鋼鉄のボートが凍結した斜面を疾駆した。ガラクタで作られたディーゼルエンジンと駆動モーターで加速し、荒い雪道も水上スキーが如く駆け抜ける。

「蝉谷さん、こんなバギーまで作れたんすか!」

「なに、ハリボテだ。耐久強度はさほどない」

「ちょっとちょっと、途中でぶっ壊れたらシャレにならないよ!?」

 ガタガタ、ギシギシと不安な音が機体から聞こえる事にはこの際目を瞑った。
 そのハンドルを慣れない力技で制御している蝉谷さんに文句なんて言えない。

「それにしたって、なんでこんな急にダンジョンが凍り出したんすかね」

「元々限界だったのさ。クリオス結晶が生み出した大気のバランスが、夏の本格的な暑さで瓦解したんだろう」

「入口も田んぼ近くから生えるぐらい伸びてたっすからね。てか俺が出入りした影響もあったりします?」

「人の出入りなど微々たるものだ。仮に影響があったとしても、君に落ち度はないさ」

 自分でも恥ずかしいぐらいその思いやりに安心させられた。操縦で手いっぱいな当人はそのことに気付いてるかは分からないけど。

「でも本当にこの急速冷凍と上の超猛暑化、止められるんですか?」

「勝算はある。対策について話すつもりだったが、今は運転に集中させてくれ」

「二人とも、上っ!!」

 ミカさんの声に反応した時には、巨大な影が俺達を飲み込んでいた。
 氷塊というには途方もなく巨大な山が頭上を通り過ぎて行く。

 雪崩か、はたまた氷晶の鯨の影響か。空を舞う氷山は進行方向の数百メートル先に落下した。


 地面がひしゃげる。なだらかだった下り坂は急激に勾配のある地形に変遷した。車体は容易く宙へ浮かぶ。

「やっべ!」

 反応も何もかも遅かった。気付けば俺だけバギーから投げ出され、地に刺さった氷山の頂上を飛び越えてしまった。

「坊主!」
「花森君っ!」

 二人の姿は氷山の陰に隠されてしまう。

 身体はゴツゴツした氷の斜面に打ち付けられ、積もった雪の中へ転がされる。
 背中に痺れる痛みが走ったものの、受け身は辛うじて取れたおかげで怪我はない。立ち上がるまでしばらく唸りを上げた。

「大丈夫!? 落ちてきたみたいだけど、痛いとこある!?」

「――へっ?」

 聞き馴染みのある風鈴の声音。痛みも忘れて、聞こえた方へ顔を向けた。

 それは何時ぞやの出会いと同じだった。氷の中で向日葵が咲くように、駆け付けた少女が俺の方を見ている。
 この極寒も忘れてしまうほど、鮮烈で日差しに似た眼差しはこの瞳を貫いていた。

「スズカッ!」

「えっ、ソーヤ……!?」

 ギョッとしたものの、スズカは否応なしに俺を立ち上がらせ、怪我の確認までしてくれた。
 疑問で頭を埋め尽くされているのは承知で、俺はこの状況の危険性の伝達を優先する。

