月見の季節が近づいても、蝉はまだ鳴いていた。
茹だる暑さは居座って、見張っているように昼間は湿気が肌につく。池を泳いでると錯覚させるほどの湿り気だ。
中華料理屋の冷房や扇風機じゃ、どれだけ効かせても焼け石に水らしい。
「勘弁してほしいよなぁ。ワイシャツがペタってなんの嫌いなんだよ~」
学生らしい独り言に大将の笑い声が厨房から聞こえて来る。
次第に中華鍋を振る音が大きくなっていったが、俺の耳はテレビで流れるニュース番組に傾いていた。
懐かしい顔が立派なスーツを着て、研究室の中継画面に映っていた。テレビ用の解説ボードや模型まで用意してある。
『現地調査を行った地質学者の蝉谷氏は今回採取した新物質について……』
「ちゃっかり持ち帰ってたんだ。ほんと準備は良いよな、蝉谷さん」
『また、地下空間では――』
専門的なワードが飛び交ってそれ以降は分からず、ニュースをぼんやり眺めた。
「へいお待ち!」
その思考停止時間を終わらせたのは、丼が置かれる音と大将の威勢の良い声だった。
卓上の炒飯に目を輝かせつつ、すっかり長老から元気な大将になった彼と世間話を始めた。
「ゲンさん、どうっすか調子は?」
「お陰様でな。こっちは皆元気してる」
ネギ油の香るパラパラの飯を咀嚼しながら、漂着町の面々の話で盛り上がる。
「加藤さん達は工務店に、ミチさんは問屋、あとは酪農家とゴミ収集のとこだったかな」
「皆さん仕事が決まって良かったっすよ。その後も大丈夫そうですか?」
「ああ。花森君のおかげでこの街にも馴染めたよ。地域の自治会にも入れたことで、全員の暮らしが快適になった」
体の調子も良くなってきているようで、健康的な力こぶを腕を捲って見せてくれた。
気持ちの良い笑い声を飛ばすと、ゲンさんはその場で丁寧なお辞儀をする。
「改めて、ありがとう。私達をあの地の底から救い出してくれて」
「お礼なんて。こっちこそ、青臭い若造の言葉を信じてくれてありがとうございます」
あんまりにお互い感謝してばっかりなもんだから、ゲンさんと揃って大きな笑い声を上げた。
「さて、今日は私の奢りだ。遠慮せず好きなだけ食べていきなさい」
「いやいや、飯代はちゃんと払いますって」
「良いんだご馳走させてくれ。それにこのネギの山を消費したいんだ。また週末の将棋会の時に渡されるからな」
「農家すっげぇ!」
厚意に甘えてわかめスープとニラレバを注文する。
そうしたらサービスだと言って餃子一皿まで目の前に置かれていた。
会計時には少しお腹が膨らんでた気がする。
「まいど。また来てくれな」
「ご馳走様っす。また明日も来ます!」
挨拶を交わして店の引き戸を閉めた。
それと同時に呆れた溜め息が俺のことを迎える。
「オイ。集合時間が遅いと思ったら、一人で飯食うためだったのか」
トレードマークの黒パーカーじゃない、ごく普通のブレザー服を着た色白少女が目の前に立っている。
制服のポッケに手を突っ込んだユキは不機嫌そうに頬を膨らませてた。
「ごめんよ、前から誘われてたからさ。これ込みで予定組んじまった」
「ま、良いけどさ~。そういうとこが気遣い足りないんだよソーヤはー」
地上で中学の制服に身を包んでも、その毒舌は健在のようだ。
「にしてもお前、まさか超ご近所さんだったとはな」
「悪かったな近くで」
「なんでこの文脈でマイナス方向行くんだよ」
軽口を叩き合ってはいるが、その過去を知っている身としてはユキが制服を纏って太陽の下を歩いていることだけで喜ばしい。
どうやらユキが学校に行かなくなってから一家は引っ越して来たそうで、袖を通したブレザーは新品のピッタリサイズだった。
「制服、似合ってるよ」
「そんな誑かすこと言ってると、スズカにも愛想付かされるぞー」
「ははっ、褒めんのが難しいな」
歩道のない道の端、黄金色の稲がギッシリ生える田んぼ横を並んでトボトボ歩き続けた。
冗談や悪態が落ち着いた頃、俺はユキに踏み込んだことを一つだけ尋ねた。
