終末を思わせる地響きが雪の家の奥まで轟く。
 陸の孤島となった丘で、建てられたイグルーだけは残っていた。

 家具もひっくり返って荒れた室内。子アザラシを抱いた少女は部屋の隅で肩を震わせていた。

「モチマロ、大丈夫だ。スズカが来てくれるまで、じっとしてれば良い。ボクが得意なことだ……」

 深々と黒パーカーのフードを被って、中にモチマロを入れて座り込んでいる。それは海獣を守っているようで、実は彼女自身もその温もりに縋っていた。

「外なんて見なくて良い。考えなくて良い。こうしてれば、いつもみたいに時間は過ぎるんだよ」

 イグルーに木霊する言葉は、少女自身を守るために吐き出された。それでも、泣きそうな声が落ち着くことはなかった。

「誰も助けてなんてくれない。だけど隠れる仲間は一人、お前の傍にいるよ」

 だから俺は無言のまま、ユキの目の前に座った。

 揺れる床の上で同じように腰を下ろして、話しかけてくれるまで待った。

「……何しに戻ってきたのさ、ソーヤ」

 俯いたままユキは言葉を投げる。暴投でも俺に意識を向けてくれたことが嬉しくて、思わず口角が上がった。

「お前達を地上に連れ出しに来た。このダンジョンがもうすぐ、崩壊するから」

「前に言っただろ。同情なんてすんなよ……惨めに縮こまってるからって、助ける義務も権利もお前には」

「けど話すぐらいの権利は、許してやってくれねぇか?」

 モチマロを抱き締めながらギュッと膝を抱える手を無理に解かせる真似はしない。

「分からないから知りたい。分からないからこそ伝えたい。俺はそういう性分なんだ」

 ここから連れ出す前に、ただ話がしたかった。ちゃんと向き合う時間が欲しかった。

「……無駄話なんてしてる暇なんてないんだろう」

「そんな悠長にはしてらんないかな。けど、ユキと話すことは何も無駄じゃねぇよ」

 デッサンでその輪郭をなぞるように焦らず、落ち着いた息遣いのまま言葉を紡ぐ。
 俺なりの寄り添い方で、会話したいという姿勢を貫いた。

「ユキ、お前はなんでダンジョンから出たくないんだ?」

「……」

「俺にも言えない、深刻な悩みなのか?」

 その問いかけで、凍結していた唇が動き出す。

 哀愁が漂う吐息を漏らして、ポツリポツリとユキの口から言葉が溢れてきた。

「なんてことないよ。ただの不登校な引きこもり、だったってだけ」

 ひび割れる前の堅氷が水滴を流すように、少女からその過去が語られる。


 ※ ※ ※


『男っぽい』とか『女らしい』とか、下らないことを周りが気にし始めたのは、五年生の終わりぐらいだった気がする。

『ユキちゃんって、なんで自分のことボクって言うの?』

『なんでって、言い慣れてるから……』

『それ変だよ、男の子みたいで。普通は私とかウチって言ったりするじゃん』

『別にそんなルールないじゃん』

『それに男の子と遊んでばっかじゃん。だれか好きな子がいるの?』

『いないよ。ドッジボールとか好きなだけだって』

 嘲笑うような、気持ち悪がるような、ゾッとする笑顔を女子達がするようになった

 昼休みに遊ぶ男子連中もよそよそしくなったり、逆に変な目を向けてきたり、これまで通りの接し方をしてくれなくなったのも、同じ頃だ。

 ボクだけ置いて、周りは大人になっていく。羽化する直前の蛹を不気味に思うように、思春期を迎えたクラスメイト達は気味の悪い生き物になった。


 女子は教室じゃ仲良さそうにしてても、陰で人の悪口を言うことが増えた。グループを作って、訳の分からない基準で馬鹿にしてくることも同じぐらい。

