爽涼の誘惑を振り切って俺達はイグルーを飛び出した。
 地上と違って蒸し暑さがない分、出てしまえばなんてことなかったんだが。


 鉛筆とスケッチブックだけの軽装備。借りたアロハと水着に着替えて波打ち際に立つ。

 地下ダンジョンとは思えない広々した空の蒼さを浴びて、波のざわめきに耳を澄ませた。

「海、きたぁー!」

 白い網目模様を描き、エメラルドからシアンへ変化する水は透き通っていた。沖の方にはサンゴ礁らしきカラフルな柄も見える。

 サーフィンは出来そうにないが、海水浴には十分な波が立っていた。
 実態は海というよりは湖、湖というよりはプール……その程度の大きさな水溜まりだ。

「地下だったのに波があるってのも不思議だよなあ」

「ソーヤ、お待たせ!」

「こっちこそお待ちかね――」

 振り向いて数秒、呼吸を忘れた。

 ほんのり焼けた肌の上を覆う、黄色と白を基調にしたフリルの水着。柔らかな布から目を背けても、体のゆるやかな曲線に目が行ってしまう。
 揺れる麦茶色の髪はいつにも増して艶っぽい。笑顔でピースする姿は向日葵、いや最早太陽そのものの明るさだ。

 スズカの新鮮な水着姿に、また理性が蒸発した。

「……模写して良い?」

「だだっ、ダメに決まってるでしょっ!? あんまりジロジロ見るなぁ!」

「いやぁ、あまりにも似合ってたからついさ。スズカらしくて良いチョイスだと思うぜ!」

「そ、ソーヤっていつもそうやって揶揄(からか)ってくるよね。私が女の子っぽくないからって……」

「いや、女の子全開だから言ってるわけだけど?」

 彼女は羞恥で耳まで真っ赤に染めているが、反応的に多分冗談だと思われてるらしい。

 次は何て褒めようと考えていると、後ろからベシベシ叩かれた。

「こちら沿岸警備隊でーす。変質者の処刑に来ましたー」

「あだっ、いてっ、ユキそれ何で叩いてんだ!?」

「ボディーボード。いっぱい食らえ」

 ボディーボードの角は存外痛かった。

 小突き続けるユキは黒いウェットスーツに足ひれ、ゴーグルを装着している。遠目だと完全にペンギンにしか見えない。
 そんなペンギン少女の横では子アザラシが笑っているような目を向けている。

