丘の下で待機していたバギーの元に帰る。
 俺と、俺の袖を引っ張って歩くユキの姿を見た蝉谷さんはホッと息をついていた。

「やあユキの嬢ちゃん。無事に来てくれたみたいだね」

「ん。ソーヤが連れてくって言って聞かなかったから。それにモチマロも避難させなきゃだし」

「ブモッ!」

「まったく素直じゃねんだから。とにかく一安心だよ」

「気を付けたまえよ。この鉄の棺桶にアザラシ用のシートベルトはない」

「やっぱ戻って良いか?」

 ダンジョンの危機が迫り張りつめていた空気も、今はユキとモチマロのお陰で少し和らいだ。

 一人と一匹を増員してバギーは再び走り出す。僅かに肩の力を抜く時間が生まれたものの、長くは続かない。

「花森君、心したまえよ。次が一番の難関になるだろう」

「そうっすよね……漂着町、そこの全員の説得っすからね」

 ゲンさんを筆頭に十六人ほどいる漂着町民の皆。生きることに疲れ、このダンジョンを楽園として終の棲家に選んだ彼らを連れ出すには対話が不可欠だ。
 強硬手段なんて取れるわけもない。最悪の場合は摩擦の末にこちら側へのリスクも生まれかねない。

「君の理想を理解した上で敢えて助言しよう」

 不安が渦巻く中、蝉谷さんは小さく俺に耳打ちした。

「君が無理にでも助けられるのは、あと一人だ」

「っ……」

「あの娘を助けたいんだろう。いざという時、優先順位を付けることもまた肝要だ」

 その言葉は一見冷たいようで、その実は氷を解かすほど人情に満ちた激励だった。

「人間は抱えられる人の数に限りがある。ならば、絶対に守りたい一人を見定めて守り抜け」

 学者とか世界の命運を握る者とか、そんな肩書きなんてものじゃない。蝉谷さんは人として、男として、俺を慮ってくれたんだ。

「蝉谷さん、気遣ってくれてありがとうございます。けど、大丈夫っすよ」

 だからこそ返礼は、信念で返したい。彼の言葉も受け止めながら、譲れない意思を示す。

「それを分かった上で、皆助けるって決めたんですから」

「……ならばこれ以上は言うまい。行ってきなさい」

 タイヤは沈没船の前で止まる。
 地震と雪崩の影響でガラクタの部品が辺りに転がった町は酷い有様だった。干していた洗濯物も、作りかけだった紙を煮てる鍋も、今や見る影もない。

「戻ってきたようだね、花森君」

「はい、ゲンさん……」

 船の物陰から現れたゲンさんはたった数日で更に疲れを顔に溜めていた。運命を受け入れるような力ない悟りだ。座り込む他のおじさん達もそれは同じだった。
 以前の歓迎ムードはない。一触即発の空気は、弓を引いて構えられているみたいだ。

「状況なら言われなくても分かっている。もうすぐここが崩れでもするんだろう?」

「……」

「口に出さなくても良い。ありがとう、その顔で十分だ」

 今にも呼吸を止めてしまいそうな彼の表情に焦りを覚えた。

「ゲンさん、ごめん。ここを破壊しないと、地上が温暖化でとんでもないことになる。少しでも早く、地下を壊す必要があるんです」

「そうか。なら若い君達だけ逃げてくれ。抜け殻たちはここで余生の終わりを迎える」

「皆さんも一緒に来るんすよ。一宿一飯の恩ってやつです。ここでゲンさん達を見殺しにするような真似――」

「出れたとてどうする。仕事は? 生活は? 家はどうする? 住所も保険証もない。そもそも土砂崩れの時に死亡とされ、戸籍もなくなっているだろう」

 凄まじい形相で睨まれ、怯んで声が詰まってしまう。
 締められた喉の代わりに、俺はリュックを漁り始めた。

「何もないだろう。出られたとしても、私達に職なんて――」

「って思ったからこれ! 戻った時に急いで探してきた!」

 新聞紙の間に挟まったチラシをゲンさん達の前に掲げた。
 大きな文字で印刷された題名に皆の視線が集まる。

「求人、募集……?」

「知ってるかもだけど俺の地元、クッソ田舎なんだよ。引退間近の爺ちゃん婆ちゃんばっかで、農家も商店街も人手不足! 介護とかの手も足りてないんだと」

「ふ、ふざけるもの大概に……!」

「真剣っすよ! 俺は子どもだから頭も経験も足りなくて、ふざけてるように見えるかもだけど、少ない知識と経験フル動員なんすよ」

 また固まってしまう前に、まくし立てるように言葉を発し続ける。どこまで伝わるか、どれだけ届くか分からない俺の気持ちを、ただ青臭くがむしゃらに吐き出した。

「こういう口なら変な企業なんて間に入る余地ないぐらいのド田舎だ。最初は余所者って思われるかもしんないけど、俺の知り合いってことならきっと大丈夫だ」

 確証もない話で大人を説得なんて出来ないのは知ってる。絵で食ってくって言い始めた時と同じだ。

「働く大変さも、心の傷も、俺は知らない。同情とか憐れみとか、そんなつもりが俺になくても、こんな事言わて気分が良いもんじゃないってのは想像できる……けど!」

 それでも続けた先にあるものを知ってるから、その努力が連れて行く場所を知ってるから、皆にも伝わってほしかった。

「俺なりに精一杯、考えてみたんだ! ここにいる皆さんも、俺にとってもう見捨てらんない大事な人達だから……何も分からない子どもだけど、分かっていけるように頑張るからさ!」

