「連れ回しちゃってごめんなぁスズカ」
「気にしないで。ソーヤの絵見るの楽しいから」
ご機嫌なスキップでスズカは横並びに歩いてる。
キャンバスを抱えた俺に合わせてくれているんだ。
氷床に薄く張っている浅い水。それは蒼い景色を反射して、まるで俺たちは空を歩いていると錯覚させる。
ウユニ塩湖に似た鏡写しの景色。またイーゼルの足を広げ、四枚目のキャンバスを立て掛けた。
「絵を描くの、本当に好きなんだね」
「絵を描くことも好き自体もだけどさ。人に見せることが好きなんだ」
白と青を交互に塗り重ねて、氷の質感を再現する。繊細に光彩を加えながら、時々大胆にブラシを腕ごと振った。
「この世に沢山、俺の気持ちを届けたい人がいる」
ブラシの先をピンッと弾いて白い飛沫を布面にまぶす。
俺の好きな風景のアレンジ。俺の独創性と写実的な絵を融合させた心象の具象化だ。
「スズカみたいに俺の絵を見て楽しんでくれる人。学校の友達とか、家族とか、画塾の皆と先生。あとはフォロワーとかさ」
おもむろにスマホを取り出す。地下じゃ電波が繋がらないから、前に取った五万人記念の時のスクショを表示した。
「え、すごっ。ソーヤってインフルエンサーだったの?」
「絵しか上げてないけどな。コメント貰えるのが嬉しくって、なんだかんだ二年ぐらいやってる」
「身近でこんな有名人、初めてみた」
「有名人って。そんな大層なもんじゃないよ」
驚愕してスマホに齧りつきそうなスズカを見ていて、俺は聞けなかった問いを投げた。
「スズカってさ、やっぱり最近ここ来た感じっしょ」
スズカはほんの一瞬動きを止めて、ちょっぴり眉を持ち上げた。
「ほら、制服着てるしスマホも知ってるから。流石にこのダンジョンで生まれ育ったって訳じゃないなと」
「そんなわけ……ってそっか。ソーヤから見たら私ってそう見えるか」
ツッコもうとしたスズカは納得したように唇へ指の側面を当てた。
「別に素性の詮索みたいな無粋なことじゃないけどさ。フツーにスズカの事が知りたくて」
下地を塗り終えたところで筆を置き、頬杖付いてスズカに尋ねてみる。
意外にもスズカは乗り気で、近くの氷塊に腰掛けると「何でも来い!」と自信満々に胸を張った。
「ここで食べる大好物は?」
「白身魚のステーキ! 種類は分かんないけど、エメラルドっぽい魚が一番美味いんだ」
「見た目の毒々しさに反して白身なんだ。ステーキって、ソースは何付けてるの?」
「ベリーソースかな。ユキが取ってきてくれるんだ。森の方に行くと沢山落ちてるみたい」
「絵面がビックリするぐらい想像できるな。スズカは一緒に取りに行ったりしないの?」
「ほら、私って結構ガサツだから。前に手伝おうとしたら、集めたヤツ零したり、忘れたり、踏んじゃったりで……出禁扱い」
「アッハハ」
どこかおかしくて、くすぐったい会話がしばらく続いた。
ここでの生活や好きなもの、スズカの趣味なんかも色々と聞いた。
スズカの座る氷が汗を一筋流すぐらい話が弾む。
「じゃあ今、一番好きなものって何?」
少女は口をとんがらせて少し考える。
そして間を置かずに、スズカは穏やかな顔で答えた。
「この地下が好きだなあ」
朗らかな笑みは向日葵が咲いたような温かさがあった。
「ユキがいるから寂しくないし、魚は美味しいし、ゲンさん達も親切にしてくれる。ちょっと面倒だけど、動物だって沢山いるからね」
指折り数えて、気持ちを吐露するスズカは心底幸せそうに口角を上げている。
瞼を閉じ、風を感じながら晴れやかな表情で向日葵ははにかむ。
「涼しくて気持ちいい。嫌なことなんて思い出せないぐらい、過ごしてて楽なんだ」
空を見上げる横顔は彫刻にも劣らない美しさがあった。
画家として今すぐに描きたくなる。そんな表情だ。
けれど俺は同時に、その美しさの陰には憂いが潜んでいる気がした。
「この場所だったら私は、凍っちゃっても良い」
それは夏の終わりに咲く向日葵が、枯れる前に魅せる美に似ていた。
