承知しました、ありがとうございます、申し訳ございません……そんな言葉を繰り返す毎日は、八月のグラウンドよりよっぽど息がしづらかった。
Excelに数字を打ち込んで、上司へ送るチャットを考えながら、隙を見ては知恵袋とチャットAIで暇を潰す。
デスクに座ってる事も、窮屈な事務服を着てる事も、違和感で溢れてた。
『潮沢さん、今良いかな?』
その呼び方さえ疎ましく思えた。自分の名前だっていうのに、いつしか下の名前を口にして違和感さえ感じるようになった。
だって昔は、そんな味気ない呼ばれ方なんてしてなかったから――
『ミカ、関東大会も突破したんだってね。おめでとっ』
『潮沢先輩なら、全国も狙えますって!』
『みーちゃん昨日もタイム縮めてたよね。ホントにオリンピックいけるんじゃない?』
友達や仲間がしてくれるその呼ばれ方が好きだった。ちゃんとアタシを見てくれてるようで、嬉しかったんだ。
『ホントにオリンピック出れたら、ちゃんと会場まで応援来てねっ』
何もかも上手くいってた。陸上での経験、一世一代のチャンス、その足で掴み取った大学の推薦。
そのまま行けば理想の、とまではいなかくても後悔のない人生が送れるって漠然と考えてたっけ。
広くて高い夏空が見守る赤いタータンが、アタシの居場所。人生だった。
『さて、追加でもう一本だけ行……』
ブツン――。足から上って来たその音が耳元で爆発するまでは。
『切れてしまってますね。アキレス腱』
医者に宣告された時から、走って来た道がぱったり途切れた感覚だった。
リハビリできるまでも時間がかかって、走るために鍛えた体は最高水準まで戻らなかった。結局大学に入っても国体レベルの走りはもう出来なくなってて、ズルズルと過ごした末に一般企業に入った。
『潮時、なのかな……』
気が付けば三十も見えて来てた。のに、思い出す記憶はずっと高校時代のことばかりだ。
その日も過去の記憶を、上司からミスの注意を受けてる時に思い返してた。
『潮沢さん?』
『えっ? あ、すいません。何でしょうか?』
『ああいえ、もう大丈夫です。仕事に戻っていただいて結構ですので』
愛想を尽かしたような上司の溜め息も気にならなくなった頃だ。
何も感じない、何も心は動かない。その落胆は自分じゃなくて、目の前の別人に言われてるみたいな感覚だった。
あの時怪我をしてなかったら、まだ今も走れてたら、夢を失わずに続けられてたら。
人生って名前の長距離走を走ってる実感がなかった。別人の人生を近くで俯瞰してるのに近かった。
『――へ?』
だからかな。真っ黒なモニターに映った不気味な顔が見えたのは。
『だれ、この顔……?』
小皺と目元のくまが刻まれた知らない顔があった。
見慣れた少女らしい顔つきは消えて、疲れの溜まった壮年の女性の人相。母親と一瞬見間違えたその顔に、吸い込まれそうな恐怖感があった。
『これ、本当にアタシ?』
現実感のない生活の答え合わせは、単純だった。
人生のコースラインを走ってると思ってたけど、心はずっとあの頃のタータンに立ったままだったから。それだけのこと。
そんな悩みを人に打ち明けてみたこともあった。
『珍しいね。潮沢さんの方から相談あるって』
『すいません急に。柳主任になら話せそうだったので』
『同期なんだし役職は付けないで呼んでよ。俺で良ければ話して』
話すのが得意なわけじゃなかったけど、自分なりの言葉で一生懸命伝えてみた。アタシの過去や、今も悩みも。
けど返ってきた言葉に、アタシを救ってくれるものは何一つなかったんだ。
『そっか。だから最近調子よくない感じだったんだ』
全然違う。私はずっと前からこうだった。
『俺も甲子園出れなかったから気持ち分かるよ。そんぐらいの頃の挫折って、どうしても引きずっちゃうよなぁ』
本当にそう思ってる? アイデンティティだったものがなくなって、人生が変わるかもってチャンスが消えた事、経験したことあるのか?
