ダンジョン下層の地形は巨大な窪み、蟻地獄に近かった。
 そんな大穴の氷地は隆起を繰り返す。風が吹き荒れ、地面のヒビが追いかけて来る。クリオス結晶の冷却が更に強まってるらしい。

「スズカ、こっちだ!」

「おっきくジャンプするよ。掴まって!」

 パラソルを広げたスズカを掴むと、二人の体が舞い上がった。風に煽られ、巨大な穴を上から俯瞰する。
 見下ろした最下層の地は辺りに星々が如くクリオス結晶が生えている。

「想像以上に地形が荒れてる。風も強い……ここじゃ爆発に巻き込まれる」

「どうしようソーヤ!?」

「分からないけど、まず安全な場所に行こう。点火よりまず、もっと上に逃げるのが先だ」

 気流の動きを読みながら、スズカが巧みな操作で傘を操る。蟻地獄の大穴から脱出し、凍った湖の畔まで一気に上昇した。

 ホッと息をつくのも束の間、踏み締めた大地が小刻みに震えていた。

「また地震か?」

「ううん、違う。この振動、近づいて来てる……!」

 もう三度目にもなる振動の正体、もといヌシに察しがついた。

「コイツのこと忘れてた!」

 汽笛のような鳴き声と共に、クリスタルの皮膚を輝かせて鯨は凍湖より浮上する。
 下から叩き割った氷を押しのけ、俺達の眼前に姿を現した。

 ダンジョンの終末が近付いても氷晶の鯨は暴れ回る。が、いつもと一つだけ異なっていた。

「襲って、こない……?」

 あれだけ動き回っていた鯨が今は止まっている。深く息を繰り返しているところから、恐らく休憩を取っているのだろう。
 俺らの存在に気付いているようだが、それでも鯨は穏やかなままだ。

「まったくなんだよいつも。人がいるとこにいっつも来やがって……」

「……何か変。ヌシがこんなに暴れてるなんて」

「変? この鯨、こうやって暴れてばっかじゃないのか?」

「それってここ最近になってからなんだ。ソーヤ来てから……いや、ちょっと前からだったかも」

 スズカは首を傾げて巨鯨の瞳をジッと見つめていた。

「とにかく、いつもは大人しかったんだ。泳いでてもたまに跳ねるだけで、あの時もどうしてあんなに……」

 凝り固まってた堅氷の先入観が、彼女の言葉で瓦解した。

「俺じゃ、ない。この気候に反応してる?」

 最初にスズカを襲ったは、襲ったわけじゃなく偶然スズカが鯨の軌道上にいた、と仮定すれば筋が通る。
 俺がダンジョンに戻ってきたばかりの時も、俺自身への興味も魚への関心もなかった。そもそも俺達なんてずっと気にしちゃいなかったんだ。

 同時に理解した。今、俺の足元の氷が溶けて適度に冷たい水になっていっている。
 二度目にコイツと会った時も、急激な凍結が収まってたことを思い出した。

「体温と呼吸、鯨呑で……大気のバランスを保ってたんだ」

 空気ごと丸呑みしていたコイツは、これまでダンジョンの不安定な気温バランスをコントロールしていたんだ。

 上昇気流で舞ったオキアミか何かを食べているだけかもしれない。全ては偶然が生み出した結果に過ぎないかもしれない。
 それでもダンジョンの空気はこいつのお陰で均衡を保ってた。俺が今、ダンジョン崩壊に間に合った遠因も――

「お前が、守ってくれてたのか?」

 鯨の真意なんて分かりやしない。それでも氷晶の鯨は氷を食って、温度をこれ以上下げないために奮闘してくれていた。

 穏やかな息遣いの鯨をそっと撫で、この氷世界のヌシに尋ねる。

「……頼み、聞いてくれっか?」


 意志が通じたのかは分からない。
 確かだったのは――鯨が俺達を背に乗せてくれたってことだけだ。

「行け!」

 凍った氷海も関係ない。鯨の猛進は直線上の全てを破壊し、あるいは飲み込んで進んだ。
 海の下はあの最下層が空洞として存在し、水や強烈な上昇気流があったお陰でこの巨鯨は縦横無尽に動けていたのだと今更知った。

