わたしたちは、少し変なのかもしれない。

 1年間の同棲生活に終止符を打った今日も、わたしと元同棲相手の鷹池孝介(たかいけこうすけ)は、ふたりで会社帰りに居酒屋で()んでいた。

 同棲を解消するということは、2年続いた恋人関係も解消したということなのに、わたしたちはなんでもないような顔をして、こうしてビールのジョッキを傾けている。

 わたしは孝介に気づかれないように、そっと腕時計で時刻を確認する。

──なにを期待しているのだろう?

 このまま、ひとりの部屋に帰りたくないなんて思っていて、このまま、別れたら孝介とは終わりなんだって現実を突き付けられるのが怖くて、そして──やっぱりなにかを少し期待している。

 そう、少しだけ。

 だから、気づいてほしくなかったのに、目の前で枝豆をつまんでいた孝介が、はっとしたようにスマホを確認する仕草を見て、わたしの淡い期待は泡となって消えた。

「こんな時間か。
 俺はまだ終電に間に合うけど、美雪(みゆき)は駄目だな」

 終電を逃したことなど、わたしはとっくの昔に知っていた。

 知っていて、気づかないふりをしていた。

 白状してしまえば、終電を逃すことを、望んでいたのだ。

 少しでも、長く孝介といたい、そんな思いからだった。

「タクシー捕まえて帰れよ」

 そう言って、かばんから財布を取り出した孝介は、わたしに五千円札を渡してきた。

 孝介の言葉に、わたしの胸に失望が訪れる。

──やっぱり、「遅くなったから、うちに泊まって行けよ」なんて、言ってくれないよね。

 だって、わたし、孝介のマンションの部屋から荷物を運び出したばかりだし。

 それ以前に、わたしたち、もう同棲相手でも恋人同士でもないんだしね。

 わたしは、目の前に差し出された五千円札を受け取るべきか、しばし迷う。

 痺れを切らした孝介が、お札をわたしの右手にねじ込む。

「格好よく一万出せればいいんだけどな。
 今日のところはこれで我慢してくれ」

 『今日のところは』?