「ユキ、親御さんとはどうだった?」
「普通の反応だよ。家出娘が帰ってきた時らしい反応」
「おいおい普通って……」
少し躊躇って咳ばらいをした後、照れ臭そうにユキは呟いた。
「……ちゃんと、泣いてくれたよ」
その答えに上手く嬉しさを伝えられなかった俺は、一回り低い頭の上にポンと手を置いて撫でた。
照りつける日差しを時折手で遮ったりして、田んぼを横目にユキと歩幅を合わせた。
今夏最後の蝉時雨が遠くなり、駅舎の先端が見え始めた頃、焼きたての香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐる。ユキも俺も、上品な香りに誘われて足を止めてしまう。
ちょうど通りかかった駅前大通りのパン屋は開店準備を進めていた。
店の前でユキと待っていると、出来立てのクロワッサンを並べていた店員がすっ飛んでくる。
「坊主、ちっこい方の嬢ちゃん、元気してるか~?」
「ちっこい方言うな!」
鮮やかな赤髪はベージュのキャップに収納し、緑のエプロンが風に靡く。その姿もすっかり様になりつつあった。
「よっ!」
扉の隙間からミカさんは愉快にトングを振っていた。
店長に一声かけると、彼女は外に出るなり俺達の頭をぐしゃぐしゃにしてくる。ユキは猫のような叫びを上げた。
「何回見ても、ミカさんは転職先がパン屋さんなんて意外っすね」
「自分でもそう思うわ~。美味しい焼きたてパンの賄い食べれて定時上がり、客層も良い。最高の職場に出会えたって感じだ」
彼女はトングをカチカチ鳴らし、片足を後ろに上げて陽気なステップを踏んでいる。
「新居もこの辺りでしたっけ?」
「五分ぐらいのとこかな? 最高の立地でさ。ランニングコースは組みやすいし、家の中も清潔で塵一つなーし!」
「それは家事してくれる世話焼きな子がいるからでしょうよ」
噂をすればなんとやら。ちょうど後ろから聞こえた足音に向かって、振り向きざまに微笑んだ。
「な、スズカ」
茶色に染まって種を落とし始める時期に、一輪だけ変わらず咲いている向日葵がそこに立っていた。
麦茶より透き通った髪は九月の日差しで輝き、前よりちょっぴり焼けた肌は白いシャツとコントラストを生む。
そして太陽にも負けない瞳は泳ぎながら俺のことを捉えていた。
「ソーヤ。やっぱ、こういう服は、慣れない……」
どうしてもスズカは制服のスカートが気になるようで、両腕を前にクロスさせていた。
ごく一般的な女子高生の制服姿の筈だが、本人は相当違和感があるらしい。その恥じらうところもまた愛らしい。
「いやいや普通の制服じゃん! スズカに超似合ってるよ」
「前のとこはズボンだったから、スースーして落ち着かないって」
「毎朝恥ずかしそうに着替えするとこは、アタシも目の保養になってるよ~」
「み、ミカさん言わないでください……!」
「ソーヤ、やっぱボクもこっちで暮らした方が良くない? ミカが何するか分かんない」
「一理あるかもな。じゃあ間とってここは俺が……」
「そそっソーヤ!?」
「どこが間なんだよ色ボケナス」
スズカはミカさんが後見人になる形で、今は二人一緒に暮らしている。
意外だったけど、だらしないミカさんと几帳面なスズカは相性が良かったらしい。ミカさんが働いて、スズカが家事を担当しているとか。
傍から見れば姉妹同然の距離感になっていた二人だが、これにユキは嫉妬しているらしい。
「ほんでもってソーヤの坊主、なんで今日は揃って制服なんだ? スズカは登校復帰まで少し先だし、そもそも普通に土曜だろう」
「実は二人に俺の学校で見せたいもんがあってさ。ほら、制服じゃないと学校入れないから」
「ほほ~? それはそれは。両手に花とは羨ましいですなぁ」
「ちょ、ちょっとミカさんっ!」
「やめてくれミカ。ボクまでそういう仲みたいじゃないか」
響くほどの大声でゲラゲラ笑うと、ミカさんはクロワッサンを並べる作業へ戻っていった。
「じゃ、暑いしそろそろ向かおうぜ」
「うん。案内よろしくね、ソーヤ」
