1月下旬。大学の卒業論文提出と研究発表で慌ただしかった日々がようやく落ち着き、学生生活最後の冬休みに入った。
今日は夕方からゼミのメンバーで集まりお疲れ様コンパをしていたが、3年生の頃から苦楽をともにしてきた戦友たちとの話は尽きず、2次会、3次会……と場所を変えて楽しんでいるうちにすっかり夜が更けてしまっていた。
「時間もアレだし今からカラオケオールしちゃう?」
「明日バイトあるから私はそろそろ帰ろうかな」
「オッケー、じゃあ冬休みの間にまた遊ぼ!」
「うん、また連絡するね」
3軒目の店を出るとちょうど強い風が吹きつけてきて、お酒で気持ちよく火照った顔が容赦なく冷やされる。
寒い寒いと悲鳴を上げながらカラオケへ向かおうとするゼミ生たちに手を振って、ひとり足早に駅のほうへ歩き出すと——誰かが、私のすぐ後ろをついてくる気配がした。
「……あ、小幡くん」
振り返ってみると、私の5メートルほど後方に、スヌードに口元を埋めモッズコートのポケットに手を入れながら歩いてくる同じゼミの眼鏡男子。
先ほどまでテーブルの端で静かに飲み食いしていた彼が、私の呼び掛けにぺこっと小さく会釈をした。
「……小幡くんももう帰るの?」
「あぁ、俺も明日バイトがあって」
「駅方向?」
「うん」
なんとなく小幡くんが私に追いついてくるのを待ってから、横並びになってまた歩き出す。
そういえば、今日は5時間以上一緒にいたのに彼とちゃんと言葉を交わすのは初めてかもしれない。
どの店でも席がことごとく離れていたのもあるけれど、なんというか……私は今日に限らずこの4年間ずっと、卒業間際になってすら、いまだに彼との接し方がよくわからずにいるのだ。
「……この道風が吹き抜けるから寒いね」
「そうだね」
「……」
コミュ力云々については私もあまり人のことは言えないが、小幡くんは自分からペラペラ話すタイプではない。飲み会にもあまり来ないし、今まで絡みもほとんどなかった分当然ながら会話が続かない。
自分から声を掛けたもののどうにも居た堪れず、私はバッグからスマホを取り出して時間を見た。
「なんだかんだ結構遅くなっちゃったよね! 電車まだあるといいけど……」
「いや、もうない」
「え?」
「終電、さっきもう通過してる」
「え!?」
場をもたせるための、当たり障りのない話題のつもりだったのに。
小幡くんの口から衝撃の事実を知ってしまった。
待って、本当に?
あまりにも小幡くんが冷静すぎるので、念のためスマホで時刻表を調べてみる。
最終電車が23時40分。現在23時50分。電車遅延情報はなし。……完全にアウトだ。やってしまった。
「えっと……小幡くんも帰り同じ電車だったよね?」
「うん」
「……大丈夫?」
「うん。まぁここから2駅だし、歩こうかなって。河野さんはタクシー呼ぶ?」
極寒の中帰る手段をなくし頭が真っ白になる私とは逆に、俺アプリ入れてるからすぐ呼べるよ、と小幡くんはポケットから取り出したスマホを淡々と操作し始める。
その手があった! さすが小幡くん! と一瞬喜びが湧いたものの、いやいやちょっと待て、と私もすぐに冷静になった。
……タクシーに乗るの私だけ?