終わりの迫った儚さが生む、残酷な秀麗さだ。
その真意を聞き返す暇もなく、丘の方から一目散に走ってくるペンギンのシルエットがあった。
「あれ、ユキ……?」
釣竿を刺した少女はソリでこちらに滑ってくる。
愉快な絵面だなと思っていると、そんな事言ってられない鬼気迫った表情でユキは叫んだ。
「スズカ、『ヌシ』だ! 『ヌシ』がやってくる!」
「ヌシ?」
「逃げるぞ。アレに見つかったらまた――」
ユキが言いかけた途端、大地が横に裂けた。
裂け目は瞬く内に開き、巨大な塊が頭上に飛び出してくる。
鰭と尾で宙を掻き、風と水を呑み干す巨大な質量。空の色に溶け込みながらも、決して混ざらず存在感を放っている。
それはあたかも、氷の結晶が泳いでいるように見えた。
「クジ、ラ……?」
大地を震撼させる咆哮。汽笛の叫びは氷にヒビを入れる。
氷晶の鯨は氷の下から飛び跳ね、今まさに自由落下を始めるところだ。
幾何学的にカットされた表面はダイヤモンドのよう。透明な光を割って虹色に乱反射させている。
煌々と輝く光は、絶望的なサイズを伴って接近した。
「ソーヤ、逃げて――」
筆を動かしているせいか、放物線の軌道はよく分かる。
巨鯨から逃げられない事も、俺がスズカを突き飛ばせば彼女だけは助かる事も。
線を描く時みたいに、頭と動きを連動させる。
思惑通りにスズカを軌道から逃がした直後、俺は咄嗟に鯨の頭へしがみついた。
「っ、ソーヤ!!」
俺を呼ぶその声もすぐ遠くなる。
宙を泳ぐ鯨は一呼吸でスズカとの距離を離し、俺を海岸の果てに連れ去る。速度はマグロにも勝るだろう。
揺れる、震える、今にも落とされそうだ。
それでも掴まり、凹凸だらけの皮膚に指を引っ掛け、無我夢中で握り締める。
「う、ああぁっ、二人とも逃げっ……」
スズカ達に伝える間際、海水が全身を包んだ。
氷晶の鯨が潜るまま、俺も道連れに水底へ招かれる。
伸ばした手は無情に泡を掴むだけ。
冷たい湖の暗闇に沈みながら、意識は水泡のごとく次第に溶けていった。
「気にしないで。ソーヤの絵見るの楽しいから」
ご機嫌なスキップでスズカは横並びに歩いてる。
キャンバスを抱えた俺に合わせてくれているんだ。
氷床に薄く張っている浅い水。それは蒼い景色を反射して、まるで俺たちは空を歩いていると錯覚させる。
ウユニ塩湖に似た鏡写しの景色。またイーゼルの足を広げ、四枚目のキャンバスを立て掛けた。
「絵を描くの、本当に好きなんだね」
「絵を描くことも好き自体もだけどさ。人に見せることが好きなんだ」
白と青を交互に塗り重ねて、氷の質感を再現する。繊細に光彩を加えながら、時々大胆にブラシを腕ごと振った。
「この世に沢山、俺の気持ちを届けたい人がいる」
ブラシの先をピンッと弾いて白い飛沫を布面にまぶす。
俺の好きな風景のアレンジ。俺の独創性と写実的な絵を融合させた心象の具象化だ。
「スズカみたいに俺の絵を見て楽しんでくれる人。学校の友達とか、家族とか、画塾の皆と先生。あとはフォロワーとかさ」
おもむろにスマホを取り出す。地下じゃ電波が繋がらないから、前に取った五万人記念の時のスクショを表示した。
「え、すごっ。ソーヤってインフルエンサーだったの?」
「絵しか上げてないけどな。コメント貰えるのが嬉しくって、なんだかんだ二年ぐらいやってる」
「身近でこんな有名人、初めてみた」
「有名人って。そんな大層なもんじゃないよ」
驚愕してスマホに齧りつきそうなスズカを見ていて、俺は聞けなかった問いを投げた。
「スズカってさ、やっぱり最近ここ来た感じっしょ」
スズカはほんの一瞬動きを止めて、ちょっぴり眉を持ち上げた。
「ほら、制服着てるしスマホも知ってるから。流石にこのダンジョンで生まれ育ったって訳じゃないなと」
「そんなわけ……ってそっか。ソーヤから見たら私ってそう見えるか」
ツッコもうとしたスズカは納得したように唇へ指の側面を当てた。
「別に素性の詮索みたいな無粋なことじゃないけどさ。フツーにスズカの事が知りたくて」