 まだ、ふたりきりでわたしと会う気があるということなのだろうか。

 わたしのなかで、矛盾した期待がむくむくと膨らんでいく。

 サラリーマンばかりの居酒屋は、まだまだ喧噪で満ちている。

 酔ってテーブルに突っ伏しているくたびれた中年男性が客のほとんどだ。

 あちこちから、家族の自分への扱いへの不満だとか、上司の愚痴だとかが漏れ聞こえてくる。

 わたしと孝介も、よく嫌われている上司の愚痴をこぼし合ったものだ。

 孝介が慌ただしくスーツの上着を羽織り、かばんを持って立ち上がろうとする。

「帰るの?」

「ああ、まだ終電に間に合うからな」

 まだなにかを期待しているわたしも立ち上がる。

「駅まで送るよ」

 わたしがそういうと、孝介は苦笑した。

「それ、男の台詞だろ。
 いいよ、送らなくて」

「ううん、行く。
 駅前の方がタクシー捕まえやすいし」

「そうか」

 素っ気なく孝介がそう言って、会計を済ませてさっさと居酒屋を出ていく。

 秋の物悲しい乾いた風が纏わりつくように鼻腔と背筋を刺激する。

 寒いな、と思ってスーツの二の腕をさする。

 こういう仕草をしたとき、孝介はいち早く気づいてくれた。

 「寒いの?」って言って、手を繋ぐなり肩を抱くなりしてくれた。

 今は、わたしの一歩も二歩も前を歩いて、振り返る兆しすらみせない。

 ネオン煌めく歓楽街から駅に向かう人の波に紛れて、孝介を見失いそうだ。

 引き留めようと手を伸ばしかけ、やめた。

 孝介の背中が、拒絶していた。

 お前は、俺の、もう何でもないと、そう語っていた。

 無言のまま駅に着いて、孝介はギリギリ間に合った終電に乗り込む。

 昨日までは、わたしも同じ電車に乗り、同じ家に帰っていた。

 でも、今日からは違う。

 今日から、わたしたちは、他人になったのだ。

「じゃあな、気を付けて帰れよ」

 電車のドアが閉まり、孝介はわたしと見つめ合うことすらせずに、座席に座ってしまった。

 がたんごとんと音を立てて、電車が暗闇を切り裂いて走りはじめる。

 わたしを置いて。

 終電を逃したのだから、大人しくタクシーを捕まえて帰るべきだ。

 でもどうしても、引っ越したばかりのひとりきりの真っ暗な部屋に帰りたくなかった。

 ふらふらと今来た道を戻り、看板だらけの繁華街へと舞い戻る。

 不意に、涙が瞳を満たし、堪えきれずに溢れ出した。

 泣いた自分が恥ずかしくて、わたしは必死で目元を何度も拭うが、涙は止め処なく溢れて止まらない。

 夜の闇に紛れて、わたしは嗚咽を漏らした。

 どちらが悪いというわけではない。

 わたしと孝介は『合わなかった』のだ。

 ただ、それだけ。

 同棲までしたのだから、いずれ『鷹池美雪』になることを夢見なかったといえば嘘になる。

 鷹池孝介が、人生で最後の人なのだと、これは運命の恋なのだと、のぼせ上がっていたこともまた、事実だ。

 だから、やっぱり失ってしまうと、つらいものはつらい。

 悔しいし、悲しい。

 喪失感もすごい。

 わたしは夜闇を見上げて泣きながら、ふらふらと歩いた。

 そうして彷徨っているうちに、わたしの足は一軒のBarの前で止まった。

 薄暗い路地に挟まれるように建つそのBarに、(いざな)われるようにしてわたしは吸い込まれて行った。

 涼やかなベルの音を鳴らしながら店内に入る。

 ひとりで深夜のBarに入るなんて、初めての経験で、大人になったんだなあ、なんて、こんなときなのに感慨深かったりする。

 店内は闇色を基調としたシックな装いで、カウンター席がいくつか並び、半個室のような仕切られた空間もあるが、かなりこぢんまりとした店だ。

 このBarは、何回か孝介と来たことがあったので、わたしひとりでもなんとか立ち入る勇気が出た。

 カウンター席に座ると、バーテンダーが注文を()いてきたので、「カシスオレンジ」と呟いた。

 お酒の種類は詳しくない。

 とりあえず、カクテルは甘ければいい、そういうと、孝介は「じゃあ、美雪はカシスオレンジだね」とわたしの代わりに注文してくれた。