「方向一緒なんだから小幡くんもタクシー乗ろうよ、割り勘しよ」
「いや、俺は大丈夫」
「え〜、なんで」
「……かなり酔ったから、歩いて酔い覚ます。河野さんは気にせずちゃんと家の前まで乗って行って」
酔っただなんて、それは嘘だ。私は知っている。
小幡くんはそれほど酔っていない。確か最初の1杯目はビールだったけれど、その後はほぼソフトドリンクだったはずだ。
……我ながら、席が離れていたのにどうしてそこまで見ているんだという話ではあるけれど。
私に気を遣ってくれているのだろう。車内でふたりになることとか、私が先に降りるなら降車場所をどうするかとか。
でもアプリで配車するなら必然的に支払いも小幡くんがすることになるわけで、後日お金を返すにしても次はいつ会えるかわからない。
確実なのは卒業式の日だろうか。
……今日が終われば、卒業式まできっと私たちは会わないだろう。
そしておそらく、大学を卒業したら、もう顔を合わせることはなくなるだろう。今度こそ。
今度こそ、彼は私の思い出の中だけの人になってしまう。
「……じゃあ、私も歩こうかな」
「え、」
食い下がる私の言葉が意外だったのか、小幡くんは眼鏡の奥の切れ長の目を丸くした。
「一緒に酔い覚まししながら帰ろう。いい?」
「それは全然……河野さんがいいなら」
困惑した顔をしつつも小幡くんは小さく頷き、おずおずとスマホをコートのポケットにしまう。
強引すぎたかな。でも、もう少しだけ彼と一緒にいられると思うと、なんだか無性に嬉しくなった。
*
「……ちょっとコンビニ寄っていい? 何か温かいもの買いたい」
電車に乗るはずだった駅を通り過ぎ、次の駅の手前まで歩いてきたところで私は足を止めた。
さすがに1月下旬の深夜0時過ぎの寒さは尋常ではない。
顔の火照りもとうに引き、手袋をしていても手がかじかむ。
ちょうどコンビニの前まで来たので小幡くんを誘うと、彼も同じ考えだったようで「俺も買う」と二つ返事でついて来てくれた。
「あったかい……天国だ〜」
店内に入ると体の震えが収まり、息がしやすくなった。
自ら進んで便乗しておいてなんだけど、やっぱりこんなに寒い中歩いて帰るもんじゃないな……。
私は迷わずホットドリンクコーナーへ向かい、コーンポタージュの缶を手に取った。
大学でもよく飲んでいる、私の冬の定番だ。
ついでに何か軽食も買おうとぐるりと店内を回っていると——ふと、掲示されていたポスターに目が留まる。
「小幡くん小幡くん、」
レジでホットコーヒーを頼んだ小幡くんはコーヒーマシンの前に立っており、私が手招きするとカップを持ってすぐに側まできてくれた。
「見てこれ、くじ売ってる」
つい先ほど見つけた、子供の頃に流行ったゲームのキャラクターグッズが当たるくじ引きの販促ポスター。
クッションやお皿、メタルチャーム、ステッカーセットなど、景品は様々でどれも可愛い。
すべての賞で何かが当たり、ハズレがない親切設計だ。
このゲームが小学生の頃大好きだった私は、童心がくすぐられる。
思わず小幡くんを呼んでしまったけれど、彼も心惹かれたようでポスターをまじまじと見つめていた。
「へぇ……懐かしいな」
「ね。1回引いてみようかな」
私はそのままレジへ向かい、コーンポタージュとくじを1回分購入した。
店員さんが持ってきてくれた箱からくじを1枚引いてめくってみると、大きな文字でC賞と書かれていた。メタルチャームだ。
いくつか種類があり、中身が見えないパッケージから1つを選んで何が出るかは開けてみてのお楽しみ、というものだった。
「小幡くんも引く?」
「うん、じゃあ俺も1回だけ」
聞いてみたのはダメ元だったが、思っていたより乗り気だった小幡くんも私に続いてくじを1枚購入した。