下地を塗り終えたところで筆を置き、頬杖付いてスズカに尋ねてみる。
意外にもスズカは乗り気で、近くの氷塊に腰掛けると「何でも来い!」と自信満々に胸を張った。
「ここで食べる大好物は?」
「白身魚のステーキ! 種類は分かんないけど、エメラルドっぽい魚が一番美味いんだ」
「見た目の毒々しさに反して白身なんだ。ステーキって、ソースは何付けてるの?」
「ベリーソースかな。ユキが取ってきてくれるんだ。森の方に行くと沢山落ちてるみたい」
「絵面がビックリするぐらい想像できるな。スズカは一緒に取りに行ったりしないの?」
「ほら、私って結構ガサツだから。前に手伝おうとしたら、集めたヤツ零したり、忘れたり、踏んじゃったりで……出禁扱い」
「アッハハ」
どこかおかしくて、くすぐったい会話がしばらく続いた。
ここでの生活や好きなもの、スズカの趣味なんかも色々と聞いた。
スズカの座る氷が汗を一筋流すぐらい話が弾む。
「じゃあ今、一番好きなものって何?」
少女は口をとんがらせて少し考える。
そして間を置かずに、スズカは穏やかな顔で答えた。
「この地下が好きだなあ」
朗らかな笑みは向日葵が咲いたような温かさがあった。
「ユキがいるから寂しくないし、魚は美味しいし、ゲンさん達も親切にしてくれる。ちょっと面倒だけど、動物だって沢山いるからね」
指折り数えて、気持ちを吐露するスズカは心底幸せそうに口角を上げている。
瞼を閉じ、風を感じながら晴れやかな表情で向日葵ははにかむ。
「涼しくて気持ちいい。嫌なことなんて思い出せないぐらい、過ごしてて楽なんだ」
空を見上げる横顔は彫刻にも劣らない美しさがあった。
画家として今すぐに描きたくなる。そんな表情だ。
けれど俺は同時に、その美しさの陰には憂いが潜んでいる気がした。
「この場所だったら私は、凍っちゃっても良い」
それは夏の終わりに咲く向日葵が、枯れる前に魅せる美に似ていた。
終わりの迫った儚さが生む、残酷な秀麗さだ。
その真意を聞き返す暇もなく、丘の方から一目散に走ってくるペンギンのシルエットがあった。
「あれ、ユキ……?」
釣竿を刺した少女はソリでこちらに滑ってくる。
愉快な絵面だなと思っていると、そんな事言ってられない鬼気迫った表情でユキは叫んだ。
「スズカ、『ヌシ』だ! 『ヌシ』がやってくる!」
「ヌシ?」
「逃げるぞ。アレに見つかったらまた――」
ユキが言いかけた途端、大地が横に裂けた。
裂け目は瞬く内に開き、巨大な塊が頭上に飛び出してくる。
鰭と尾で宙を掻き、風と水を呑み干す巨大な質量。空の色に溶け込みながらも、決して混ざらず存在感を放っている。
それはあたかも、氷の結晶が泳いでいるように見えた。
「クジ、ラ……?」
大地を震撼させる咆哮。汽笛の叫びは氷にヒビを入れる。
氷晶の鯨は氷の下から飛び跳ね、今まさに自由落下を始めるところだ。
幾何学的にカットされた表面はダイヤモンドのよう。透明な光を割って虹色に乱反射させている。
煌々と輝く光は、絶望的なサイズを伴って接近した。
「ソーヤ、逃げて――」
筆を動かしているせいか、放物線の軌道はよく分かる。
巨鯨から逃げられない事も、俺がスズカを突き飛ばせば彼女だけは助かる事も。
線を描く時みたいに、頭と動きを連動させる。
思惑通りにスズカを軌道から逃がした直後、俺は咄嗟に鯨の頭へしがみついた。
「っ、ソーヤ!!」
俺を呼ぶその声もすぐ遠くなる。
宙を泳ぐ鯨は一呼吸でスズカとの距離を離し、俺を海岸の果てに連れ去る。速度はマグロにも勝るだろう。
揺れる、震える、今にも落とされそうだ。
それでも掴まり、凹凸だらけの皮膚に指を引っ掛け、無我夢中で握り締める。
「う、ああぁっ、二人とも逃げっ……」
スズカ達に伝える間際、海水が全身を包んだ。
氷晶の鯨が潜るまま、俺も道連れに水底へ招かれる。
伸ばした手は無情に泡を掴むだけ。
冷たい湖の暗闇に沈みながら、意識は水泡のごとく次第に溶けていった。