 それ以来、わたしはカシスオレンジしか頼まない。

 バーテンダーがカクテルを生み出す様子をぼうっと見ていると、「あれ、鈴野(すずの)先輩?」と、わたしを呼ぶ声があった。

 一番離れたカウンター席に、見覚えのある人物が座っていた。

古賀(こが)くん……。
 どうしたの?」

 それは、会社の1年後輩の古賀龍矢(こがりゅうや)だった。

「どうしたって……Barにいるんだから、呑んでるに決まってるじゃないですか。
 先輩、ひとりですか?
 鷹池先輩は?」

 古賀くんは、人懐こい性格な上に、高校生かと見まごうような童顔で、()でられるのが仕事みたいな、会社のマスコット的存在の24歳だ。

 整ったビジュアルだから、可愛い可愛いと、年上年下問わず同僚の女性社員からは大変な人気だ。

 わたしも、つい古賀くんのことは特別な目で見てしまう。

「今日はひとり」

 わたしはさっきまで流していた涙を悟られないように、毅然とした声を出した。

「奇遇ですね、おれもひとりなんです」

 そういえば、会社の飲み会の流れで孝介や同僚たちとこのBarに来たとき、古賀くんもいたっけ。

 それ以来通っている、そういうことなのだろう。

 古賀くんは、にこにこしながらわたしが座る席までにじり寄ってくる。

「先輩、振られましたね?」

 そして唐突に、とても無邪気な可愛い笑顔をわたしに向けながら、そう、ぐさりと心臓を(えぐ)る言葉を平然と放った。

 わたしが目を白黒させていると、古賀くんはいたずらっぽく笑みを浮かべてみせた。

「わかりますよ、おれ、先輩のことしか見てませんから」

 古賀くんがどこか自慢げな、勝ち誇ったような表情になる。

 わたしはあからさまに渋面を作る。

 わたしとひとつ年上の孝介は同じ職場で働いている。
 
 付き合いはじめたことも、同棲をはじめたことも、職場には筒抜けだった。

 だから、わたしたちの関係がぎくしゃくしはじめたことに誰かが気づいていたって、なんら不思議なことはない。

 ただ、古賀くんの今の台詞に込められている意図に気づいて、わたしは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。


 それは、孝介と同棲をはじめて、少し経ったころのこと。

 わたしたちは、付き合いはじめて一番激しい喧嘩をした。

 付き合うことと、一緒に住むことは、全然違うのだと、その喧嘩で思い知らされたものだ。

 習慣も生活リズムも違う他人と暮らすということは、我慢と妥協の連続であり、わたしも孝介も、お互い、かなりストレスを溜めていた。

 一緒に暮らしはじめて、わたしと孝介は、徹頭徹尾、『合わない』と実感させられた時期でもあった。

 それでも、上手くやろうと我慢したのだ。

 だって、同棲するということは、少なからず将来のことを考えていないと踏み切れない、覚悟がいることだ。

 しかし、同棲を開始して間もなく、わたしが不満を爆発させてしまい、売り言葉に買い言葉で、これ以上ないほどの言い争いになった。

 もう孝介と将来のことなんか考えられない、そう心が(すさ)んでいたとき、その隙を突くように、わたしは古賀くんに告白された。

『おれ、鈴野先輩が好きです。
 先輩には、鷹池先輩より、おれのほうが合うと思いますよ』

 そう、真っ直ぐな瞳で告げられたわたしの心は揺れた。 

 まるで、わたしが孝介と『合わない』ことに悩んでいるのを見越したような言い方に、会社の後輩としてしか見ていなかった古賀くんを強烈に意識してしまった。

『おれなら先輩を泣かせたりしないし、幸せにできると思います』

 古賀くんなら、どう私を幸せにしてくれるんだろうって、わたしは本気で考えてしまった。

 けれど、そのとき、まだわたしは孝介と別れるつもりはなくて、どうにか仲直りして、軌道修正しようと躍起になっていたから、飲みの席での、勢いに任せた発言として、曖昧に笑って受け流したのだった。