「ねえソーヤ、暴れさせてどうするの!?」

「山の方まで連れてってもらう。暴れまくれば結晶に氷がぶつかって、自動的に爆発が起きる筈だ。爆発の仕掛け作りながら脱出してるって感じ!」

「本当に上手くいくの!? 鯨の進行方向なんて分からないんじゃ」

「分かんないけど、本で読んだ通りなら!」

 俺はリュックの中から色材を取り出す。水性ペンキに、絵の具まで、とにかく飛び散らせやすいものを投げ、大地にマークをつけていく。

「鯨は俺らと違って色は感じ取れない。モノクロの視界なんだ」

「白黒にしか見えないの?」

「だからエコーロケーションっていう音波で空間把握する能力が代わりに発達した。けど、光に近い色なら見えるかもしれないっ……!」

 色にも波があり、人が見える色の範囲は可視光線と呼ばれている。
 その中で濃淡や日光に近い白や青系統の色があれば、鯨にも分かる可能性がある。

 これも実際には検証しようもないけど、鯨の視界に収まるようペンキを投げるとその方向へ誘導出来ている気がした。


 この方法で出口まで。そう考えていた時、遠くから初めて聞く爆裂音が響いてきた。

「ソーヤ、遠くで爆発の音が!」

「もうか!? いや、違う……これは最下層からの爆発音じゃねえぞ。どっか別のところから聞こえ――」

 爆音が届いた途端、鯨が体をよじって暴れ始めた。一直線に進んでいた巨躯は右往左往して動揺しているようだった。

「どうした急に!?」

「爆発に怖がってるみたい。凄い暴れてる……!」

「落ち着け。大丈夫だ」

 必死にしがみついて鯨を落ち着くよう声を掛けるしかできない。ほとんど振りほどかれないようスズカと掴まっているだけだ。

 最中、腰に引っかけてたトランシーバーから無線が入る。

『――くん、花森君。すぐに戻りたまえ!』

「蝉谷さん……?」

『私の計算ミスだ! すまない。そこからすぐに離れろ!』

 トランシーバーからの音声は酷く音割れしていたが、蝉谷さんがこれまでになく焦っている様子が伝わってきた。

『クリオス結晶の冷却効果を侮っていた。今、本来の冷室化性能を目の当たりにして確信した。この空間がなぜ適温で保たれていたのかを!』

「お、落ち着いて下さい。俺、専門知識は全然……」

『地熱だ。最深部付近におそらくマグマ溜まりが存在している。その熱がこれまでクリオス結晶を生みつつ、温度を相殺して地下の環境を維持していたのだ』

「地熱、マグマって……じゃあこの近くから、いつ溶岩が出て来てもおかしくないってことですか!?」

『そうだ。溶岩に直接触れずとも、付近に発生すればその高熱で爆発が起きる!』

 想定してた質量弾や着火程度の爆発と、溶岩が生み出すそれとは規模がまるで違う。
 ここまで環境を激変させてしまうクリオス結晶とマグマの融合なんて、災害クラスの事態だって起きても不思議じゃない。

「大丈夫。最後まで、一緒だから」

 青ざめていた俺の手を、スズカは上からギュッと包み込んでくれた。絶望が続くこの状況で、彼女の瞳だけが希望の太陽だった。

「届けよう、ソーヤ。君と私が描くみんなの未来」

「……そうだな。スズカの言う通りだ」

 こんな状況でもスズカとなら、どうとでも出来る気がした。

「――まったく、世話の焼ける若者たちだ!」

 トランシーバーから聞こえていた声が、今度は前方から聞こえてきた。

 氷が炸裂する音と共に、いくつものタイヤを駆動させた水陸両用漁船が鯨の真横を走っていた。
 凄まじい馬力で進む船体は時速八十キロメートルほど。噴煙を上げて爆走中だ。

 操縦桿を握る蝉谷さんと、他の皆の姿が甲板からこっちを見ていた。

「蝉谷さん!? ってかミカさんとユキ、モチマロまで!」

「バーカバーカ! ほんっとお前らはボクらを振り回すんだからさぁ!」

「ブモォッ!」

「ユキ~! 良かった、合流できたんだね!」

「おいオッサン、もっと坊主たちに近付けないのか!?」

「これ以上は無理だ。鯨の進路に巻き込まれて共倒れだ!」

 ミカさんの怒声に蝉谷さんは苦い表情で返している。

「漂着町の者達には先に脱出経路へ向かわせた。残るは君達だけなんだ!」

 蝉谷さんもミカさんもユキも、皆が俺とスズカを案じている。

 ただ鯨から漁船へ飛び移ることはほぼ不可能だった。
 蝉谷さんの言う通り、氷晶の鯨が進むたびに氷が巻き込まれて割れていく。下手に船は接近させられない。
 ゆえに俺は賭けを選んだ。

「それなら先に、皆さんは出口に向かってください!」

「なっ、なにを……」

「俺とスズカはこの鯨に乗って、どうにか地上まで戻ります」

「私とソーヤ、必ず追い付くから!」

「ならこれ、持っていきな!」

 砲丸投げの要領でリュックサックのような何かをミカさんがこっちに投げてきた。

 軌道の計算は完璧で、そのパックはちょうど俺の胸元へ吸い寄せられるように飛んでくる。

「おわっ、よっと。これは?」

「パラシュート? グライダー? みたいなヤツらしい!」

「緊急脱出用のフライト装備だ。我々がこの船で出口を作るから、それを着て地上まで飛んでくるんだ!」

「っ! 感謝です、ミカさんっ! 蝉谷さん!」

「礼なんて良いから、絶対帰って来んだぞッ! 嬢ちゃん、坊主!」

 別れを告げて、並走していた船は鯨から枝分かれするように進路を離していく。

 声が届かなくなる刹那、モチマロを抱えたユキが涙を堪えて叫んだ。

「スズカ、ソーヤ。帰ってこなかったら、承知しないからなぁ……!」

 離脱する船の甲板へ向けて、見えなくなるまで俺とスズカは手を振っていた。