肺が痛む零下の世界。白銀の森は地に沈み、針葉樹の枝先が倒れて雪に埋もれている。
 暗がりに輝くクリオス結晶は星の如く散らばって、氷に閉じ込められた魚たちを照らす。

「ハァッ、ハァッ、カハッ……ハァッ!」

 極寒が肺を犯し、飛び出た結晶が肌を切る。口内も手足からも仄かに鉄の匂いが香る。
 銀河が雫を落としたような巨大な渦。その螺旋と輝星の中心に佇む少女が一人。手には古びたオイルライターがキラリと光って見えた。

「スズカッ!」

 千切れそうな手足、張り裂けそうな喉を駆動させて、声は彼女の耳に到達した。
 ライターの蓋を開けかけたところで、スズカの動きは停止する。

「……来ちゃったんだね、ソーヤ」

「ここに来れば、俺自身を人質に出来る。お前はそのライターを点火できないさ」

「そっか。ちょっとずるいね」

「ははっ。こんぐらいしないとお前は止まらないタイプだって知ってるからな」

 そこから一歩前へ進む。同時にスズカはライターの蓋を開いた。

「お願い、止めないで」

「止める。どんな手を使っても」

「ここまで私、頑張って人助けしてきたよ。だから今ぐらい、自分のワガママを通させてほしい」

「お前は人を助ける時、助けて良いかなんていちいち聞かなかっただろ? だから俺も聞かない」

 親指がレバーの上に触れている。ただし震えた指に力は入ってない。

「私にはもう、家族も幼馴染もいないんだよ。地上にはもう、なんにも」

「俺がいる。俺達が一緒だ」

「分かってる。皆は優しいし、戻っても仲良くしてくれる人だって分かるよ。でもね、また消えてっちゃうことが怖いの」

 顔を上げた彼女の頬に、涙の筋が数本流れる。鼻先を赤くして、声を霞ませるところは、まるで消える前の炎のよう。

「大事な人が皆いなくなっちゃうのに、これ以上は耐えられないよ」

 ひび割れた心は音を立てつつあった。いつ砕けてしまってもおかしくない。

 それでも俺は伝えたいことを一から、昔話の読み聞かせみたいに話し始める。

「――俺達はみんな、夏から抜け出せてなかったんだよ」

「……夏?」

「お前は大事な人を失った夏から、俺はガキの頃の楽しかった夏から。他のみんなもきっと同じで、ここみたいに涼しくて懐かしい過去(なつ)に縋りついてた」

 握ってたクレヨンの欠片を、ポケットの中へ仕舞った。

「この暑さに参ってもう外に出たくないって、冷房効いた部屋に籠ってたいなんてことは誰でも思うさ。でも人は夏も外に出て生きていかなくちゃいけない」

「……」

「けどそれは、無理に暑いとこへ出ようって話じゃない」

 一歩、滲み寄る。呼吸に合わせて自然と足が動いていた。

「外へ一緒に涼しいとこを探しに行こう。冷たい飲み物を飲みに行こう。涼しくなれる遊びをしに行こう」

 憂鬱な日々の中にもそういう物事や場所があるってことを、俺はこの身で体感してきた。

「生きてる限り嫌でも夏は来る。何度も、何回でも。ならせめて、鬱陶しい暑さが気にならないぐらいの夏にしてやろうぜ」

 生きることが苦しむことだなんて思わなくて良い。どうせ人生ってのは苦労するんだ。だったら少しでも苦しくない方が良いに決まってる。楽しい方が良いに違いない。

「それが俺なりの、人生(なつ)の攻略法だから」

 落涙して震えるスズカは問う。

「なんで、そこまでして――」

「君が好きだから」

 今の俺が最も誇れる想いが口から出る。

 彼女の潤んだ瞳を覗き込んで、真正面から投げ放った。
 ハッと目を開いたスズカは更に涙を零し、その場で固まる。波打つ心臓の音がこっちまで聞こえてきそうだった。

「ハッキリ言うと、一目惚れだ。初めて会って助けられた時から俺はスズカを女の子として好きになってた」

「ソーヤ、が……?」

「勿論それだけじゃねえ。このダンジョンで過ごしてた間、スズカの事を知るほど好きになってった。女の子としても、人間としても」

 頬が熱い。目線は反らしたくなるし、口元の筋肉も上手く制御できない。
 それでも見つめる。目と目を合わせて、言葉としてスズカにぶつける。こんな恥ずかしさも、伝わらないより数千倍マシだ。

「俺はスズカに惚れた男だ。だからお前の事を助けたいし、これからもっと一緒にいたい。できれば俺が、幸せにしてやりたい!」

 凍った地に金属音が鳴り響く。スズカの手から離れたライターは雪の奥へ沈んでいった。

「好きだった幼馴染のこと、大事な家族のこと、忘れろとか乗り越えろなんてことは絶対に言わない。一生頭から離れなくて、スズカが今日を踏み出すことが出来なくても、明日を俺は一緒に歩きたい」

