微睡(まどろみ)の中で鼻をくすぐる目玉焼きと焼き魚の匂い。
 そこへやってくる向日葵の香りが俺の目を覚まさせた。

「おはようソーヤ。朝食はパン派か? それともご飯派か?」

「特に決まってないかなー。ヨーグルトとかだけ食う時もあるし」

「良かった。ここには米もパンもないからさ」

 プチュプチュと卵を鳴らすフライパン片手に、スズカはエプロン姿で布団の前に立ってた。髪を後ろにまとめた姿はいつもとはまた違った良さがある。

 身体を起こすとテーブルの朝食が目に入った。
 半解凍のドラゴンフルーツ似の果物、残り物の焼き魚、搾りたてのフルーツジュースと、果汁百パーセントシロップのかき氷。朝から贅沢な食卓だ。

「主食の代わりはフルーツな。天然のフリーズドライだから健康だぞ。多分」

「もしかしてココで自生してんの? ドラゴンフルーツって熱帯の果物だよね」

「なんか空から実が降ってきて、それが雪の上で冷やされてるみたい」

「もしかして熱帯地域とどっか繋がってるのかな? まあ魚とかみたくこのダンジョン独自の生態系に進化してる可能性もあるけど……」

「おいウンチク野郎。飯が冷めるから早く座れ」

 ほとんど冷たいものだろ、と冗談を交わしながらユキの待つテーブルに腰を下ろす。
 三人分の目玉焼きを中央の皿に乗せ、スズカも席に着く。

「んじゃ、いっただっきまーす!」

 瑞々しいフルーツを片手に、パンを食べるみたいに齧っておかずを次々口に運んだ。
 甘酸っぱいエキゾチックな味わいが口いっぱいに広がる。

「あまっ、やわらかっ、うまぁっ! 朝から元気出るわぁ~」

「少しは行儀良く食えよーきったない」

「もごっ、んぐ、ぷふぁーっ! すまんすまん。美味くてつい」

「ったく、ヒョロガリのくせにバカみたいに食いやがってー。昨日だってボクらの二日分ぐらいの魚食べちゃってさあ」

「それはごめんな! 食い盛りの男子ってのはあんぐらい食べちまうんだよ~。それに二人の料理が美味すぎてさ」

「あはっ、口に合ったなら良かったよ。ソーヤの食いっぷりの良さは作ってるこっちも嬉しくなる」

 カチャカチャとなる食器の音、フルーツを咀嚼する音、部屋を包む風鈴。文句を言うユキと、ケラケラ笑うスズカの声。

 穏やかな居心地の良さは、従兄弟たちと泊まった親戚の家での朝を思い出す。新鮮だったあの頃の賑やかさが帰ってきた気がした。

「ところでスズカ達、今日は予定ある?」

「特に決めてないかな。ご飯はまだあるし、のんびりしようと思ってた」

「そしたらさ、俺に付き合ってもらって良い? やりたい事あってさ」

 首を傾げるスズカと訝しげなユキに、目玉焼きを飲み込んだ俺はニヤリと提案した。

 ※

 スズカに連れてきてもらった崖は見晴らしが良かった。

 上から降ってくる水が霧状の滝になって降り注いで、青空の光が通ればプリズムの原理で色を分ける。
 南極のような氷の土地は霊峰と雪の砂漠が続く。まるで冬の惑星だ。

「角度オーケー、ロケーション最高、鉛筆の研ぎ加減も問題なーし」

 HBの鉛筆を傾け、雄大な景色を測定する。

 リュックから取り出したキャンバスを前に、落とし込む風景の完成図を頭の中で完成させる。

「スケッチ開始だ」

 久しぶりに鉛筆の先が喜んでいた。自分の指じゃないみたいに景色の線が真っ白な布に表れる。
 四角や丸で当たりを付けて、陰の濃淡を簡単に付けていく。今の指先の速度はプリンターに近いかもしれない。

 創作意欲が湧いてくる。描いてて胸から無尽蔵に。

 夢中になって描いてると、後ろからユキが溜め息を吐く。

「いきなり荷物広げたと思ったら、絵描くの?」

「そりゃ勿論。こんな幻想風景、描かないなんて勿体ないこと出来ないって!」

「なんでわざわざアナログなのさ~? スマホで撮って後から描きゃいーじゃん」

「なに言ってんだよ! このリアタイで環境に身を置きながら描くのが最高に決まってんだろう!」

 ユキは理解できないと言ってまた釣りに出掛けて行った。

 一方でスズカは俺が描く下書きを興味深そうに眺めている。時々覗き込んでは、感嘆の息を漏らす。

「絵うまっ。ソーヤってプロの画家さんみたいに上手だね」

「そりゃ次の春から美大生だからな。これくらい描けなきゃ!」

 話している間にも下書きはほとんど完成する。

「私は絵が下手だから羨ましいよ。見て描いても全然真似できなくてさ」

「真似して描くだけが絵じゃないんだぜ?」

「絵って少なくとも何かを真似るものじゃないの?」

「絵っていうのは風景描く時でも、そのまま写さなきゃいけない訳じゃない。作者の色は実際のままじゃなくて良いし、感情込めたって問題ない」

「感情を込める?」

 ちょうど入ろうとしていた工程の前に、スズカが見やすい位置に座り直す。

 そしてそれまで現実をなぞってた鉛筆をズラし、何もない余白に黒の軌跡を創造した。

「実際にはないこの線を入れたり、物入れたり、『もっとこうすれば良くなる』って物を足し算して良いんだよ。人が描く絵ってのは」

「へえ。私は普段絵とは関わりないから、そんなこと考えもしなかったよ」

「あるある。意外とみんなそう思い込んでること多いよな」

 黒の軌道から筆先を離して、バッグの中に鉛筆を仕舞う。
 そのまま手を突っ込んでブラシにパレット、それと絵の具を鷲掴んだ。

「何より絵は、作者の技量で現実の風景より何倍も綺麗に出来るんだ」

 パレットや筆に付けるより前に、蓋を取った絵の具を刺すようにキャンバスへ突き立てた。

 ドロっとした青が零れて無垢な世界(キャンバス)に産まれ落ちる。

「空はもっと青くて良い。水はもっと透き通ってて良い。この目じゃくすんで見える景色でも、絵の中はどこまでも鮮やかだ」

 青の生誕から白、ピンク、緑の色も続く。

 この氷結したダンジョンの奇跡に近付こうと、色材がそれぞれの役割に入り込む。
 幻想に迫った色彩。それが本物と輪郭を重ねた時、ここに存在しない新たな幻を追加する。

「仕上げはこれからだけど、見せれる形にはなったかなー」

 体をどかしてスズカに絵を見せる。


 水と氷の世界。崖から臨んだ蒼の景色に、俺の心にしかなかった色を披露した。

 七色のグラデーションを孕む魚群。その群れに火花とオーロラを纏わせ、涼やかな(そら)を泳がせた。

「綺麗な絵だ。ここの景色もファンタジーっぽいけど、それ以上に……」

「絵描きとしちゃ、これ以上にない誉め言葉だ。ハハッ」

 ここに来てから得られた驚き、興奮、喜び。スズカが見せてくれた物をこの一枚に込めてみた。
 それを目を輝かせて拝んでくれる事は、何にも変え難い誉れってやつだ。

 スズカは絵の奥へ吸い込まれるように魅入っていた。