「ここだな……蝉谷さんが入ったダンジョンの入り口」

 見上げれば鳥居が見える山道の中腹。地図に記されていた洞窟へ続く穴は人知れず門を開いていた。
 生暖かい熱気が吐息のように吹いてくる。

「待っててくれよ」

 一度家に戻って念入りに装備も整えてきた。覚悟も忘れず装着する。
 意を決して踏み込んだ穴の奥は、足を進めるごとに湿気がジットリ纏わりついて来た。


 洞窟の深くはひんやりしている、なんてことはない。
 ゴツゴツした岩の壁は湿っていて、風が抜けようとヌルりと熱波が襲ってくる。

「暑い……サウナと変わんないな。地熱って感じの風が上がってきてる」

 塩飴と棒アイスを口に入れ、蒸し暑さを紛らわす。

 気温は高くて厳しくても、外の日差しに比べたらマシってものだ。それにクリオス結晶が適度に生えてるお陰で懐中電灯がなくても通路は明るかった。
 日光を反射して増幅する効果でもあるのか、数が増えていくごとに洞窟は自然光の白い明度を上げていった。


 次第に昼の明るさと変わらないほどのエリアに到達した頃、目の前には小さな熱帯雨林が広がってた。
 緑溢れる植物の隠れ家は、鮮やかな果実を実らせて生息している。既視感のある真っ赤な果実が特に目に入った。

「ドラゴンフルーツ……そっか、ダンジョンで食った南国の果物はここで生えてたのか!」

 スズカの用意してくれてた冷凍フルーツ。あれは全部ダンジョンの中じゃなくて、この洞窟から落ちてきたものだろう。

「落ちて来てた。なら、やっぱこのルートはダンジョンと出入口が安定して繋がってるってことか!」

 脱出ルートが確立されている事は重要だ。皆が一斉に逃げるとしても、わざわざ山の噴気孔まで登っていく必要はない。洞窟ルートは道もそこまで険しくない。

 そして希望は光として見えてきた。

 小さなジャングルの隙間から、眩い蒼光が漏れ出している。植物を掻き分け、走り始めた。

「頼む、もう一回だけ入れてくれ」

 はやる気持ちのままに、熱帯植物を押しのけて潜る。冷気も次第に流れて来た。
 プールの底を目指す時みたいに、下から浮かせてくる風に抗って出口へ這っていく――



 キュポンッ、とラムネの瓶を開けたように、風を抜けて飛び出した。


 この全身は絡みついた熱を捨てて、蒼白の世界に身を投じる。全身を大の字に広げ、再び清涼な蒼穹を抱き締める……筈だった。

「うそ、だよな?」

 海は凍結して陸と地続きに、風に舞う魚は冷凍され、純白が蒼に勝って世界を覆う。流動する水はなく、ひたすら氷雪がダンジョンを支配している。

 涼夏の気配はない。ただ残酷な銀世界があるだけ。

「風っ! こんな寒かったっけ!?」

 針で刺すような冷たい痛み。一メートル、二メートルと落下する毎に風がビリビリと肌を蝕む。指先には霜が付着していた。
 上昇気流も前とは比較にならない荒れ具合だ。

 数日前の涼しさは失せて、ダンジョンは完全な極寒へ変貌していた。


 激しい上昇気流のおかげで着地は存外すんなりと済んだ。
 硬く凍った大地を踏みながら、一変した避暑地の惨状に息を飲んだ。

「なんでこんな氷が……?」

 見渡した周囲は魚は氷の波に飲み込まれ、海獣達も行き場を失って立ち往生していた。
 氷河期に時代が戻ったようだ。熱気も血生臭さもない代わりに、無情な零度の死が蔓延している。

 生命も、景色も、音も、凍てつく空気が消し去ってしまう。
 ――それは俺も例外ではなかった。

「ッ!? 足がっ……!」

 呆然と立っていた足元から冷気が這い上がっていた。霜が靴に伸びてきて、今まさに足首まで凍結しようとしてた。

 凍傷、足の切断が頭を過った瞬間、慌てて足をバタバタ動かした。

「ハァッ、ハァッ、持ってかれるとこだった。これも、クリオス結晶の効果……?」

 改めてあの結晶の恐ろしさを目の当たりにした。

 それと同時だった。雪崩が俺を追いかけてきたのは。

「ちょっとオイオイなんでこっちに……いや、またお前か!」

 粉雪を巻き上げ、氷の地面を割って進む巨大な魚影。飛び出してくる前に、その不気味な高周波音が辺りを震わせた。

 跳び出して空を仰ぐダイヤモンドのような皮膚の巨躯。その破壊的な質量で史上最大の哺乳類はダンジョンを遊泳する。


 氷晶の鯨はそのまま凍土へダイブし、二百トン以上の重量で叩き割りながら再び潜水していった。

「くッ!」

 鯨の鳴き声が遠のく中、舞い上がった雪を俺は全身に浴びちまった。

 先の這い上がる冷気を思い出し、背筋まで凍った。雪に水まで被った俺は全身を氷漬けにされてしまうんだと。

「――ッ! 凍結が、収まった?」

 恐る恐る目を開けて確認しても、霜は身体のどこにも現れていない。
 それどころか、さっきまでの凍てつく空気が少しばかり緩和され、以前の涼やかな気温が戻ったようにさえ感じた。

 この現象と鯨が大暴れしてる事に関係があるかは分からない。今は生きたまま氷像にならなかったことに安堵するばかりだ。

「って、安心してられっかよ」

 氷晶の鯨がカチ割った影響は俺の足元まで到達する。
 踏んでいる地面の氷は限界まで細かくひび割れ、下手な体重移動の一つで俺は水底行きまっしぐらだった。

 氷結世界の追い打ちに思考が追い付かない。そう諦めかけた刹那、

「そこで待ってろ、ソーヤの坊主!」

 紅の髪を揺らし、揺れ動く流氷の走り抜ける女性の姿が飛び込んできた。

「ミカさん!」

「坊主、そのまま手ぇ出せ!」

 伸ばした右腕をガッシリ掴み、ミカさんは背負い投げる要領で俺を背に抱えて走った。

「てかお前戻ってきたのか!?」

「はいっ、皆さんに伝えなきゃいけないことがあるんです!」

「そうなのか? なんとなく分かったけど、まずこれ切り抜けてからな!」

 足を滑らせかねない氷結した地面にも関わらず、彼女は全力疾走とほぼ等速で駆け抜ける。
 時にスケートの如く滑り、ジャンプし、驚異の体幹とバランス感覚で流氷地帯を抜けていく。息を切らさず、話す余力まで残してだ。

 瓦解する氷地を超え、安全な陸地まで到着するのはあっという間だった。

「やっぱ足速いっすね」

「そりゃお姉さんは昔、関東代表にも選ばれた陸上選手だったからな。あと一歩でオリンピック行きだったんだぞ?」

「マッ!? 身体能力エグいとは思ってたけどそんな」

 ミカさんは自慢げにトンっと胸を叩いた。でもその表情はすぐ変わって、疲れと憂いを帯びた笑いを漏らす。

「あの頃は楽しかったなぁ……こんなちゃらんぽらんな生き方しなくたって、心の底から笑えてたよ」

 その場にドカッと腰を下ろしたミカさんは遠い目で氷河を眺めたまま、その隣に俺を誘う。

「落ち着くまで、ちょっと付き合えよ。お姉さんの無駄な昔話にさ」

 おもむろに取り出した煙草に火をつけ、彼女はそっと咥える。
 話し始める前の一吸いはやけに長く、吐き出す煙は甘ったるい匂いがした。