「ほーん。で、女の子の代わりに鯨と深海ランデブーしかけたと」

 ツンドラに生える短い草の野道。ミカさんは凍った雑草を遊ぶように踏み締めて進む。

 俺はミカさんが寝てから流氷の舵取りに追われてすっかりヘトヘトだ。
 命の恩人という手前、文句も気安く言えたもんじゃない。

「とにかく助かったっすよー。こんな青ばっかのとこに、一箇所だけ真っ赤な汚れ作るとこだった」

「クハッ、それはゲンさんに怒られるねぇ」

「ゲンさんって、スズカからも聞いた名前だな。もしかしなくても、このダンジョンに住んでる人?」

「んん? あ、坊主は新入りだし知らないのも当然か。まー村長みたいなものさ」

「村長……なら他にも人はいるのか」

「別に土地とか規律みたいなものはないけどさ、このダンジョンの数少ない住人を手助けするボランティア的なことしてるっぽい」

「ほほーん、さては自治会長だな?」

「ぷっ、はは! 言い得て妙だ。まったくその通り、そう思ってくれて良いよ」

 よほどイメージに合っているのか、しばらく彼女は横腹を痙攣させていた。

「そういえば気になってたけど、なんでこの場所のことダンジョンって言ってんの? 別に決まった名前もないけど」

「れっきとしたダンジョンでしょー! 地下の秘境、宝もモンスターっぽい生き物も沢山。何より冒険がここにある!」

「基準が分からんなあ。確かに迷宮っぽいとこはあるけど、それにしちゃ人工物っぽさないし……」

「あと言いやすいから!」

「それは大事」

 ノリだけのハイタッチが辺りによく響いた。

「ふーん。ま、確かにソーヤの坊主からしたらダンジョンか。なんたってとびっきりのお宝があったもんな」

「お宝って?」

「その女の子のことだよ。スズカちゃんだっけ?」

 ニヤニヤした顔が一層いやらしさを増す。何を言いたいのかは大体分かるが、素直に答えるのもどこか癪だ。

「スズカとユキに出会えたことが一番のお宝かもな~。人の縁は何とやら、こんな経験が出来たのもあの二人のおかげ!」

「あっ、誤魔化してやんの」

「初心な反応なんてこんなお調子者に求めるもんじゃないっすよ」

 ちぇっ、とミカさんは口先を尖らせる。拗ねてそっぽを向くが、俺も性分的にお茶を濁していられるタイプじゃない。
 涼し気な顔のまま、ここは素直に答えることにした。

「ま、スズカと会えたことは本当に宝です。命を救ってもらったこともあるけど、普通に女の子として好きだし」

「おお、意外にあっさり白状すんだな。そこら辺もっと面倒臭いやつだと思ってた」

「無駄でしょ? そういうの。気持ち伝えらんなかったり誤解させるぐらいなら、恥かいてでも真っすぐ伝えたい性格なんすよ」

「さっぱりしてんな。ガキらしくはないけど、嫌いじゃないぞ」

「どうも。けど流石に、玉砕覚悟で告るなりすんのはちょっぴり先っすかね」

「ほう、それまたどうして?」

「まだ会ってから日浅いし、初対面の時もつい口説いちゃったから軽い男って思われそうだから」

 俺としてはそれが無難な選択だと思ってた。タイミングを見て、ぐらいに考えてた。

 けどミカさんは空気を変え、いつもより大人びた低い声で俺に諭す。

「小言だ。よく聞いとけ坊主」

 声音の変化で思わず両腕をピンっと伸ばしてしまう。ピりついた教室の空気感にも少し似ている。
 それは大人が本気で子供を導く時の雰囲気だ。

 ミカさんは俺を見るでもなく、どこか遠くを眺めながら忠告する。

「自分の気持ちに従えんのは、今の内だぞ」

 ピシャリと言い放った言葉は、グラスの中で割れる氷のような温度を孕んでいた。

「大人になると余計なものが見え過ぎるんだ。自分でも馬鹿らしいって思うことでも、気になって前に進めない。周りは自分以上にそういうことを気にする」