 古賀くんだって、わたしが孝介と付き合っていると知っているのだから、まさか本気で告白なんてしないだろう、とわたしは取り合わなかった。

 古賀くんは、自分なら誰でも受け入れてくれる、と思っている自信家なのだろうか、とさえ思った。

 ただ、告白されたそのときから、わたしは古賀くんを意識せざるを得なくなった。

 
 やがて、わたしは力尽きた。

 同棲して1年、我慢と妥協を重ねて、わたしの心は疲弊していた。

 何度やり直そうとしても、無理だった。

 友達として付き合っていたころなら気の置けない同僚として上手くやっていけるのに、恋人になると、途端にわたしたちの関係は破綻してしまうのだ。

 ただ、『好き』というだけではどうにもならない現実が、わたしと孝介の間にどすんと横たわっていた。

 日に日に孝介と険悪になり、投げやりな気持ちで過ごすうち、わたしの視線は自然と古賀くんを追うようになった。

 彼はいつも女子社員と楽しそうに談笑していた。

 他人との間にある壁なんて、彼には存在しないも同然だった。

 そんな彼がなぜ、わたしに告白してきたのかわからなかったが、彼が誰彼構わず声をかけて回るような軽薄な人間でないことは、彼の他人への接し方を見ればわかった。

 だから、彼に告白されたという事実は、わたしのなかでは革命だし、誇りだった。

「先輩、おれ本気ですよ」

 薄暗いBarのカウンターで、わたしの隣に座ると古賀くんは真っ直ぐわたしの目を見てそう言った。

 過去を回想していたわたしは、古賀くんのあまりにも真摯で真剣な眼差しをまともに食らって、つい狼狽(うろた)えてしまう。

「……古賀くん……。
 わたし、振られたばかりだよ?」

「知ってます。
 鷹池先輩、鈴野先輩を捨てるなんて見る目ありませんね」

 古賀くんは、ジントニックが注がれたグラスを傾けながら口元に仄かな笑みを浮かべた。

「だから、おれにしておけばよかったんですよ。
 おれなら、鈴野先輩と『合う』って、言ったじゃないですか」

 自信満々に言われると、なんだかそれが真実のような気がしてしまうから不思議だ。

 ぐい、とグラスの中身を呑み干した古賀くんが、わたしにずいっと顔を近づけてくる。

 近い。

 わたしがその綺麗な顔から仰け反るように身体を離すと、カウンターに置かれたわたしの手に、彼が自分の手を重ねてきた。

「ここで会ったのもなにかの縁だし、先輩、おれと付き合って、鷹池先輩のことを見返してみませんか」

「……は?
 今日彼氏と別れたばかりなのに、もう新しい彼氏を作れって?」

「駄目ですか?
 いいじゃないですか、別れたんだから、フリーでしょ。
 恋愛は自由ですよ」

「あのねえ……。
 失恋したばかりのわたしをからかって傷口に塩を塗るつもり?
 それとも、わたしって、そんな軽い女に見られてるの?」

 すると、古賀くんが残像が目に残りそうなほど激しく首を左右に振る。

「そうじゃないです。
 おれはずっと先輩に片想いしてきました。
 先輩のことなら誰より見てきたつもりです。
 先輩が誠実な人だと、わかってます。
 おれが、好きになった人ですから。
 傷ついた先輩につけ込むつもりはありません。
 ただ、おれは鷹池先輩が許せないんです。
 おれが好きな鈴野先輩をひとり占めしてるくせに、全然先輩に優しくしてやらない……それがむかつくし、そんな男が鈴野先輩の恋人ヅラしてるなんて、耐えられなかったんです」

 穏やかな古賀くんが珍しく険しい顔をして、辛辣(しんらつ)な言葉で孝介を(なじ)る姿に、わたしは少し目を見張る。

 彼がこんなにも強い想いを寄せてくれていたことに触れて、ふと、わたしの心は軽くなった。

「だから先輩、おれと付き合ってるふりをして、鷹池先輩に幸せなところ見せつけて、ざまあしてやりましょうよ。
 そのためなら、おれのこといくらでも利用していいですから。
 先輩は鷹池先輩が憎くないですか?
 おれは憎いです。
 復讐してやりましょうよ、憎き鷹池先輩に」


 わたしは顎に手をやりながら、言葉を選んで言う。

「契約彼氏ってこと?」

 すると、いつものにこにこ顔に戻った古賀くんが大きくうなずく。

 わたしの理解は正しかったようだ。

「そうですよ、別に本気になったっていいですけど」

 わたしは古賀くんを凝視して、酔いを()まして冷静になろうと努める。

 ここで判断を間違えたら、ずっと後悔することになる、そんな危機感や焦燥感がわたしの胸を満たす。

「好きですよ、先輩」

 目の前で、古賀くんが、わたしだけに甘くささやいて心の内を惜しげもなくさらけ出す。

 その姿に、わたしも真摯に答えなければいけない、そう思わされた。

 居住まいを正して、わたしは慎重に言葉を選ぶ。

「古賀くん」

「はい?」

「復讐とか、ざまあとかのつもりで付き合うのはわたし、気が進まない」

「そう、ですか……」

「ねえ、覚悟があるかって訊いてるの」

「覚悟?」

「契約彼氏なんて軽い気持ちで付き合いだして、わたしが本気になったら、古賀くん責任取ってくれるの?」

 古賀くんは、ぱちぱちと大きな瞳を(またた)かせる。

「本気に、なってくれる可能性、あるってことでいいですか?」

「そうだよ、振られたばかりの女が、人恋しさにほだされただけかもしれない。
 でも、予感がするの。
 古賀くんといたら、わたし、きっと本気になる。
 わたしと付き合う覚悟が、古賀くんにある?」