 男子は気持ちの良いバカさはなくなって、汚くて人を傷つける事を平然と言えるように変わった。最後に遊んでた友達も、その空気に染まって離れて行った。

 寂しい思いはしても、そこに自分まで沈みたくはなかった。


 悩みを打ち明けた養護教諭も、ボクに共感なんてしてくれなくて、

『みんな同じだよ。先生の時だって周りはそうだったもん』

 受け入れたくない言葉が返って来ただけ。

 いつかそんな風に笑って過去を振り返れるとしても、その態度は今のボクの気持ちを軽く見てるような気がして、無性に腹が立った。

『それにね。男女のあの雰囲気って、大人になっても意外とあのままなのよ』

 その一言で、ボクは学校に行かなくなった。中学一年の夏休み直前だったと思う。


 買い物も出かけないし、知り合いを避けるために登下校時間は絶対家にいた。日に当たる時間も減って、段々と外に出る意味も分からなくなったから、部屋からも一切出なくなった。

 扉の外との繋がりは、母さんとのやり取りだけ。

『ユキちゃん、朝ご飯は食べた? お勉強は大丈夫そう?』

『もうすぐ食べる。映像授業の課題やってるから平気』

『そうなの。なら良いわ』

 平気なんかじゃなかった。食欲は出なかったし、オンライン授業なんてあっという間に追い付けなくなる。
 それでもボクの引きこもり生活は成立してしまってた。

 それはまるっきり、ボクを心配しての配慮って訳でもなかった。

『お母さん、ナオユキ試合に送ってかなきゃだから。お皿だけ流しにお願いね』

『……うん。いつも通りね』

 カーテンの隙間から車に乗り込む弟のユニフォームをよく見送っては、深い溜め息が出た。

 両親の関心はずっと、少年野球に打ち込んでる弟に向かってたんだ。
 スポーツが出来て甘え上手で愛嬌のある弟は、ずっと我が家の出来事の中心に居た。

 別に虐待とか、ネグレクトみたいなものじゃない。単純にボクへの興味が薄かっただけだ。無意識の内に姉弟で生まれる興味の差、悪く言えば贔屓みたいなもの。

 だからボクが不登校でも何も言わなかったのは、優しさなんかじゃないんだ。


 部屋にこもって、タブレットで漫画と動画を漁るだけ。ペンを持つ握力も、外へ出ていく体力も、眠気を覚ますことも、順番に出来なくなってく毎日。
 学力も身長も、あの夏から止まったまま。

『――なんで、こんな落ち込んでなきゃいけないんだろ』

 女子と男子、子供と大人、弟とボク。考えたら皆、同じことをしてるだけだった。

 誰もボクに興味がない。単純にそれだけなんだ。それ以上でも以下でもないってやつ。
 興味を持たれてないから、他人と比べて気分が沈む。

 周りの目をどうでも良いと思ったなら、その比較することも止めて良いんだってその時やっと気付いたんだ。

『ボクに誰も興味ないなら、何したって関係ないよね』  

 犯罪に手を染めようとか、そんなつもりはなかった。ただ何にも縛られず、誰の意見も気にせず、心のままに暮らせたらそれで良かった。

 山小屋で寝て、川で魚を釣って、食事が終わったら寝る。そんな生活が送れたら良いって漠然と思い描いてた。


 家から鍋やマッチ、トイレットペーパーに着替えを数着持ち出したりして、ある日家を抜け出した。
 考えなしに、やけくそでやった家出だ。人目に付かないところが良いってだけで、山の獣道を進んでた。

『もうちょっと離れよう。神社から近いとこはダメだ。もっと奥に――』

 そしてボクは、ぽっかり空いた穴の中に吸い込まれた。
 小さい頃から変わってないボクが、昔の夏を思い出す涼しさがある地下に落ちたことは運命だったって今でも思ってる。

 この凍った世界にやって来れてようやく、ボクはプレッシャーのない人生を手に入れられたんだ。