「例えば?」

「恋愛なら相手の学歴とかスペックとか。人付き合いも計算になるし、自分への目とかがドンドン気になって、本音からどんどん遠ざかるんだ」

「やっぱ大人でも、子供っぽいとこあるんすね」

「大半の人間は子供だよ。ただ大人になっちゃった子供が屁理屈こねてるだけさ」

 冷めた目つきは何かに対しての諦めと、切なさを宿している気がした。

 くすんだ瞳の色のまま、ミカさんは子供へ言い聞かせるように告げて来る。

「とにかく、アオハルは出来る内に済ませとけよ。ソーヤの坊主」

 呆気に取られているうちに、ミカさんは一瞬で切り替えて笑みと親指を添える。


「おおーい、見つけたぁー!」

 苛立った甲高い声が耳を突く。

 寒冷草原の向こうから黒い影が滑ってくる。
 ソリに乗るペンギン似のシルエットで誰かはすぐ分かった。

「ユキぃー! お前無事か!? 良かったなぁー!」

「良かったじゃねえよバカ野郎! スズカが心配しちゃってたじゃんか」

「そうだよな!? すまん、咄嗟でついカッコ付けちまった。この通りだ!」

「ったく、余計な手間かけさせんなよ」

 スズカに言われて渋々かもしれないが、ユキも相当捜索してくれていたようだ。
 パーカーの袖口やズボンの裾は目立つほど汚れている。

 息を整えながらユキは訝しげにミカさんの方を向いた。

「……で、お前はこの姉ちゃんと仲良くお出かけか?」

「ああ、紹介するよ。こっちはミカさん。さっき鯨から助けてもらったんだ」

「どうもぉ。坊主を助けた優秀なお姉さんだぞ~」

「変なのが一人増えたな」

 顔をしかめたユキは疲れた溜め息をつく。
 ミカさんの方は納得したように「ああ!」と声を上げた。

「たまーに森で見かけた坊主は君か! と、思ってたけど、どうやらお嬢ちゃんだったみたいだね」

「どいつもこいつも……」

 男子と見間違えられることが嫌なのか、ユキの眉間のシワがさらに深くなった。

「それより、早く来い。スズカがお前を心配してそこまで来てるんだよ」

 ソリを押して俺達は丘を上る。越えた先には見覚えのある少女の姿が待っていた。

「おおーいスズカぁ……って、まずい状況じゃねえか!」

 丘の下で立つスズカは、三頭のセイウチに囲まれていた。
 大きい。数こそ少ないが、先のトドとは比べ物にならないサイズだ。それも気が立っている。

「安心して。ここから絶対に助けてあげるから」

 逃げずにその場で立ち向かうスズカ。
 その足元には子アザラシが震えて隠れていた。

「あれまさか、アザラシを守ってるのか?」

「明らかに弱ってる子どもっぽかったからな。ほっとけないんだよ、スズカは」

 弱肉強食。食物連鎖は自然の摂理だ。それはきっとスズカも分かっている。

 けどどんなに矛盾しても、頭じゃ正解を知っていても、心が先に動いてしまうことを俺は知ってる。だから割り切って信念を貫く覚悟も。

 ――俺が落とした画材を抱える彼女が、それを物語っている。

 鯨に襲われて散らばった絵の具は、おそらく拾いきってくれたんだろう。

 ダンジョンに落ちて助けられた瞬間から、俺はスズカがそういう子だって事を知っている。

『自分の気持ちに従えんのは、今の内だぞ』

 ミサさんの言葉が脳内で響いた時、自然と体は動き出していた。

 当然だ。だって俺は、あんな風に思わず人を助けようとしちまうスズカに惚れたんだから。

「しゃーなし。俺も手伝ってくるわ」

「坊主も運動神経良い方じゃないだろうに……アタシも行くか。あっちは任せろい」

「えっ、あちょ……ボクを置いてくな!」

 ソリよりも速く、凍った丘を滑って走る。

 ミカさんほど綺麗じゃない不格好なジャンプで、俺はスズカの前に飛び出した。