三人揃ったとこで、十分後に来る電車をホームで待つことにした。
改札までの短い距離だけど、向かう間俺の左手はスズカの小さい手で握られていた。
※
田園風景を追い越し、電車とバスを乗り継いで四十二分。二人を連れて俺の高校まで辿り着いた。
運動部の声が体育館とグラウンドで響く一方、廊下や教室前は比較的静かだ。課外授業も自習の時間らしい。
それでもすれ違う生徒はそこそこ廊下にはいた。
「あれっ、あの人……」
「ね。絶対そうだよね」
「やっぱり違う学校の人だったんだね」
下級生や話したことのない同学年も、俺達を見た生徒は全員こっちを二度見していた。
そんな中、トイレから出てきたトモキが気付いて声をかけてきた。
「あれぇ、ソーヤ? どしたん休みの日に」
「おーっす。用事があってな」
「まさか受験組の冷やかしに、でも……」
視線はすぐ、俺の横に並ぶスズカの方を向いた。トモキは口を馬鹿みたいに開いて驚嘆の声を発する。
「すっげぇ、ソーヤの彼女ちょー美人じゃん!」
「びじっ、うぇぇ!?」
共鳴したスズカも南国の鳥みたいな声で飛び跳ねた。
固まったトモキを置いて進むと、スズカがシャツを引っ張って尋ねる。
「そそそ、ソーヤ、なんで知らない人たちが私のこと知って……」
「まあ、色々と?」
「色々あるの!?」
動揺する彼女に意地悪く聞き返してみた。
「やっぱ俺と付き合ってるって知られるの、嫌?」
「ヤっ、じゃ、ない、けど……」
今にも茹で上がりそうな顔で、スズカは途切れ途切れに言葉を落とす。今日の楽しみ一つ目を早速味わえた。
「お熱いお二人さん。ボクがいるの忘れてるだろ」
「忘れてねーよ。見せつけてんだよ」
「くっそう、モチマロを返せ! このストレスを今すぐ発散させろっ!」
「また皆で水族館まで会いに行こうね。モチマロも私達に会いたいと思うし」
「けど案外平気かもしれねぇぜ? 同じダンジョン出身の海獣達とあっちでよろしくしてるかも」
「うう、モチマロぉ~」
ユキはふざけた泣き真似のポーズを取って茶化していた。
そんなやり取りに区切りがついたところで、お目当てだった校長室前までやって来れた。
木製の重そうな歴史ある扉、ではなくその横の壁に俺は爪先を向ける。
「お待たせ」
その壁に額縁で掛けられた絵の横で、腕を広げて二人に披露した。
「おま、これ、マジか……」
「あ、はわわわ、あああぁぁぁ……」
予想通り。いや、予想以上の驚きと恥じらう反応にニヤけが止まらなかった。
ドン引きするユキとリンゴのように真っ赤なスズカも今度別の絵にしよう。
そんな邪な思いもあったが我ながら、これは人生の最高傑作だとしみじみ思う。
「おかげで最優秀賞。最後の夏にかっさらってやったぜ」
「あ、ああ、ぁ……」
「そりゃ一発でバレるわけだよ。この絵描きド変態……」
三人で眺めた壁はそこだけ、別世界と繋がっているようだった。
自由に満ちた蒼穹と海の蒼、雪と水飛沫が飾る白、色とりどりの魚群と、クリスタルのように虹色を反射する鯨。
俺が見てきたあの凍った夏のダンジョンをその一枚に詰め込んだ。
とはいえ漂着町や結晶の山までは入れられなかったけど、色も風景も調和の取れた作品に仕上がっている。
鱗の一枚から水泡の一粒、氷の煌めきも筆の毛一本単位で描き切った。
そんな絵の中央には、蒼の世界で凛と咲く少女の姿があった。
幻想世界は夢のような儚さを宿している。だからこそ、等身大で力強くも繊細に描いた彼女の姿が絵の美しさの全てを超えて引き立っていた。
「俺が望んでた、理想の夏だ」
きっとダヴィンチのモナリザにも、ラッセンのシークレット・パースにも負けない作品だろう。ただ本物にはまだ少し遠い。
恥じらいを見せる乙女は俺の描いた彼女より、ずっと綺麗で可憐だった。
改めてこう見比べてみると、氷の世界で笑う君を少し儚げに描き過ぎたかもしれない。
こんなにも鮮烈で、明るい笑顔を浮かべているのだから。
絵の向こうからは今にも、涼し気な風が吹いてきそうだった。
