夏の記憶と言われて思い出すのは、いつだって野山を走った日のことだった。

 茂みの中、木の枝の上、川の反対。半ズボンに麦わら帽を被った男の子がいつだって私の前にいた。

『おーいスズ、こっちだよ!』

『もお! ユウ君の足はやすぎ!』

 私より少しだけ高いその背に置いていかれないように、物心ついた時から追いかける人生だった。
 ずっと一緒にいて、声が届くのが当たり前。でも決して手は届かない。そんな関係の幼馴染。

 恋心に気付けたのは乳歯が半分ぐらい抜けた時だったと思う。それまでずっと、半袖半ズボンの少年のすぐ後ろが私の居場所だった。

『置いてかないで、ユウ君』

 困ったことにその口癖は、今でも油断すると出て来そうになるんだ。


 ※


『大丈夫、大丈夫だからね……涼香がいれば、母さんも頑張れるから』

 小さい箱になった父さんを見つめながら、母さんは私を抱き締めて、ギュッと手を握った。

 四畳半の狭いアパートの畳はチクチクしてたことを覚えてる。
 生家は父さんと一緒に燃えちゃって、引っ越し先には当時家具もテーブルもなかった。空っぽの部屋は母の嗚咽が切なく響いていた。

『私が、もっと早く気付けてれば、あの人は……』

 夜中に起きた隣家の火災だった。父さんが亡くなったのは、誰のせいでもない。
 だからこそ、責める矛先のなかった母さんは後悔を引きづっていたのかもしれない。


 それでも母さんはその日以来、私に泣いてる姿を見せなかった。

『それじゃあ母さん、行ってくるから。ご飯は冷蔵庫に入ってるからね』

『お母さん、また明日までお仕事なの?』

『ごめんね。夜勤じゃないとどうしても……授業参観の日は絶対行くから安心して』

『うん……行ってらっしゃい』

 女手一つで働いて、家の事から学校行事まで気にかけてくれてた。私も料理や洗濯なんかを手伝ったけど、それでも休み足りないぐらい母さんは動きっぱなしだった。

 授業参観だって、母さんの体が心配だから来なくても良かった。
 母さん自身が『涼香の成長見るのが唯一の楽しみだから。そのためにお仕事頑張れるの』と言ってくれたから、拒否することもできなかった。


 そんな不安を抱えてても、忘れさせてくれる人がそばにいた。
 台所の小窓から彼はよく顔を出してやって来る。

『すーず、起きてるか?』

『ユウ君! どうしたの、遅い時間に』

『にっへへ、図書室で漫画借りてきた。一緒に読もうぜ』

 底抜けに明るくて、ちょっとガサツで、よく人を振り回す。でも優しくて真っすぐな心をした男の子。
 その性格に引っ張られてしまうほど私の幼馴染、氷河(ひかわ)夕汰(ゆうた)は元気をくれる人だった。

『週末って遊べる? 家にゲームあるから来なよ』

『今週はダメ。母の日あるから、準備しないと』

『もうそんな時期だっけ!? カレンダーに書いてないから忘れてたわ』

『おばさんにプレゼント考えてあげてよ。ユウ君が来年私立行くからって、スーパーにいる時間増やしたんだって』

『そうだよなあ……合格をプレゼント、ってのはまだ先だしなぁ』

『一緒に考えようよ。きっと喜ぶって』

 家の事情や進路が変わっても、この幼馴染の絆だけはずっとこのまま。
 どんなに生活が苦しくなっても、あの頃はそんな風に思えてた。

 そう、あれ以上は望んでなかったのに――


『母さん、ねえ、なんで……』

 病室のベッドで横たわった母さんは、あの日のように手を握ってくれなかった。
 温度の消えたその手は氷のようだった。痩せてガサガサになった手に触れる度、どれだけ頑張ってくれてたのか肌から伝わって来た。