「……C賞、一緒だ」
小幡くんも中身が見えないパッケージから1つを選び、満足した私たちはコンビニを出る。
天国だったのは束の間。再び冷たい夜風に触れて一瞬にして体が強張ったので、ひとまず出入り口横の軒下に留まりホットドリンクで暖を取ることにした。
コーンポタージュの缶を両手で握り、一口ひとくち大切に飲み込んでいく。
手、口、喉、そして体の中。じんわりと広がっていく温もりが心地良い。
ふぅ、とゆっくり息を吐きながら何の気なしに隣でコーヒーを飲む小幡くんを見上げると、なぜかパチリと目が合った。
その瞬間、頬まで熱くなった気がして。
私はすぐさま目を逸らしてしまった。
……あ、今の、感じ悪かったかも。
「せ、せっかくだから今景品開けてみる?」
「ん? うん」
気まずさを晴らすため何か話題を、と頭をフル回転させ、良いことを思いつく。そうだ、そもそも話題作りのためにこれを買ったのだ。
会計の後一度バッグにしまっていたくじの景品を取り出し、温まった指でパッケージの封を破る。
小幡くんもボディバッグに押し込んでいた景品を取り出してくれ、お互いにパッケージの中身を見せ合った。
「……あ、」
「一緒だ」
星型の枠の中でポーズを決める、一番好きなキャラクターのチャーム。
小幡くんと私の手にそれぞれ乗っているものは、星の形もキャラクターのポーズも表情も、まったくの瓜二つだった。
私たちは目を見合わせ、思わず声を出して笑う。
——すごい。まるで、
「え〜めっちゃ偶然! 結構種類あったのにね」
「ほんとすごい……なんか、あの頃思い出すな」
「あの頃?」
「小学生の頃」
——まるで、あの頃みたいだ。
「……っ、」
小幡くんが口にした一言と、今この瞬間自分が感じたことが重なり、言葉に詰まった。
「……ごめん。覚えてないか」
「あ、いや……ううん、覚えてるよ」
……あぁ、やっぱりそうだよね。思っていた通り。
私が覚えているなら、きっと彼も覚えている。
だって彼はずっと変わらない。
冷静で、聡くて、気遣い屋で。
だから私は、彼ともう一度関わることが少し怖かった。
どうしていいか、わからなかったのだ。
私の緊張を感じ取ったのか、小幡くんは眼鏡の奥の目を優しく細め、またコーヒーに口をつけた。
「学部一緒だし、入学した時から河野さんのこと気づいてはいたんだけど……河野さんが覚えてるかわからなくてあまり話せないままだった」
「うん……私も」
私は、ぎゅっとチャームを握りしめた手に視線を落とす。
彼とお揃いになるのは、これが初めてではない。
居住地が近い私と小幡くんは同じ小学校に通っていて、クラスも同じ。
そして、好きなゲームも同じだった。
お互いランドセルにつけていたキーホルダーが偶然そのゲームの同じキャラクターのもので、出席番号も近かったので私たちはすぐに打ち解けた。
ただ、同じ教室で授業を受け、休み時間を過ごし、次第に決まったグループに属するようになり。
月日が経つにつれ、彼との距離を感じるようになった。
小幡くんは凛として物静かな人だった。誰とつるむでもなく、休み時間にはいつも姿勢良く本を読んでいるような人。
同じクラスになったばかりの頃、私とゲームの話をしていた時は明るく振る舞ってくれたけれど、たぶん元々人とわいわいお喋りをしたり遊んだりするのは好きではなかったのだろう。
私は当時友達がそれなりにいて騒がしくしていたタイプだったから、自然と彼との関わりは減った。
それでも、彼のことを嫌いになったわけじゃない。お揃いの星型キーホルダーはずっとランドセルにつけて大切にしていたし、たまに同じ当番になった日やゲームの新情報が出た時には私から声を掛けて言葉を交わしていた。
——ねぇ、それあいつと一緒だね。仲いいの?
