表情に、涙がまた溢れそうになったけど、ぐっと堪えた。水瀬くんの前で泣くのは、縋っているように思えて、嫌だったんだ。
「初めて行ったデートは水族館だったの。ペンギンに触って、かわいいねって笑い合って、おそろいのペンギンのキーホルダー買ってさ、バイト用の鞄に付けてるんだけど、あ、これね。かわいくない?」
ショルダーバッグについているキーホルダーを見せる。
「かわいくないって言ったら?」
「そりゃ悲しい」
「じゃあかわいい」
「じゃあってなんなのさ〜!」
水瀬くんはペンギンのキーホルダーに視線を落とし、なにを思ったのか、指先でピンとはねた。
ゆらゆらと揺れるキーホルダー。
「初デートの話とか、まじで興味ないんですけど」
むく、と頬が膨らむ。
見たことのない表情に、かわいい、と素直に思ってしまった。普段、無口で、あまり表情を表に出さない水瀬くんの知らない一面をここで知れるなんてレアすぎる。
膨らんだ頬を人差し指でつついてみる。
「かわいいね」
「は、だる」
ふい、と顔を背けて、じと、と睨まれる。
なんだろう、このかわいい生き物は。
「怒った?」
「怒ってない、むかついただけ」
「それを怒ってると言うのでは?」
「俺のこと、こども扱いすんのやめてくれません?」
「してないよ、かわいい後輩だな、とは思うけど」
「はあああ」
特大ため息。
あまり揶揄うと本気で怒っちゃいそうだから、ここまでにしておく。バイト先では見れないかわいい水瀬くんは心の中にしまっておこう。
ミッドナイトブルーに広がる無数の星がきらりと光る。
「水瀬くんってプラネタリウム行ったことある?」
「急になに。……行ったことないですけど」
「そうなんだ、私、一回だけ行ったことあるよ」
「彼氏と?」
「ううん、違う」
「また彼氏と行った自慢されんのかと思った」
「しないよ」
小学校低学年のとき、父と地元の小さなプラネタリウムに行ったっきりだなぁ。今にも届きそうで、手を伸ばしてたっけ。掴もうと思っても掴めない事実に、こどもながら、寂しくなったなぁ。
今、まさにそんな気分なんだよね。
いくら手を伸ばしても、ぬくもりを感じることも、声を聴くことも、肌に触れることもできない。
いくら私が足掻いてみても、彼の気持ちが私へ向くことは、もう、二度とないだろう。
「プラネタリウム行く?」
水瀬くんは天を仰ぐ。
星の輝きに劣らない、美しい横顔に思わず目を見張る。
「なんかさ、水瀬くんって、綺麗な顔してるよね」
「みゆさん、俺の話聞いてました?」
「うん、聞いてる」
「はあ。どうすんの、プラネタリウム」
「プラネタリウム行く!行きたい!」
「…あ、そ」
わしゃわしゃ、と髪を乱される。
「ぐちゃぐちゃになったじゃん」
「どうせ家帰るだけでしょ」
「そうだけどさ…」
だめだ、気になる。
とくに前髪の乱れは精神の乱れだと思ってるから、たとえバイト終わりでも、ちゃんと整える。
「みゆさん」
「んー?」
前髪の隙間から、水瀬くんを見やる。
「恋に傷ついたら、恋で癒せって、どっかの誰かが言ってた気がするんですよね」
ふわり、夜風が整えたばかりの髪を揺らす。
「ねえ、みゆさん。時間、かかってもいいからさ、俺と、恋しようよ」
一歩、二歩と先を歩く水瀬くんの足が止まり、シルエットが月明かりに浮かんだ。
「……えっと、水瀬くんって、」
「好きですよ」
「待って」
「好きです、みゆさんのことが」
「っ、わ、わかった、から!」
「早く俺のこと好きになんないかな」
「本気…?本気で言ってるの、それ」
「冗談で言うわけないでしょ」
「…なんか、顔、熱くなってきた」
たまらなくなり、手で顔を仰ぐ。
すると、その手を掴んだ水瀬くんは自分の顔にぴたりとくっつけて「俺も熱い」と気の抜けた表情を見せた。
きみはバイト先の後輩で、それ以上でも以下でもない。
だから、きみとロマンスはうまれない
……はず、だよね?
END