 中学の制服が仕上がったのはその数日後。卒業式で見せる筈だった制服姿は、お通夜で初めて披露することになった。


 母さんのお通夜は父さんの時よりも短く感じた。というより、現実を受け止めきれなかった。

『涼香ちゃん、これからお家はどこになるの?』

『高校を出るまで、施設で暮らします。母さんも父さんも、他に親戚いなかったから』

『……ごめんなさい。本当は我が家で暮らせたらとも思ったのだけれど、夕汰だけでウチも手いっぱいで』

『大丈夫。お葬式手伝ってくれてありがとう、おばさん』

『出来ることは少ないけど、何かあったら言ってちょうだい』

 おばさんは母さんと友達だったってだけなのに、本当の叔母のように接してくれた。そしてユウ君も、中学は分かれても気にかけてくれてた。

『安心しろ、スズカ。絶対に、お前を一人にはしないから』

 力強い目が、心の傷が治っていく様子を見守ってくれてた。それだけが最後の、私の太陽だった。


 傷は簡単には塞がらない。でも前を向いて歩けるほどには戻れてた。

 制服もだいぶ馴染んで、坂道も立ち漕ぎで自転車に乗れるようになった頃、夕暮れ時は学ラン姿の彼の横まで走っていった。

『やっほユウ君。ちょうど帰り?』

『おう! このあと塾だから、そこまで一緒に行こうぜ』

 学校が変わって会う機会も減ってはいた。それでも中学の男女にしてはよく会ってた方だと思う。
 勉強や先生への愚痴や、教室であった下らない話を報告するのが日課だった。

『おまえ高校はどうすんの。この街から出る感じ?』

『分かんないなぁ~。できれば通いやすくて、運動出来て、そんなに厳しくないとこ!』

『注文多いなぁ』

 今を生きるのに精いっぱいで、来年のことですら深く考えられなかった私に、ユウ君は提案してくれた。

『なあスズ、高校はウチなんてどうだ?』

『え、ユウ君のとこ私立でしょ? それに中高一貫じゃなかったっけ』

『高等部からは学科が増えて、外部から来るやつもいるんだ。俺も狙ってるけど、いくつか特待枠あるし』

『とくたい?』

『高い学力、もしくは経済的理由ってやつで受けられるんだと。枠に入れたら学費免除があるとか』

 その言葉があまりに嬉しくて、周りも気にせずその場で飛び跳ねちゃった。

 当時はもう、淡い恋心も色付いてきた頃だった。ユウ君と同じ校舎で過ごせると聞いただけで胸が弾んだ。

『そしたらまた、ユウ君と学校でも一緒だね!』

『そうだな! あ、ただ――』

 その先の言葉を聞き終える前に、けたたましいクラクションとブレーキ音が耳をつんざいた。

『スズっ……!』

 一瞬見えた、歩道へ突っ込んで来るトラック。それは直後に黒い背中で遮られた。
 蝉の鳴き声も蒸発して、世界の音が小さくなった。ひっくり返る私の目の前は、残酷にも快晴の空で塗り潰される。

 鈍い衝突音も、赤い花火が散っていく様子も、スローモーションで視界の端に映った。

 ――三度目のお葬式の記憶も、その後の夜にどうやって眠ったのかも覚えていない。
 ただその時は目の前でハッキリと、大事な人の命が尽きる瞬間を見てしまった。

 フロントガラスなのか、氷がパキンと鳴いた音は、この胸の中でも木霊してた。



 ――――気付けば仏花を花瓶に差してた。

『ユウ、君……』

 タイムスリップしたみたいに意識が再開したのは、彼のお墓の前だった。
 何度目の夏だったのかも分からなくなってた。私は背も伸びて、制服も変わって、髪も伸びた。でも中身は、あの日のまま。

 蝉もひぐらしも喚く真夏の日、その墓石だけが時を止めたように冷たいままだった。

『どうして……』

『――あの、すいません。夕汰くんのお知合いですか?』

『えっ……?』

 座り込んだ私の前に、お花とお供えを持った同い年の女の子がいた。

 校章はユウ君と同じもの。制服は私立なだけあって、ネクタイとチェック柄のスカートが可愛らしいデザイン。
 それを自然と着こなす彼女は女の私から見ても可愛らしくて清楚な品のある子。粗雑で男勝りな私とは違う、淑女の言葉が似合うお嬢様だった。