 驚いたような表情になったあと、輝くような笑顔になって、古賀くんがうなずいた。

「当たり前じゃないですか!
 先輩に本気になられたら、おれ、どんなに嬉しいか!
 先輩が恋人になってくれるなら、鷹池先輩に復讐だのざまあだの、そんなのどうでもいいですよ!
 鈴野先輩といられるだけで、もうなにも望みません」

「大袈裟だなあ。
 わたしはそんな理想の彼女になれないと思うけど」

「先輩がおれの理想なんですよ、絶対泣かせませんから」

「期待してるよ、龍矢くん」

 わたしが、からかい半分で言うと、古賀くんは瞳をきらきらとさせて何度もわたしの手を握ってきた。

 彼のあまりの喜びように、わたしもつい嬉しくなってしまった。

 彼の一番になりたいな、理想を崩したくないな、と思ったが、そこに肩肘張った妙な力みはない。

 孝介といたときに常にそばに()った、緊張感のようなものは、古賀くんを前にしては生まれなかった。

 孝介の理想の彼女にならなくては、と自分で自分を縛りつけていたのだと、今ならわかる。

 同じように、わたしも孝介に、理想の彼氏像を抱いていて、それが崩れそうになると不満を感じていたのだ。

 理想を押しつけ合えば、軋轢(あつれき)も生まれる。

 疲れてしまうわけだ。

 相手の理想を具現化できる人間など、そうそういるものではないというのに。

 古賀くんの前では、自然体の自分でいられるかもしれない──そう思うことが、また新たな『縛り』を生んでしまうのかもしれないが、今はとりあえず、古賀くんの愛情に身を委ねていたい。

 心地よく揺蕩(たゆた)いたい。

「龍矢くん」

 わたしは噛み締めるように彼の名前を呼ぶ。

「会社のみんなには、しばらく黙っておいてね」

「ええー、明日朝イチでみんなに触れ回ろうと思ってたのに」

「絶対駄目。
 わたしの評判が悪くなる」

「別に先輩が軽いなんて誰も思いませんよ」

「そうじゃなくて……」

 古賀くんは、自分がどれほど社内の女性に人気があるのか自覚していないようだ。

 孝介と別れた途端に古賀くんと付き合いだしたら、どれだけ顰蹙(ひんしゅく)を買うか、古賀くんにはわからないのだろう。

 女性には、男性には到底考えが及ばない、どろどろとした愛憎が渦巻いているものなのだ。

「しばらくは駄目、わかった?」

「……わかりましたよ」

 しゅんと耳を垂れた仔犬のように古賀くんはうつむいて、渋々といった様子で快諾してくれた。

「じゃあ先輩」

 気分を切り替えたのか、ばっと古賀くんが顔を上げる。

「もう一軒、呑みにいきませんか?」

 そこに宿った純粋な笑顔に、思わずつられて笑ってしまう。

「わかった、どうせ終電も逃してるんだし、気がすむまで付き合うよ」

「本当ですか?!
 あー、今日この店にきて、本当によかった。
 こんなことになるなんて、思いもしませんでしたよ」

「それは、わたしも同じだよ」

 孝介と一緒にいたいがために逃した終電が、こんな展開を生むなんて、わたしだって思わなかった。

 つくづく、人生はわからないものだ。

「じゃあ、行きましょう。
 日付けが変わったら、付き合って1日目記念日ですよ」

 わたしは苦笑いしながら席を立つ。

「龍矢くんて、記念日大切にする方?」

「そうですね。
 ……重いですか?」

「うーん、わたし、結構ズボラだから、記念日とか忘れがちなんだよね」 

「毎年記念日には薔薇の花を贈りますよ」

「あ、重いかも、それ」

「えー、まじですかあ」

 そんな会話を交わしながら、わたしたちはBarを出た。

 不夜城にも似た繁華街の淀んだ空気が、服の隙間から侵入してくる。

 わたしたちは、次の店を探して歩き出す。

 悲しげだった秋の風が、火照った頬を心地よく醒ましていった。