 それはもう、吠えるような叫びに変わってた。
 言い終えてから、それが対話ではないただの理想の押し付けと気づいて、心臓に冷たい物が流れて来る。

 漂着物で溢れた町に満ちる静寂は恐ろしいものだった。

 その静謐の中、叫んだ勢いで絵の具の一つが地面に転がっていたと気付く。

「……すいません。でも、これが本心なんです」

 屈んで手を伸ばすと、先に細く色白な手が絵の具を掴み取った。
 それを拾い上げた蝉谷さんは俺に代わって、そっとリュックのポケットにチューブを戻してくれた。

「私からも、頼む。この少年の言葉に耳を傾けてほしい」

「蝉谷、さん……」

「関わった時間は短くとも、彼が真っすぐな人間であることはよく理解できた。諸君が過ごした一晩と、ここにいる三人が今、花森君の隣にいる事がその証拠だ」

 蝉谷さんの腕は十時の方角へ伸ばされる。

 指し示した先には俺が描いた皆の絵が、沈没船へ大切に掛けられていた。
 たった一晩の仲で、戻ってこないものだと思ってただろう俺の絵を。雪を被っていても、色はまだ鮮やかに残っている。

「こんな大人になってしまった私だが、青かった時代もあったさ。古ぼけた絵を修繕してくれたように、この少年が思い出させてくれた」

 彼の手の中には鉛筆が握られていた。短くて汚れている一本の鉛筆を蝉谷さんはジッと見つめる。

「私の始まりも、夏だった……誰でもやる、自由研究が私の原点だった」

 その目は過去を投影していた。研究と共に歳を重ねた彼の顔は、今だけは幼い頃の無邪気さをそこに映している。

「あの調査が、冒険のような研究が、楽しかった。研究費の予算上げと論文発表に頭を使う今でも、時々あの頃の高鳴りを思い出す」

 懐かしむ表情は切なさも側面で見せる。買えなかった玩具を惜しむ子供のようだ。

「だが不思議だなぁ。研究者の真似事をしていた頃が、本物の博士になった後よりずっと楽しかったんだから」

 懐古を瞼でギュッと押し込めると、蝉谷さんは俺に顔を向けた。

「たまたま、調査で出かけた時に君達一行を見かけてね」

「俺達を……?」

「そうさ。君があの少女と一緒に、この地下の絵を描いていた時だよ」

 それまで堅かった氷の表情が砕ける。
 穏やかながら温かい、父親のような笑みを蝉谷さんは初めて見せてくれた。

「実に見事な作品だった。こんな不可思議で、明日の行方も分からない場所に落ちて来てもあれほど美しいものが描けるのかと、衝撃を受けた」

 賛辞が今ほど沁みた時はない。

「告白すれば、私も諦めかけていたんだ。ここで起きる悲劇を止めようとしていたことを……だが君が思い出させてくれたんだ。楽しそうに絵を描く君が、凍結した世界で私に希望をくれたのだよ」

「蝉谷さん……」

「その若さを、どうか貫いてくれ」

 肩に乗せられた手には三十六度以上の熱がこもってる気がした。

 そしてゲンさん達は全員立ち上がり、こっちに向かって近付いて来た。その表情は決して晴れてはいない。が、抜け殻だったさっきまでにはなかった生命力を感じた。

「誰にでもあったはずだ、夏の思い出が。冒険が……その続きを、この若者に託してみないか?」

 蝉谷さんの言葉に、俯いてた顔が一人づつ上がり出す。恐れと不安を滲ませながらも、前を向き始める。

「無謀でも、先が見えなくても、今を生きよう。挑戦してみよう。もう一度、私達もあの頃の夏を取り戻すんだ」

 俺の思いも伝え方もまだ未熟だ。蝉谷さんに頼らなかったら、彼らに届くことはなかったかもしれない。
 そして受け取ってくれた事自体も、大人達の優しさなんだろう。助けたいと思ったつもりが、逆に俺の方が助けられているみたいだ。

 それでも確かなのは、諦めた者達の瞳に希望が灯りつつあったことだ。

「先生にここまで言わせてしまっては、言い返すこともできない」

 深いまばたきの後、ゲンさんはシワの深い壮年の微笑みを俺達に向けた。

「あと少しだけ、夏《じんせい》を生きてみるよ」