ミカさんが身の上話を語り終えたのは、流氷の移動や揺れが収まった頃とほぼ同時だった。煙草の白い部分はもう全て灰になっている。

 灰が風に乗っていく時、俺の胸も恐れが走っていた。

「なんか偶然っすね。俺もその、ミカさんみたいに息苦しい日常から抜けたくて、絵描いてるとこあるんで……」

「坊主の方が賢いぞ。その歳から気付いて心構えしてんだから。アタシは実際に目の当たりにしてからやっとだったよ」

 煙草をつまんでたその手を、ミカさんはポンポンと俺の頭に乗せてくる。

「坊主。大人ってのはな、テストの答案用紙じゃないんだぜ」

「と言いますと? 」

「正解なんてないのに、正解があるもんだって大人はみんな思ってるんだ」

 その横顔は大人の優しさと、子供の純粋さが混じっている気がした。

「ただ失敗してないだけで生き残った連中は、自分の生き方を『正解』だと思って堂々と話してくる。それに惑わされんな」

 滑らせるように手を横へ切って、ミカさんは俺の頭を一撫でした。

「ただそれでも、お前よりは人生の先輩だ。言うこと全部が役に立たないって訳でもない」

「難しいっすね。俺にはてんで見分けが付かないっすよ」

「なに、そんなの簡単な話だ」

 細長いその人差し指は頼りないこの胸をトンと叩く。

「自分が目指す生き方の先にいる人間を、先輩として参考にしな」

 穏やかに微笑みかけるミカさんの姿に、俺は目指すべき姿の半分を見た。
 そしてもう半分は、ダンジョンに初めて落ちてきた時から決まっている。

『目の前からいなくなってほしくない。だから助ける』

 ほんのちょっと先の自分の姿が鮮明に映った気がする。その答えを知っているから、俺がそれ以上迷うことはない。

 気付けばミカさんへの感謝と尊敬の念を口にしていた。

「ミカさんは、走って走って、安全な所までちゃんと逃げてこれたんすね」

「安全かは知らないけど、楽な方に流れてったのさ。まったく、自分で話してて惨めになるね」

「それ、ちゃんと凄いことっすからね?」

「凄いって、何がよ……」

「ミカさんは変わらずそのまんま、死ぬまでずっと逃げてやりましょうよ。鬱陶しいものから」

 諭したばかりの坊主に言われるのは想定外だったのか、彼女は目を皿のようにしてる。

「逃げて逃げて、もっと逃げて、逃げ切るつもりで走っていきましょうよ」

 ミカさんは自分で言っていて分かってなかったみたいだ。
 彼女はその生き方を『失敗』だと思い込んでるだけで、本当はミカさんなりの『正解』を進んでることを。

 そうじゃなかったら陸上を止めたその足で、俺を二度も救った筈がない。
 俺が今笑えてることを、心からミカさんに敬意を抱いてることを、間違いだなんて言わせる気なんかないさ。

「そろそろ気付きません? ミカさんのそれは敗走じゃなくて、前に進んでるってことに」

「坊主……」

 口を開いたまま、その三白眼が真っすぐに俺を向いていた。
 その一瞬の間にどんな心情の変化があったかは分からないけど、目に宿った淡い輝きは希望を映してたと願う。

「……ははっ。三十路手前の女を誑かすなんて、将来が心配だ」

「ええ。きっと不安定で普通じゃない生き方してるかもっすね、俺」

 暑さに耐えきれず飛び出した二人で、横に並びながら笑い合った。

 その最中、前方から向かってくる人影を見た。その細身で肩を弾ませるシルエットで、運動不足な学者の走り方だとすぐ分かった。

「ん、あれっ? 蝉谷さんっ!? おーい!」

 こっちに気付いた蝉谷さんは手を振って駆け寄ってきた。


「地下空間の出口を確認しに来た」と話す彼に、俺達は座らせて深呼吸で落ち着かせた。額の汗を拭って蝉谷さんはホッと息をつく。

「花森君、良かった。戻ってきたのか」

「はいっ。地上、もう四十五度超えてました! 蝉谷さんの予想通りでした!」

「やはりこちらが冷え込んだと同時に……救助隊は!?」

「すんません、訳あって呼んでません!」

「はあぁっ!?」

 驚愕で荒ぶる蝉谷さんをどうにか宥めようとした。
 ブツブツと呟きながらその場を旋回し始めたから、ミカさんと協力して一度その場に立ち止らせ、説得を試みた。

「助けを呼べない事情があるんす。けど、ここをどうにか出来れば解決、ってことですよね?」

 祈るような眼差しを最初はシワの寄った眉間で受け止めていたが、空気を抜いたような吐息と共にどうにか納得してくれた。

「……どのみち、この短時間で救助隊や自衛隊を呼べる訳もなかったか。それなら君が戻ってきてくれただけも助かった」

「助けたい気持ちに偽りはありません。ここにいる皆も、地上にいる人達も、全員を救いたいんです」

「そうだな……少々情動的だが、君の愚直さは嫌いではないよ」

「っ、恐縮、です?」

「なぜ硬くなる」

 不愛想でコミュニケーションは効率重視みたいな人の見せた雪解けのような誉め言葉は、不意打ちで心に沁みてきた。

「時間がないが、大まかな目標を先に言っておこう」

 蝉谷さんは指先を蒼い天井に向け、その手を握り直す。

「地上の急速温暖化現象だが、このダンジョンが先に崩壊すれば解決するだろう」

「崩壊って、どうなるんすか!?」

「安心したまえ、全員脱出は前提での話だ」

 上に向けていた指を今度は地面へ下し、彼は強く押し込む動作を目の前でして見せた。
 毅然な態度と揺るぎない瞳が、予想と計画への信頼度を物語る。

「クリオス結晶を破壊し、一気に放熱させれば最小の被害で済む」