ある日、友達にキーホルダーのことを指摘された。
クラスの中心的な存在だったその女の子は、いつもひとりでいる小幡くんのことをあまり好ましく思っていないようだった。
きっと、その子にそんなつもりはなかったのかもしれないけれど。
私はそれを跳ね返せるほど強くはなくて。
軽蔑の目を向けられたような気がしたその一瞬が、私には心臓が凍りつくほど、恐ろしくて。
次の日から、私はキーホルダーをつけて行かなくなった。
そしてそのことに気付いたのか、しばらくして小幡くんのランドセルからもキーホルダーが消えた。
……あぁきっと、私は彼を傷つけた。
子供ながらに負い目を感じ、気まずくなった私は小幡くんに話しかけなくなった。
当然、彼から話しかけてくることもない。
その後何かが起こるわけでもなく、私たちは一言も話さないまま小学校を卒業し、静かに彼との縁は切れた。
私は友人をひとり失い、そして、6年後。
大学生になり、思いがけず彼と再会したのだ。
「私も小幡くんのこと覚えてたし、気付いてたけど、なんて声を掛けていいのかわからなかった。……ごめんなさい」
「全然。小学生以来で久しぶりすぎたしね」
「それもだけど、……あの頃も。キーホルダーのことも、話しかけなくなったことも、ごめん」
コーンポタージュで温まっていた指はすでに冷え、心臓も大きく脈打ち嫌な音を立てる。
保身のために彼を傷つけ、弁解もせず、彼をまたひとりにした。
そして再会してからの大学4年間、知らない顔をして、会話を避け、なるべく関わらないように過ごしてきた。
ずっと後悔していた。
忘れたことなんてなかったのに。
なんて自分勝手で、感じの悪い女だろう。
「……逃げてばっかりで、ごめん」
ぽろ、と目からこぼれ落ちてくる涙でさえも、憎たらしくて、情けない。
彼は今、どんな顔をして私を見ているだろう。
今更こんなことを言われても困るに決まっている。
やっぱり、一緒に帰るなんて言わなければよかった。
大人しくひとりでタクシーで帰って、卒業までこのまま知らないふりをしていれば——
「逃げてたのは、俺のほうだよ」
ただ俯いて漏れ出てきそうな嗚咽を堪える私の頬に、不意に温かい手が触れる。
そして親指でぐい、と目尻に溜まった涙を拭われた。
恐る恐る顔を上げると、小幡くんが、笑っていた。
「あの頃、ずっとひとりだった俺に話しかけてくれるの嬉しかった。今日だって、一緒に歩いて帰るって言われて本当は嬉しかったんだよ。嫌われたと思ってたから受け身になりすぎてた」
——あの頃。小学生の頃、私と話をしていた時の、私にだけ見せる一番星のようなキラキラとした彼の笑顔を思い出す。
もう、失ったと思っていたのに。
彼はまだ私を気にかけてくれていた。
いつもは参加しない苦手な飲み会に顔を出してくれたのも、私が帰る時について来てくれたのも。
きっと彼は最後にもう一度、勇気を出して私の手を掴もうとしてくれた。
「……嫌ってるわけ、ないよ」
「それならよかった」
小幡くんはもう片方の手に握ったままだったチャームを、ボディバッグのリングにつけた。
どう? と見せてくる彼に、つられて私も笑ってしまう。
「ふふ、可愛い。私もつけようかな」
かじかむ指で自分のチャームをバッグの持ち手に掛けようとしたが、手が震えて上手くいかない。
見かねた小幡くんが手を差し伸べてくれ、数十秒の格闘の末私もチャームを身につけることができた。
……これで、やっとまた、お揃いだ。
誰に何を言われても、もう手放したりしない。
「さ、あと1駅分頑張ろう」
寄り道をしている間に、時刻はもう1時になっていた。
コーンポタージュとコーヒーを手に、私と小幡くんは静かな寒空の下をまた歩き始める。
先ほどまでのぎこちなさが嘘のように、空白だった時間を埋めるように、私たちはゆっくりと尽きることなく言葉を紡いでいく。
……あとで、冬休みの予定も聞いてみよう。
私はそんなことを考えながら、バッグに揺れる星をそっと撫でた。
END.