「……優し、過ぎるよ、ソーヤは。それって私が、ずっと彼のことを想ってたとしても?」

「それはスズカの心の問題だ。大好きだった人を忘れる必要なんてないし、俺が口出す権利もない。絵が未来まで人の心を動かすように、大切な記憶は永遠にその心を満たす筈だ」

「今まで見せてた、私に一生戻れないかもよ? 明るくて、人のために動ける人間になれなくて、抜け殻みたいに……」

「そのままにして放ってなんてやらない。けどたとえスズカがそのままで生きていくとしても、俺は消えたりしない」

「また他の皆みたいに、いなくなっちゃうかもしれないのに」

「だからこそじゃねえか。人の命が消える日は急に来るってこと、スズカが一番分かってると思う。だから尚更、傍に居られる時間を一秒でも長くしよう」

 二人の間も気付けば近付いて、息のかかる距離に俺は立っていた。

「俺は暑くて退屈な夏が嫌で、抜け出したかった。とにかく涼しくて楽しい場所に行きたくて、このダンジョンに辿り着いた」

 ダンジョンを吹き飛ばして、地上もめちゃくちゃにしかねない恐ろしい結晶が突き刺さった大地。そんな危険地帯でさえ、今の俺は感謝していた。
 この一つ一つがなきゃ、俺とスズカは出会えなかったから。

「あの時の俺が着地に成功してたとしても、こんなに楽しい冒険にはならなかった。こんだけ涼しさを満喫できなかった。絶対ここで退屈して、そこらへんで凍死でもしてたろうよ」

 心震わす海原も、雄大な雪原も、水と氷が織りなす幻想的な蒼穹も、きっとここまで綺麗には映らなかった。
 そしてこの瞬間さえ、それらの景色は彼女の流す涙に比べたら何てことはない。

 ダンジョンで一番美しいものは、目の前に立っているのだから。

「俺の未来は、人生は、今ここで変わる。ここを変えられたら、二度と俺に暑苦しいだけの夏なんて来ない。退屈で絵の題材に困るなんてことも絶対ない」

 ありふれた言い方ならば、人はそれを『生きがい』とでも言うのだろう。

「スズカが居れば俺は、夏も冬も春も秋も、笑って今日を生きられる」

 想像するだけで自然と笑みが零れた。未来の俺もこんな顔をするに違いない。

「だから助けたい。一緒に明日を、スズカが皆と笑っていられるために」

 その嗚咽を笑う声に、赤くするところを鼻先から耳へ、涙の数を超える笑顔の回数を。

「お前の笑顔を! 本物の太陽と比べても眩しいものなんだって言えるように!」

 今だってそうだ、輝いている。涙も、その奥の瞳も、解けかけている笑みも、何より眩い。地下でも輝きを失わない光だ。

 そんな君だから、俺は見捨てたくない。

「お前はほっとけないタチだろ? それを分かって、言ってやる」

 手を差し伸べた。優しく真摯に、踊りへ誘うように手のひらを天へ傾ける。
 一世一代のお願いを俺の光へ捧げた。

「俺と一緒にいてくれ。じゃないと俺は、耐えられない。スズカがいない世界ってやつを、生きていける気がしない」

 その言葉が堅い氷塊を芯まで砕き、解かした音が聞こえた気がした。

 スズカは両手で涙を拭った。溢れて止まらない波を小さく細い手で受け止める。
 何度も擦って、子供のように声を上げ、手首まで使って濡れた目元を拭う。

 打ち寄せた涙が僅かに収まった時、スズカは心底安心したような笑顔を俺に見せてくれた。

「ソーヤってなんで、私が欲しかった言葉全部分かるの?」

「ただの本音だよ。スズカの帰りを待ってる生活を送りたい。夕飯作って風呂も沸かして掃除もして、キャンバスに色塗りながら『おかえり』って言えるようになりたいんだ」

「……あはは。素敵な未来図だね」

 差し出していた手が、柔らかな感触に包まれる。
 僭越ながらこの俺は、彼女の隣に居られる名誉を承れたらしい。

 憑き物が取れたようなスズカは、頬を赤らめながら満面の笑みで聞いてくる。

「ソーヤのいるとこ、帰る場所にしても良い……?」

「ああ。いつか必ず、二人が帰って来れる家を作ろう」

 その言葉と微笑みに返ってきたのは、力強く情熱的な抱擁だった。

 抱きついてきたスズカの透き通る琥珀の髪は、やっぱり真夏の向日葵の香りを漂わせている。