「スズカの水着を前にしてその落ち着き……さては年中女の裸を見てるな? スケベ大魔神」

「裸婦の絵はまだ書いたことねーよ。半裸の水泳部男子でならあるけど」

「裸ってそっちかよ。この絵描きバカ」

「ブモッ!」

「モチマロまで……確かに眼福だけど、目に見えて欲情するバカも珍しいだろ」

「なら坊主。お姉さんの水着のご感想はどうかなあ~?」

 目の前には自慢げにビキニを着こなすミカさんが立っていた。得意げにポージングまでして。

 髪色に寄せたレッドカラーの布地。絵に描いたように派手な水着だ。
 露出された肌も綺麗な色をしている。こっちの反応を楽しむいたずらな笑みもセットで。

 本人は自分のセクシーさを披露したいのかもしれない。
 ただそれより、俺はミカさんのだらしないへそ周りが気になった。

「ん」

「……は?」

 気付けばその腹をプニっとつついてしまってた。

「あ、ごめんなさい。つい」

 頭に一発、めり込むほどの拳骨が落とされた。

「レディのデリケートなボディーにいきなり触るとは。坊主、遺言はあるか?」

「ううっ、悪かったよ。けど気にしなくて良いと思うぜ? ジム通いもしてないない割には引き締まってるし、腹の肉付きも年相お――」

「踏み抜きやがったなクソガキィ! 肉とか歳とか言うなッ!!」

 俺は成す術なくミカさんにロメロ・スペシャルをかけられた。

 だが誰も助けてなんてくれない。流石に自業自得だった。

「ソーヤ、流石にそれはない」

「愚かだわー。人類稀に見るほど愚かだわー」

「ブモッ、ブモッ!」

「す、すんませんしただだだだだだだ!?」

 三人と一匹に処刑を見届けられながら、空を仰いで痛みに悶えた。


 ※


 まだ腕と足が千切れてないことに感謝して、浜辺での日光浴を楽しんだ。砂と氷の粒が混ざったような浜は寝そべっていると気持ち良い。

 近くではミカさんがモチマロとパシャパシャ水遊びに興じ、ユキは黙々とウニや魚を銛で獲っていた。

 微笑ましい光景を俺とスズカはパラソルの下で拝む。

「流石にこれぐらいはスケッチしても怒られないよな? もうプロレス技は食らいたくない」

「ソーヤはさ、ずっと楽しそうにしてたよね。楽しんで生きてるって感じ」

「そりゃ、こんな不思議なとこが現実にあったんだからワクワクもするもんだって」

「あっはは、男の子らしい理由だ」

 日陰で談笑する時間も穏やかで良い。

「それにちょうど、つまんなかったからなぁ」

「つまんなかったって、生活が?」

「生活っていうほどずっとじゃ……いや、そうかもしんないな」

 ダンジョンへ落ちて来る直前。茹だる夏の暑さに嫌気が差していたことがフラッシュバックする。

「俺、美大の推薦取って暇になったとこなんだ。夏休み遊び放題」

「最高の夏じゃん。高校生最後の夏休みなんだよね?」

「そうでもないんだなこれが。友達は部活や受験で構ってくんないし、暑いばっかでやることもないしさ」

「ソーヤのとこは進学率高いんだ! それだと、つまんないよね」

「……けどさ。大人になった時、夏休みなくなるのが一番嫌なんだわ」

 暇で蒸されるだけの夏休み。それはあくまで、退屈な日常ってやつの延長に過ぎなかったんだろう。

 来年より先の未来に抱いてた、漠然とした憂鬱さも胸の奥から呼び覚まされる。

「夏休みって、特別じゃん? なんでも出来たっていうか、夏休みってだけでワクワク出来たんだよ」

 一ヶ月とちょっとの休暇期間。そこには子供ながらに無限の可能性があった。

「山で走ったり海で泳いだり、牧場や水族館に家族と遊んだり、キンキンに冷えたのショッピングモール行って友達と映画観たりさ……」

 単なる景色とか温度とかだけじゃない。あの高揚感、あの冒険したい気持ちが湧いてくる思い出が、悲しくなるほど懐かしい。
 何十回、何百回でも絵に起こせるほど、夏っていうのは輝いてるもんだった。

「もうあんな冒険が出来る夏が来ないってことが、ホントに嫌でさ」

 この思いと言葉がどれだけ伝わってるのかは分からない。けどスズカは黙って俺に頷いてくれていた。

「大人ってさ、一週間しか夏休みないだろ? 遊ぶ先も大人料金だし、高速道路乗ってる間に後部座席で昼寝も出来ない」

「そう考えると、なんだか嫌になっちゃうね」

「本当にな。結局俺が怖がってんのって……夏をただの暑い季節としか、思えなくなることなのかも」

 手に取った鉛筆を回し、二年前の進路希望アンケートを書いた時の気持ちを思い出す。

「そのつまんなくて暑苦しいだけの(にちじょう)から逃げたくて、俺は美大に行こうとしたんだ」

 自分で語ってて、なんだか納得した気になった。

 こうして振り返るまでこの寂しい感情を一度も感じさせなかったのは、この蒼さで満ちたダンジョンの清涼さのおかげだろう。

「きっとこのダンジョンも、そんな俺に気付いて呼んでくれたのかもな」

 自販機の陰で手招きしてくれたあの入口に感謝の思いでいっぱいだ。


 ダンジョンに降り注ぐ日差しは、いつもより少しだけ暑かった気がした。