茹だる暑さは居座って、見張っているように昼間は湿気が肌につく。池を泳いでると錯覚させるほどの湿り気だ。
中華料理屋の冷房や扇風機じゃ、どれだけ効かせても焼け石に水らしい。
「勘弁してほしいよなぁ。ワイシャツがペタってなんの嫌いなんだよ~」
学生らしい独り言に大将の笑い声が厨房から聞こえて来る。
次第に中華鍋を振る音が大きくなっていったが、俺の耳はテレビで流れるニュース番組に傾いていた。
懐かしい顔が立派なスーツを着て、研究室の中継画面に映っていた。テレビ用の解説ボードや模型まで用意してある。
『現地調査を行った地質学者の蝉谷氏は今回採取した新物質について……』
「ちゃっかり持ち帰ってたんだ。ほんと準備は良いよな、蝉谷さん」
『また、地下空間では――』
専門的なワードが飛び交ってそれ以降は分からず、ニュースをぼんやり眺めた。
「へいお待ち!」
その思考停止時間を終わらせたのは、丼が置かれる音と大将の威勢の良い声だった。
卓上の炒飯に目を輝かせつつ、すっかり長老から元気な大将になった彼と世間話を始めた。
「ゲンさん、どうっすか調子は?」
「お陰様でな。こっちは皆元気してる」
ネギ油の香るパラパラの飯を咀嚼しながら、漂着町の面々の話で盛り上がる。
「加藤さん達は工務店に、ミチさんは問屋、あとは酪農家とゴミ収集のとこだったかな」
「皆さん仕事が決まって良かったっすよ。その後も大丈夫そうですか?」
「ああ。花森君のおかげでこの街にも馴染めたよ。地域の自治会にも入れたことで、全員の暮らしが快適になった」
体の調子も良くなってきているようで、健康的な力こぶを腕を捲って見せてくれた。
気持ちの良い笑い声を飛ばすと、ゲンさんはその場で丁寧なお辞儀をする。
「改めて、ありがとう。私達をあの地の底から救い出してくれて」
「お礼なんて。こっちこそ、青臭い若造の言葉を信じてくれてありがとうございます」
あんまりにお互い感謝してばっかりなもんだから、ゲンさんと揃って大きな笑い声を上げた。
「さて、今日は私の奢りだ。遠慮せず好きなだけ食べていきなさい」
「いやいや、飯代はちゃんと払いますって」
「良いんだご馳走させてくれ。それにこのネギの山を消費したいんだ。また週末の将棋会の時に渡されるからな」
「農家すっげぇ!」
厚意に甘えてわかめスープとニラレバを注文する。
そうしたらサービスだと言って餃子一皿まで目の前に置かれていた。
会計時には少しお腹が膨らんでた気がする。
「まいど。また来てくれな」
「ご馳走様っす。また明日も来ます!」
挨拶を交わして店の引き戸を閉めた。
それと同時に呆れた溜め息が俺のことを迎える。
「オイ。集合時間が遅いと思ったら、一人で飯食うためだったのか」
トレードマークの黒パーカーじゃない、ごく普通のブレザー服を着た色白少女が目の前に立っている。
制服のポッケに手を突っ込んだユキは不機嫌そうに頬を膨らませてた。
「ごめんよ、前から誘われてたからさ。これ込みで予定組んじまった」
「ま、良いけどさ~。そういうとこが気遣い足りないんだよソーヤはー」
地上で中学の制服に身を包んでも、その毒舌は健在のようだ。
「にしてもお前、まさか超ご近所さんだったとはな」
「悪かったな近くで」
「なんでこの文脈でマイナス方向行くんだよ」
軽口を叩き合ってはいるが、その過去を知っている身としてはユキが制服を纏って太陽の下を歩いていることだけで喜ばしい。
どうやらユキが学校に行かなくなってから一家は引っ越して来たそうで、袖を通したブレザーは新品のピッタリサイズだった。
「制服、似合ってるよ」
「そんな誑かすこと言ってると、スズカにも愛想付かされるぞー」
「ははっ、褒めんのが難しいな」
歩道のない道の端、黄金色の稲がギッシリ生える田んぼ横を並んでトボトボ歩き続けた。
冗談や悪態が落ち着いた頃、俺はユキに踏み込んだことを一つだけ尋ねた。
「ユキ、親御さんとはどうだった?」