『俺、二浪してたから皆より年上じゃん? けど誰より仕事できなくて悩んでた時、先輩が言ってくれたんだ』
同じ言語なのに言葉が頭に入ってこない。彼はまるで壁に向かって話してるみたいだ。
『大人はちょっとづつ過去の失敗を乗り越えて、段々仕事に向き合っていけるもんだ。ってさ』
あ、コイツと話しても無駄だ。心の底から痛感した。
『どう、少しは役に立てたかな?』
分かった気になって、そっちが一方的に話して気持ち良くなって、「良いこと言ってやったぜ」って顔でニマニマしてる姿が無性にムカついた。
『――ええ、ありがとうございました』
そしてアタシは絶望した。いかにも普通っぽい社員代表みたいな彼に言われたことで分かっちゃったんだ。
会社の中には色んな人間がいる。でも結局、会社で生きていける人間が集められてるだけだってこと。
会社は昔の夢をきっぱり忘れて、結婚生活とか出世とか地に足のついた悩みを持てる人間だけが生きてける世界なんだって。
「あの頃の夢を今から叶えるには」なんて考えながら退職届の書き方を調べてる女の生きる道は、ここにはないってことを。
アタシは初めて、長距離走で根を上げた。
『やめやめ、こんな負けレース』
そう言って辞表を机に置いて、ギョッとした上司の顔見たらちょっとだけスカッとしたと思う。それ以降はあんまりもう覚えてないけど。
貯金もあったし、後で生活に困ったとしてもここで心が腐ってくよりはマシだと思った。
少ないお金を切り崩して、慣れないお酒と煙草で気を紛らわせて、昼間からボヤっと公園を徘徊する。時々走っては、人目も気にせずベンチで昼寝して、たまに子供へちょっかいかける生活。
誇れるような生き方じゃなかった。明日の暮らしも想像できない日々だったけど、前より心は軽くなった気がした。
あの頃は何もかも面倒で、どうなっても良かった。
Excelに数字を打ち込んで、上司へ送るチャットを考えながら、隙を見ては知恵袋とチャットAIで暇を潰す。
デスクに座ってる事も、窮屈な事務服を着てる事も、違和感で溢れてた。
『潮沢さん、今良いかな?』
その呼び方さえ疎ましく思えた。自分の名前だっていうのに、いつしか下の名前を口にして違和感さえ感じるようになった。
だって昔は、そんな味気ない呼ばれ方なんてしてなかったから――
『ミカ、関東大会も突破したんだってね。おめでとっ』
『潮沢先輩なら、全国も狙えますって!』
『みーちゃん昨日もタイム縮めてたよね。ホントにオリンピックいけるんじゃない?』
友達や仲間がしてくれるその呼ばれ方が好きだった。ちゃんとアタシを見てくれてるようで、嬉しかったんだ。
『ホントにオリンピック出れたら、ちゃんと会場まで応援来てねっ』
何もかも上手くいってた。陸上での経験、一世一代のチャンス、その足で掴み取った大学の推薦。
そのまま行けば理想の、とまではいなかくても後悔のない人生が送れるって漠然と考えてたっけ。
広くて高い夏空が見守る赤いタータンが、アタシの居場所。人生だった。
『さて、追加でもう一本だけ行……』
ブツン――。足から上って来たその音が耳元で爆発するまでは。
『切れてしまってますね。アキレス腱』
医者に宣告された時から、走って来た道がぱったり途切れた感覚だった。
リハビリできるまでも時間がかかって、走るために鍛えた体は最高水準まで戻らなかった。結局大学に入っても国体レベルの走りはもう出来なくなってて、ズルズルと過ごした末に一般企業に入った。
『潮時、なのかな……』
気が付けば三十も見えて来てた。のに、思い出す記憶はずっと高校時代のことばかりだ。
その日も過去の記憶を、上司からミスの注意を受けてる時に思い返してた。
『潮沢さん?』
『えっ? あ、すいません。何でしょうか?』
