「――スズ、カ。ユキ、は……あれっ」


 鯨に水底へ連れていかれた筈の俺は、気付けばまた空を見上げていた。


 意識が戻ったことすら思考が追い付かない。
 目覚ましのアラームが妙だと思ったら、ウミネコの鳴き声と気づく。

 何より枕がいつもより高くて弾力があった。柔らかな感触が頭に当たってる。
 それが女性の太ももだと気付くのに、ほんのわずかなタイムラグがあった。

「ん。起きたか坊主」

 だらんと垂れた髪はスイカを割ったような紅だ。
 三白眼を細めてニヤリと揶揄う女性は品のない笑い方だった。

「……坊主って呼ばれる年齢とは思わなかった」

「二十歳より下なら坊主だろう」

「へぇ。坊主呼びしてくるお姉さんって絶滅危惧種じゃなかったんだ」

「それより、こんな美人に膝枕されといて何も言うことはなしか?」

「ごちそうさまです」

「クッハハ、及第点はやろうじゃないか」

 俺が半身を起こすと、お姉さんはぴょんと軽く立ち上がる。

 軽快で自由人な雰囲気を醸す彼女は笑って髪を手ぐしで()かした。

「それにしたって無茶してたな~。あの鯨に食われまいとした勇気は買うが、しがみついたままどうするつもりだったのさ?」

「咄嗟にやったから考えてなかったよ。安全なとこで手ぇ離して着地しようと思ってたぐらい」

「それを世間は無謀、もしくは蛮勇っていうんだぜ」

 気さくで愉快。なのにどこかミステリアスな二十代後半の女性。
 お盆に会う歳上の親戚みたいな雰囲気の彼女は得意げにウィンクを飛ばす。

「アタシはミカ。見ての通り、頼れるナイスなお姉さんだ。ま、気楽にミカお姉さんとでも呼びなよ」

「ありがとミカさん。俺はソーヤっす。お陰で五体満足でピンピンしてます」

 素直に呼ばない俺をミカさんは生意気だなあと肩を小突いた。


 辺り一面は南国の花畑だ。カラフルな花弁が咲き誇っているが、揃って霜を羽織ってる。
 葉は風に揺らぐ度シャリシャリと音を立て、雪の塊に擬態する虫が休んでた。そいつは時々蝉っぽく鳴く。

 雪国らしかったスズカ達の家より夏に近付いた景色。その目新しさにも心躍らされるが、それより今はこの場所と二人との距離が気になっていた。

「聞きたいことが色々あるんすけど――って、それ何食ってんすか?」

「その辺にある氷。食べてんじゃなくて、ガムみたいに噛んで捨てんの。プッ」

「おわっ、きたなっ!?」

 ミカさんはガリガリと噛み砕いた氷を道端に吐く。その行儀の悪さは自由人というより野蛮人。もしくは一昔前のおじさんのようだ。

 白の半袖とホットパンツを着ているのも、ファッションじゃなくて性格的にだらしないせいに思えてくる。

「ダンジョン暮らしのせいで色々と失ってません?」

「アウッ、アウッ!」

「アウアウって、返事まで野生に……え?」

 ミカさんと話しているつもりだった俺は、まるまる太った真横の海獣に話しかけていた。

 巨大な脂肪の塊。ギョロッとした目は完全に俺をロックオンしている。
 周囲をトドの群れが包囲していると悟ったのはそれからだった。

「おい坊主、今なんて言いかけたオォン?」

「い、言ってませんよ! それよりこれトドっすよね!? 見るからにここテリトリーだし、危ないんじゃ……」

「どーにかなるだろ。ちっと待っててなー」

 引き寄せた俺を後ろに放り投げ、ミカさんは群れの中へ突っ込んでいった。

 急接近され牙を向き出すトド。その図体の上を彼女は三段跳びで飛び越えた。

「よっ、ほいっ、そいっと」

 華麗で無駄のない飛び越え。ミカさんを追っていたトドは姿を見失ってキョロキョロ頭を動かす。

「ミカさん運動神経すっご!」

「ははっ、こんなの序の口っ!」

 あまりに軽やかでしなやか。特段筋肉質でもない成人女性とは思えない身体能力だ。


 一頭、二頭、三頭とトドは続いて滑ってくる。肉の重みから出る速度はあまりに速い。

 だがそれでもミカさんには追い付けない。
 幅跳びで一瞬にして視界から外れたり、ハードル走の要領で駆け抜けてトド達を翻弄する。

「そろそろ割れるかなー?」

 その見立て通り、地面に亀裂が走る。
 俺が立っているここは単なる花畑じゃなくて、巨大な流氷の上だったと今更ながら知った。

 トド達はミカさんを追いかけて目が回り、最終的には一箇所に誘導されて山になっていた。その重みでトドと俺の島は割れて離れ始めた。

 対岸にいたミカさんはその辺の氷柱を拾い、こっちに走ってくる。

「完全ビクトリー!」

 つららを足場に突き立て、棒高跳びの動きで軽々とこちら側に飛び乗ってきた。

 灼熱の髪は着地後、はらはらと肩を撫でていた。

「ミカさん、アスリートか何かっすか?」

「昔陸上やってたって感じかな。これでもだいぶ鈍ってるけどねぇ」

 彼女の言うことが本当なら、全盛期の活躍は想像を絶するものだろう。下手すればオリンピッククラスかもしれない。

「それに、こんな動けるってことは……」

 ミカさんは単に転がってた俺を介抱してた訳じゃない。

 俺が鯨に襲われてた事を知ってるなら、鯨から直接助けてもらったってことだ。
 巨大で速い氷の結晶のようなバケモノから、彼女の方こそ危険を省みずに。

 俺に無謀を説きながら、陰で一番無茶して救ってくれていた。

「改めて、ありがとうございます。俺の事、助けてくれて」

「気にすんな坊主。こうやって歳上マウント取るためにやっただけだからさっ」

 頭をぐしゃぐしゃにして撫でて来るミカさんは、気持ちが良いぐらい高笑いしていた。

 自由奔放で無茶苦茶なクセに、いざって時に頼りがいがある。夏の刺激を形にしたような人だ。


 ただカッコいい様は続かないようで、気の抜けたあくびをミカさんは漏らす。

「ふわぁ、眠いや。君も起きた事だし、今度はこっちの番ね」

「こっちの番?」

「寝るんだよ。水泳の授業終わりは眠くなるだろ? あれと同じ」

 流氷は上陸地点を決めず湖上を彷徨う。そんな状況なのに、ミカさんは足元の凍った花を毟って寝るスペースと枕を作り始めていた。

「マジ? この状況で普通寝ます?」

「こんな最高な昼寝日和に寝ないなんて人生の損失だ」

「昼寝のがよっぽど時間の損失じゃないっすか?」

「睡眠のチャンス逃すやつは余程のせっかちか、睡眠不足で頭がやられてるヤツだけだ」

 寝転んだミカさんは氷花のブランケットを掛ける。

「涼しいとこで惰眠を貪る。これって人生一番の幸福だぜ?」

 彼女のマイペースさに置いて行かれ、少しの間思考が止まった。

「あの、俺の方は戻る予定があるんすけ、ど……」

 声が出た時には、既に遅かった。

「ね、寝やがった……!」

 刹那の内にミカさんは深い眠りに落ちる。

 遊び疲れた子供のように緩んだ表情で彼女は寝息を立てていた。