「普通の反応だよ。家出娘が帰ってきた時らしい反応」
「おいおい普通って……」
少し躊躇って咳ばらいをした後、照れ臭そうにユキは呟いた。
「……ちゃんと、泣いてくれたよ」
その答えに上手く嬉しさを伝えられなかった俺は、一回り低い頭の上にポンと手を置いて撫でた。
照りつける日差しを時折手で遮ったりして、田んぼを横目にユキと歩幅を合わせた。
今夏最後の蝉時雨が遠くなり、駅舎の先端が見え始めた頃、焼きたての香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐる。ユキも俺も、上品な香りに誘われて足を止めてしまう。
ちょうど通りかかった駅前大通りのパン屋は開店準備を進めていた。
店の前でユキと待っていると、出来立てのクロワッサンを並べていた店員がすっ飛んでくる。
「坊主、ちっこい方の嬢ちゃん、元気してるか~?」
「ちっこい方言うな!」
鮮やかな赤髪はベージュのキャップに収納し、緑のエプロンが風に靡く。その姿もすっかり様になりつつあった。
「よっ!」
扉の隙間からミカさんは愉快にトングを振っていた。
店長に一声かけると、彼女は外に出るなり俺達の頭をぐしゃぐしゃにしてくる。ユキは猫のような叫びを上げた。
「何回見ても、ミカさんは転職先がパン屋さんなんて意外っすね」
「自分でもそう思うわ~。美味しい焼きたてパンの賄い食べれて定時上がり、客層も良い。最高の職場に出会えたって感じだ」
彼女はトングをカチカチ鳴らし、片足を後ろに上げて陽気なステップを踏んでいる。
「新居もこの辺りでしたっけ?」
「五分ぐらいのとこかな? 最高の立地でさ。ランニングコースは組みやすいし、家の中も清潔で塵一つなーし!」
「それは家事してくれる世話焼きな子がいるからでしょうよ」
噂をすればなんとやら。ちょうど後ろから聞こえた足音に向かって、振り向きざまに微笑んだ。
「な、スズカ」
茶色に染まって種を落とし始める時期に、一輪だけ変わらず咲いている向日葵がそこに立っていた。
麦茶より透き通った髪は九月の日差しで輝き、前よりちょっぴり焼けた肌は白いシャツとコントラストを生む。
そして太陽にも負けない瞳は泳ぎながら俺のことを捉えていた。
「ソーヤ。やっぱ、こういう服は、慣れない……」
どうしてもスズカは制服のスカートが気になるようで、両腕を前にクロスさせていた。
ごく一般的な女子高生の制服姿の筈だが、本人は相当違和感があるらしい。その恥じらうところもまた愛らしい。
「いやいや普通の制服じゃん! スズカに超似合ってるよ」
「前のとこはズボンだったから、スースーして落ち着かないって」
「毎朝恥ずかしそうに着替えするとこは、アタシも目の保養になってるよ~」
「み、ミカさん言わないでください……!」
「ソーヤ、やっぱボクもこっちで暮らした方が良くない? ミカが何するか分かんない」
「一理あるかもな。じゃあ間とってここは俺が……」
「そそっソーヤ!?」
「どこが間なんだよ色ボケナス」
スズカはミカさんが後見人になる形で、今は二人一緒に暮らしている。
意外だったけど、だらしないミカさんと几帳面なスズカは相性が良かったらしい。ミカさんが働いて、スズカが家事を担当しているとか。
傍から見れば姉妹同然の距離感になっていた二人だが、これにユキは嫉妬しているらしい。
「ほんでもってソーヤの坊主、なんで今日は揃って制服なんだ? スズカは登校復帰まで少し先だし、そもそも普通に土曜だろう」
「実は二人に俺の学校で見せたいもんがあってさ。ほら、制服じゃないと学校入れないから」
「ほほ~? それはそれは。両手に花とは羨ましいですなぁ」
「ちょ、ちょっとミカさんっ!」
「やめてくれミカ。ボクまでそういう仲みたいじゃないか」
響くほどの大声でゲラゲラ笑うと、ミカさんはクロワッサンを並べる作業へ戻っていった。
「じゃ、暑いしそろそろ向かおうぜ」
「うん。案内よろしくね、ソーヤ」