『ああいえ、もう大丈夫です。仕事に戻っていただいて結構ですので』
愛想を尽かしたような上司の溜め息も気にならなくなった頃だ。
何も感じない、何も心は動かない。その落胆は自分じゃなくて、目の前の別人に言われてるみたいな感覚だった。
あの時怪我をしてなかったら、まだ今も走れてたら、夢を失わずに続けられてたら。
人生って名前の長距離走を走ってる実感がなかった。別人の人生を近くで俯瞰してるのに近かった。
『――へ?』
だからかな。真っ黒なモニターに映った不気味な顔が見えたのは。
『だれ、この顔……?』
小皺と目元のくまが刻まれた知らない顔があった。
見慣れた少女らしい顔つきは消えて、疲れの溜まった壮年の女性の人相。母親と一瞬見間違えたその顔に、吸い込まれそうな恐怖感があった。
『これ、本当にアタシ?』
現実感のない生活の答え合わせは、単純だった。
人生のコースラインを走ってると思ってたけど、心はずっとあの頃のタータンに立ったままだったから。それだけのこと。
そんな悩みを人に打ち明けてみたこともあった。
『珍しいね。潮沢さんの方から相談あるって』
『すいません急に。柳主任になら話せそうだったので』
『同期なんだし役職は付けないで呼んでよ。俺で良ければ話して』
話すのが得意なわけじゃなかったけど、自分なりの言葉で一生懸命伝えてみた。アタシの過去や、今も悩みも。
けど返ってきた言葉に、アタシを救ってくれるものは何一つなかったんだ。
『そっか。だから最近調子よくない感じだったんだ』
全然違う。私はずっと前からこうだった。
『俺も甲子園出れなかったから気持ち分かるよ。そんぐらいの頃の挫折って、どうしても引きずっちゃうよなぁ』
本当にそう思ってる? アイデンティティだったものがなくなって、人生が変わるかもってチャンスが消えた事、経験したことあるのか?
『俺、二浪してたから皆より年上じゃん? けど誰より仕事できなくて悩んでた時、先輩が言ってくれたんだ』
同じ言語なのに言葉が頭に入ってこない。彼はまるで壁に向かって話してるみたいだ。
『大人はちょっとづつ過去の失敗を乗り越えて、段々仕事に向き合っていけるもんだ。ってさ』
あ、コイツと話しても無駄だ。心の底から痛感した。
『どう、少しは役に立てたかな?』
分かった気になって、そっちが一方的に話して気持ち良くなって、「良いこと言ってやったぜ」って顔でニマニマしてる姿が無性にムカついた。
『――ええ、ありがとうございました』
そしてアタシは絶望した。いかにも普通っぽい社員代表みたいな彼に言われたことで分かっちゃったんだ。
会社の中には色んな人間がいる。でも結局、会社で生きていける人間が集められてるだけだってこと。
会社は昔の夢をきっぱり忘れて、結婚生活とか出世とか地に足のついた悩みを持てる人間だけが生きてける世界なんだって。
「あの頃の夢を今から叶えるには」なんて考えながら退職届の書き方を調べてる女の生きる道は、ここにはないってことを。
アタシは初めて、長距離走で根を上げた。
『やめやめ、こんな負けレース』
そう言って辞表を机に置いて、ギョッとした上司の顔見たらちょっとだけスカッとしたと思う。それ以降はあんまりもう覚えてないけど。
貯金もあったし、後で生活に困ったとしてもここで心が腐ってくよりはマシだと思った。
少ないお金を切り崩して、慣れないお酒と煙草で気を紛らわせて、昼間からボヤっと公園を徘徊する。時々走っては、人目も気にせずベンチで昼寝して、たまに子供へちょっかいかける生活。
誇れるような生き方じゃなかった。明日の暮らしも想像できない日々だったけど、前より心は軽くなった気がした。
あの頃は何もかも面倒で、どうなっても良かった。