「緊急事態なんだ聞いてくれ。このダンジョンはもうすぐ凍って、地下も地上も大変なことになるんだ!」

「どういうこと?」

「簡単に言うと、ここの氷をぶっ壊さないと地上が超猛暑でみんな死ぬ! 気温も五十度行くって!」

「そんなっ。どうしてそんな事に……他の皆は!?」

「悪いけど、とにかく詳しいことは後だ。山の向こうに蝉谷さん達がいるから、まずは合流しよう」

「……分かった。みんなは助ける」

「良かった。それなら――」

「けど」

 戻ろうとした俺の後ろにスズカは着いてこなかった。その場で立ったまま、仏のような笑みを浮かべるだけ。
 何を考えているか、見たら俺でも分かったさ。

「私の事は気にしないで良いから、先に逃げて」

「そう言って、自分を犠牲にするつもりだろ」

 またスズカが遠くに離れてしまう。今度はもう手が届かないところまで。
 そんな恐ろしい予感が心臓を撫でて警告してきた。

「ユキはまだ家にいる。ゲンさん達も町に集まってる筈だからそこに……」

「だからスズカが、どうするんだって聞いてるんだ」

「皆を助けるためなら、誰かが最後まで残る必要があるでしょ?」

「どうしてその助けなきゃいけない人の中に自分を入れない!」

 具体的な解決策は何も教えていない。それで殿(しんがり)を務めるだなんて言い訳、今更通じない。この非常事態でもっともらしく逃げない理由を出してきただけだ。

 説得でも懐柔でも良いと、寒さで血の詰まった頭を回そうと足掻いた。

 けどその葛藤も吹き消そうとするように、スズカは突然話し始める。

「……昔、ソーヤみたいに、私とよく遊んでくれた男の子がいたんだ」

 時間が飛んだように切り出された話に思考が止まった。
 間抜けな声を漏らす俺なんて気にも留めず、スズカはとうとうと続ける。

「幼馴染ってやつかな。近所に住んでて、中学までずっと同じとこ通ってた」

「急に、何を……」

「私はさ、その彼のことが好きだった。思春期に入ってやっとその初恋に気付いたの」

 いつもは太陽に劣らない明るさを持つスズカが、今ばかりは雪の結晶のような脆さを見せていた。いとも簡単に崩れそうな声は切なさを宿している。

「でもね。初恋が叶わないって本当なんだね。最後まで、私の一方通行だった」

 遠くの吹雪、氷土が繰り返す隆起と沈降、山の反対から響く掘削の音。その全部が鳴り響く中でも、彼女の声はハッキリ聴きとれた。


「死んじゃったんだ。その幼馴染」


 事実を告白するスズカ。彼女の姿以外、視界からホワイトアウトして消えていった。

「交通事故でね。車が来てるの気付けなくて、そのまま……」

 その体がいつもより小さく、幼く見えた。眼前の少女は泣くのを堪える小さい女の子なんじゃないかと錯覚させる。

 きっと俺が見えていなかった一面。凪沢涼香が心を凍らせた頃の姿なんだろう。

「小さい箱に入った彼を見て、もう限界来ちゃった。見送るのも……それで三回目だったから」

「三回目? って、まさか……」

「一回目は火事で父さんが。二回目は母さんが病気で、ね。中学の制服も見せられなかった」

 俺の言葉はあっけなく霜に覆われてしまった。


『誰も帰りを待ってない家に帰り続けるのがどれだけ辛いか』


 あの時の言葉のリアリティが、想像できる暗く静かな部屋が、あの明るいスズカが影を落とす姿が、恐ろしいほど鮮明に伝わってきた。
 筆舌しがたいその悲哀は、腕を爪で掻く仕草や押し殺したような声音が物語っている。

「よっぽどショックだったんだと思うんだ。施設に入って、高校は何とか通ってたんだけど、その間の記憶があんまりないんだ。健忘症ってやつ?」

 強い心的外傷を多感な時期に負うと、そういう記憶の混濁が起こりやすいと聞いたことがある。
 PTSDだ。それも十八までの人生で家族と大事な人が三人もいなくなっていったとなれば、容易に癒えるものではない。

「彼の命日に毎年来てくれる女の子がいてね。同い年で、優しそうな子……幼馴染の、彼女さんが」

 それでも努めて、スズカは涙を流さなかった。

「いつもお墓に綺麗なお花が飾られてるの見てたら、自分の居場所が分かんなくなっちゃった」

 泣いて欲しいと思った。そんなに胸が張り裂けそうな顔で耐えるぐらいなら、代わりに泣いてやりたいと思えるほどに。

「ソーヤを助けたのもさ……君が、彼に重なって見えたからなんだ」

 たとえその動機が真実でも、その行動は変わらない。
 それはスズカの優しさなんだって、胸を張っても良いものなんだって言いたかった。

「せめて居場所はなくしたくなかったから、皆に優しく出来た。それで自分の必要性を求めて、先のことを考えなくて良いように人助けをしてた」

 それでも自分が行ってきた善行を偽善と言い切るスズカに、俺の言葉は届かない気がして口に出せない。

「だから人助け(これ)、自分のためにやってるだけだから。気にしないで」

 スズカ本人に自覚があるかは分からない。だが嫌でも理解してしまった。

 彼女はもう、死に場所を探しているだけだということを。

「このダンジョンが凍ってなくなるなら、私も一緒に氷になる」

 少女は踵を返し、吹雪の中へ溶けていく。凍った花は散るために歩みを進める。

 その手をもう一度握ろうと、息も吸えずに俺は駆けた。

「スズ――」

「私の夏は、冷えて終わるんだ」

 走り出した彼女の足に俺は追い付けなかった。

 掴み損ねた勢いで足元を滑らせ、この手は虚しく空を切った。地面に叩きつけられた顔を再び上げた時には、向日葵の陰はもう俺の前にいなかった。

「花森君だ、倒れているぞ!」

「坊主、どっか怪我でもしたか!?」

 二人の声が背後から聞こえる。
 迫ってくるその足音に共鳴し、脆弱な心臓は強く脈打った。巡る血は俺に覚醒を求める。

「……だったら、お前の代わりに俺が全員助けるよ」

 沈黙の大地に自分の無力さと、決意の表明を叩きつけた。

「凍らせる暇なんてやらねえ、死に場所を探させる時間も取らせねえ」

 奇跡のような数日間。夏の暑さに負けそうだった俺を生き返らせてくれたあの一時。

 夏の夜の夢に似たあの思い出をもっと、これからも、君と作っていきたいから。


「俺の世界にはスズカが必要なんだって、俺も人を助けて証明してみせるよ」