三人揃ったとこで、十分後に来る電車をホームで待つことにした。
改札までの短い距離だけど、向かう間俺の左手はスズカの小さい手で握られていた。
※
田園風景を追い越し、電車とバスを乗り継いで四十二分。二人を連れて俺の高校まで辿り着いた。
運動部の声が体育館とグラウンドで響く一方、廊下や教室前は比較的静かだ。課外授業も自習の時間らしい。
それでもすれ違う生徒はそこそこ廊下にはいた。
「あれっ、あの人……」
「ね。絶対そうだよね」
「やっぱり違う学校の人だったんだね」
下級生や話したことのない同学年も、俺達を見た生徒は全員こっちを二度見していた。
そんな中、トイレから出てきたトモキが気付いて声をかけてきた。
「あれぇ、ソーヤ? どしたん休みの日に」
「おーっす。用事があってな」
「まさか受験組の冷やかしに、でも……」
視線はすぐ、俺の横に並ぶスズカの方を向いた。トモキは口を馬鹿みたいに開いて驚嘆の声を発する。
「すっげぇ、ソーヤの彼女ちょー美人じゃん!」
「びじっ、うぇぇ!?」
共鳴したスズカも南国の鳥みたいな声で飛び跳ねた。
固まったトモキを置いて進むと、スズカがシャツを引っ張って尋ねる。
「そそそ、ソーヤ、なんで知らない人たちが私のこと知って……」
「まあ、色々と?」
「色々あるの!?」
動揺する彼女に意地悪く聞き返してみた。
「やっぱ俺と付き合ってるって知られるの、嫌?」
「ヤっ、じゃ、ない、けど……」
今にも茹で上がりそうな顔で、スズカは途切れ途切れに言葉を落とす。今日の楽しみ一つ目を早速味わえた。
「お熱いお二人さん。ボクがいるの忘れてるだろ」
「忘れてねーよ。見せつけてんだよ」
「くっそう、モチマロを返せ! このストレスを今すぐ発散させろっ!」
「また皆で水族館まで会いに行こうね。モチマロも私達に会いたいと思うし」
「けど案外平気かもしれねぇぜ? 同じダンジョン出身の海獣達とあっちでよろしくしてるかも」
「うう、モチマロぉ~」
ユキはふざけた泣き真似のポーズを取って茶化していた。
そんなやり取りに区切りがついたところで、お目当てだった校長室前までやって来れた。
木製の重そうな歴史ある扉、ではなくその横の壁に俺は爪先を向ける。
「お待たせ」
その壁に額縁で掛けられた絵の横で、腕を広げて二人に披露した。
「おま、これ、マジか……」
「あ、はわわわ、あああぁぁぁ……」
予想通り。いや、予想以上の驚きと恥じらう反応にニヤけが止まらなかった。
ドン引きするユキとリンゴのように真っ赤なスズカも今度別の絵にしよう。
そんな邪な思いもあったが我ながら、これは人生の最高傑作だとしみじみ思う。
「おかげで最優秀賞。最後の夏にかっさらってやったぜ」
「あ、ああ、ぁ……」
「そりゃ一発でバレるわけだよ。この絵描きド変態……」
三人で眺めた壁はそこだけ、別世界と繋がっているようだった。
自由に満ちた蒼穹と海の蒼、雪と水飛沫が飾る白、色とりどりの魚群と、クリスタルのように虹色を反射する鯨。
俺が見てきたあの凍った夏のダンジョンをその一枚に詰め込んだ。
とはいえ漂着町や結晶の山までは入れられなかったけど、色も風景も調和の取れた作品に仕上がっている。
鱗の一枚から水泡の一粒、氷の煌めきも筆の毛一本単位で描き切った。
そんな絵の中央には、蒼の世界で凛と咲く少女の姿があった。
幻想世界は夢のような儚さを宿している。だからこそ、等身大で力強くも繊細に描いた彼女の姿が絵の美しさの全てを超えて引き立っていた。
「俺が望んでた、理想の夏だ」
きっとダヴィンチのモナリザにも、ラッセンのシークレット・パースにも負けない作品だろう。ただ本物にはまだ少し遠い。
恥じらいを見せる乙女は俺の描いた彼女より、ずっと綺麗で可憐だった。
改めてこう見比べてみると、氷の世界で笑う君を少し儚げに描き過ぎたかもしれない。
こんなにも鮮烈で、明るい笑顔を浮かべているのだから。
絵の向こうからは今にも、涼し気な風が吹いてきそうだった。



