「笑っちまうだろ? 構わないから笑いなよ、こんな根性ナシの話」

 グラスの氷が割れるような軽い笑い声をユキは無理に出していた。
 散乱した部屋を見渡す顔だけは少しばかり頬を緩ませる。

「スズカだけは一緒に過ごしてくれた。同じ虚しさを抱えてたから」

 懐で小さくなる子アザラシを抱き寄せて少女は目を伏した。

「半年ぐらいの短い共同生活だったけど、今までの人生で言ったら一番平和に過ごせてたかな」

 眠りに入るような力ない声が吐息交じりに発せられる。

「……お前と過ごした数日も嫌だったわけじゃない。でもどうしたって、お前は外の人間だってことが頭にチラついた」

 再び開いた目に怒りはない。代わりに淀んだ悲哀が瞳に沈殿している。

 静かに伸ばした手も、一瞥してすぐに拒絶された。

「そのお節介は偽善だ。だから放っておいてくれ。ボクがいなくなったからって、お前は関係なく大学でも社会でも行けるだろ」

「いいや、無理だ。俺はここでお前を助けられなきゃ、美大には行けなくなる」

「どうしてだよ」

「俺の筆は、この心は、届けたかった気持ちをちゃんと伝えられなかったんだって思い出して、きっと筆を折る」

 よほど断言した俺が意外だったのか、目を合わせもしなかったユキはようやっと顔を上げた。潤んだ瞳は丸い鏡のように俺を反射している。

「ここで出会った全員、俺にとってもう見捨てられない大切な人達になっちまったんだ。そんな人達が目の前で助けられなかったら、弱い俺はきっと立ち直れないよ」

「他人、だろ。お前は外に友達もいて、大事な家族だっている。なのになんで、ボク達なんか」

「俺の欲深さを分かってないな? 家族も、ダチも、恩人も、好きな人も、全員に笑っててくれないと俺は満足して絵が描けないんだ」

 震えは肩から唇の先へ。やがてユキは鼻にかかったような声に変わり、鼻水を啜り始めた。

「今更、母さん達に会わせる顔なんてない」

「俺がいる。一緒に帰ろう」

「帰ったところで、追い出されたらどうなるんだよ」

「それは行ってみるまで分からない。ただもし怒られたって、愛想尽かされたって、胸貸してやれる男はここにいるよ」

 必至に堪えようと少女は唇を噛む。それでも流れる涙までは止められない。
 しゃくりあげる息が次第に間隔を狭めていく。

「お前がまた引きこもっても、俺は無視して部屋に入ってく。そんで勝手に部屋の中漁って、きっとゲームしたり漫画読んだりするぞ」

「――――」

「ユキの絵もまだまだ描きたいし、じっくり見ながら描くのも良いな。お前のことだから、きっとスルー出来なくていつもみたいに俺に突っかかって来ちまうぜ」

「――――」

「沢山描きたい絵があるんだ。その中の一つに、皆が笑ってる絵も描いてみようと思ってる。そん時はちゃんと、ユキにもモデルになってくれないと困るんだよ」

「――――っ」

「腹の底から声出して、涙出るぐらい笑ってる。そんな絵はきっと俺だけじゃなくて、完成品を見たお前らも楽しくなるに決まってる」

「――――そん、なの」

「俺は不器用だから、絵を通じてでしか上手く人と関われない。だから」

 スケッチブックを取り出して、一ページづつ捲る。
 そして出てきたその絵を上下ひっくり返して、ユキの前に差し出した。

「絵の文句があったら言ってくれ。似てなかったら笑ってくれ。じっくりお前を見て、何度でも描いてみせるからさ」

「……これ、ボク?」

 ページに大きく鉛筆で描いた絵だ。紙の中には浴衣のユキがモチマロを抱えて、枕の山の上で笑ってる。

 夜中に記憶を頼りに描いたもんだから、写実的な絵にはならなかった。でもいたずら好きで、子供らしく無邪気で、よく笑うユキの姿は余すことなく表現できたと思う。


 そして隣のページには、たまたまスズカやミカさんと一緒に食卓を囲んでる絵も描いていた。俺はスズカの隣に座りたがってたから、画角が丁度ユキを正面に捉えてたんだ。
 短い黒髪、ペンギンっぽい輪郭線、輝きを失わない瞳の光彩。そっちは丁寧にじっくり描き上げた自信作だった。

 どこまで本物に近くて、どこまで理想的かは見た本人が決めること。
 絵がどっちに寄ってたかは分からなくても、溢れた涙は俺がしっかりユキを『見ていた』と認めてくれた証だった。

「……ばか。なに隠れて描いてたんだよ」

「そしたら今度は堂々と、太陽の下にいるユキを描いたって良いか?」

 嗚咽を漏らすユキは顔を袖で拭う。
 流れる涙が収まるまで待ちながら、彼女の前にハンカチを差し出して待った。

 雪解け水を零す少女へ向け、俺は自分の望みを言ってやった。

「お前がいないと俺の未来図は、一人分ぽっかり空いてて寂しくなっちまうからさ」

 真っ赤に腫らした目から涙を出し切り、ぐしゃぐしゃになった顔を俺のハンカチで拭いていた。
 最後に大きく鳴き声を上げた後、深呼吸をしたユキは落ち着きを取り戻す。

「ソーヤ」

 濡れた目元は氷結を解き、あどけない笑みを俺へ向けていた。

「一緒に、連れてってくれ」

「ああ、任せろ」

 出していた右手は、最後にキュッと握り返してもらえた。