『はい、凪沢です。私、ユウ君の幼馴染で』

『っ! そうだったんですね、あなたが……初めまして。夕汰くんからお話は伺ってました』

 胸がざわめいて、そのまま心臓が止まってしまいそうだった。
 丁寧なお辞儀をする彼女に、涙を浮かべて微笑むその女の子に、そこから先を言わないでほしかった。

 それでも時計の針は動いていた。


『私、篠岸ミウと申します。夕汰くんと――お付き合いさせていただいてました』


 ※

 制服を泥だらけにして、手も膝も擦りむいて、私はあそこから逃げた。

 逃げたんだ。何もかもから。逃げて逃げて、忘れたくって、全部捨てて走り続けた。
 隣町の更に隣町まで。幼い頃の記憶だけをなぞって、畦道の先にある野山まで走っていった。

『ハァッ、ハァッ、うっ……ああぁっ、あああぁぁぁぁ』

 枯れるほど泣いた。息も吸えないほど泣いた。吐き出すように泣いた。消えてしまいそうなほど泣いた。

 涙が溢れて落ちるほど、幸せだった記憶が地面に染み込んで消えていった。遠い日に見た夢のように、この手にはもう何も残ってなかった。

『ああっ、あああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』

 嗚咽は山へ孤独に響いた。家族も、初恋も、帰る場所もこの世界に残ってなんかなかったんだ。

 最初から私は、一人で消えていく運命だったのかもしれない。

 土砂崩れに巻き込まれて、凍結した世界に追放された時、私は運命がそういうものなんだと思い知らされた。


 ※ ※ ※


「――それでも、楽しかったなぁ。ここは」

 キラキラ輝く氷の山。あの学者さんの資料に『クリオス結晶』とかって書いてあった水晶の前で、つい昔のことを思い出していた。

 ピンクや水色に分かれた光の中に、記憶の映像が灯される。

「おかげでもう、一人じゃないみたい」

 地下で暮らしてた間、孤独を感じてた時間は本当に少なかったと思う。


 丘の上に落ちてきたユキ。氷の家が完成して、二人で始めた慌ただしい生活は毎日が新鮮で、あの皮肉っぽい優しさに何度も救われた。
 こんな妹がいたら、上の世界でもやっていけたかもしれない。

 漂着町のゲンさん達は私とユキを子供として、地域の人達みたいに見守ってくれた。
 食べ物や物資を分けてもらって、お礼に何かを手伝ったらもっと喜んでくれて、また色んなものをくれた。
 人助けをしたら居場所が作れて、何度も胸がいっぱいになった。

 最近出会ったばかりのミカさんも楽しい人で、こんなお姉さんがほしいなって思えた。
 私の料理を褒めてくれたし、ユキとも仲良くしてくれた頼れる人。できればもうちょっと私も甘えたかったかも。

「そして、君がいたから……」

 出会えたきっかけは本当に邪な気持ちからだった。

 地上から落ちてきた彼のこと、咄嗟に助けに走った。ゲンさん達みたいに助けたら私に居場所くれると思った。
 そして何より――明るくて素直なその心が、ユウ君に似てたから。その心の本質だけは一目見て伝わってきた。

 話してみたら勿論、ユウ君とは全然違った。
 私より足は遅いし、びっくりするぐらい知識があって、写真より綺麗で繊細な絵が描ける人だった。ユウ君とも私とも全く違う、別の世界から来たみたいな男の子。

 そして初めて、

「私のこと、可愛いって言ってくれた」

 女の子扱いしてくれて、休んでる暇がないぐらい笑わせてくれて、胸の穴を感じないぐらい満たしてくれた。

 もしもう一度恋ができるなら、彼のことを好きになりたかった。

「ありがとう、ソーヤ」

 ソーヤ。花森爽弥。最後にできた私の、大切な人。もっと隣に居たかった人。


 寒くて凍っちゃいそうなこの世界で、その思い出が私を温めてくれる。きっと命が尽きる、その瞬間まで。

 そんな想いも連れていって、私は夏をここで(おわ)らせる。